第14話 ミアとみなと
昨日はミアに会えなかった。それだけのことのはずなのに。
喉の奥に小さな違和感が引っかかったまま、飲み込もうとしても消えない。意識から外そうとするたびに、むしろ輪郭だけがはっきりしていく。
数日話しただけの相手だ。連絡先も知らない。来るかどうか曖昧な存在に、ここまで引っ張られる理由なんて、本来どこにもない。
それでも、時間だけは正確に覚えていた。待つつもりなんてなかったはずなのに、気づけば同じ時間を意識している。理由のない習慣みたいに、体だけが先に反応していた。
今日は学校もバイトも休み。
やることはあるはずなのに、どれも続かない。
本を開いてページをめくっても、文字はただ視界を流れていくだけで、意味として頭に残らない。
同じ行を何度もなぞって、ようやく読んでいないことに気づく。
息を吐きながら視線を外し、時計を見る。
まだ少し早い。行く理由なんてどこにもない時間帯だったが、それでも行かない理由も見つからなかった。
「……行くか」
小さく呟いたあと、湊は椅子から立ち上がる。考えて決めたわけではない。むしろ考える前に、体の方が先に動いていた。
⸻
駅に着いたとき、空気は昨日とほとんど変わらなかった。
湿った重さが残ったまま、夕方になりきらない時間がホームに広がっている。人の流れはあるのに、どこか停滞しているような、不自然な均衡がそこにあった。
改札を抜けて階段を上がる。規則的な足音が、やけに大きく響く。その音に合わせるように思考が動き出し、そしてまた同じ場所へ戻る。
昨日、いなかったこと。
それだけのはずなのに、そこから先に進まない。理由を考えようとしても、答えを出す前に思考が止まる。そもそも、踏み込む権利があるのかすら分からない。
ホームに出る。
視線が迷わず向いたのは、白線の近くだった。人の流れから少し外れた、あの位置に自然と視界がそこへ固定される。
——いた。
同じ位置に、同じ立ち方で。やけに強く目に残る。昨日会えなかった分だけ、存在の輪郭が濃くなっている気がした。
近づく。
足音を立てるつもりはなかったが、距離は自然と縮まっていく。気づいたときには、声をかけられる位置にいた。
「……昨日」
言葉が先に落ちる。
ミアはゆっくりとこちらを見た。その視線はいつもと変わらないはずなのに、ほんのわずかに深く感じる。見られているというより、見透かされているような感覚だった。
「すみません」
短く言う。
それ以上は続かない。言い訳も理由もなく、ただ事実だけを置くような言い方だった。そのあとに続く沈黙が、逆に意味を持っている。
「来れませんでした」
わずかに間を置いて、付け足される。
湊はそれ以上踏み込まなかった。聞こうと思えば聞ける距離にいる。それでも、その一歩を越えた瞬間に何かが変わる気がして、言葉を飲み込んだ。
隣に立つ。
距離はいつもと同じなのに、空気だけが違う。わずかに張り詰めていて、触れれば崩れそうな均衡の上に立っている感覚がある。
「更新、ありますか」
ミアが言う。
いつもの言葉。ただ、ほんの少しだけ遅れていた。その遅れが、理由を持っている気がしてしまう。
湊は息を整えてから口を開く。
「ある。でもその前にさ」
言いながら、自分でも珍しいと思う。いつもならそのまま答えるだけで終わるはずだった。前置きを挟む必要なんて、本来ない。
ミアがわずかに視線を向ける。
「なに」
声は変わらない。けれど、確実にこちらを見ている。逃げ道が残されていない視線だった。
「昨日、俺の連絡先聞いてきた人がいて」
言った瞬間、空気がわずかに揺れる。
ミアの表情はほとんど変わらない。それでも、何かが一瞬だけ止まったような違和感があった。目に見えないレベルの変化が、確かに存在している。
「……へえ」
薄い反応。
だが、完全な無関心ではない。むしろ、意識して抑えているような静けさがあった。
「妹のバイト先の先輩で美人らしい」
付け足したあと、自分で違和感に気づく。なぜその情報を出したのか、説明がつかない。試しているのか、ただの無意識か、それすら分からない。
ミアは一瞬だけ視線を落とし、すぐに戻す。
「それを、話したいんですか」
静かな確認。
逃げ道を残さない言い方だった。
湊は首を横に振る。
「違う」
間を置かずに否定する。ここで迷えば、意図が歪む気がした。
「じゃあ、なんです」
視線がまっすぐ向けられる。
その瞬間、逃げる選択肢は消えた。誤魔化す余地もなくなる。
湊は一度だけ息を吐き、言葉を選ぶのをやめる。
「……知りたいんだ」
声は思ったより静かだった。
「ミアのこと」
言い終えた瞬間、周囲の音が遠のく。
人の流れは続いているはずなのに、その場所だけが切り取られたように静まる。時間の流れが、わずかに遅くなる感覚。
「名前」
続ける。
「ちゃんと聞いてなかったなって」
それが一番自然な理由だった。
ミアはすぐには答えない。視線だけがこちらに向けられ、そのまま数秒間動かない。測るような、確かめるような間だった。
やがて、小さく口を開く。
「じゃあ先に」
その声はわずかに柔らかい。
ほんの少しだけ、口元が緩む。
「君の名前、まだ聞いてなかったから」
促される。
湊は一瞬だけ言葉に詰まり、それでも視線を外さずに答える。
「……白石」
苗字が先に出る。
わずかに間を置いて、
「湊。さんずいに、奏でるって書く」
言い終えたあと、静けさが落ちる。
ミアはその音を確かめるように、ゆっくりと口にする。
「みなと」
響きをなぞるように。
「いい名前ですね」
短い言葉だったが、適当に流したものではない。きちんと受け取ったうえで返している響きがあった。
湊は小さく息を吐き、わずかに肩の力を抜く。
「……ミアは?」
自然に問い返す。
ミアは一瞬だけ動きを止める。ほんのわずかな間のあと、視線を外す。
「まだ、言わない」
拒絶ではない言い方だった。
「会った時の湊の真似です」
小さく付け足す。
その意図が分かって、湊は思わず口元を緩める。
「なんだそれ」
軽く笑う。張っていた空気が、少しだけほどける。
ミアもわずかに息を吐き、ほんの一瞬だけ表情を緩める。
「……合格」
その言葉は、ほんの少しだけ柔らかかった。
直後、電車の到着音がホームに響く。
風が一気に流れ込み、人の流れが前に動く。ざわめきの中で、さっきまでの静けさが一瞬で押し流される。
ミアは動かない。
白線の内側で、静かに立っている。
その位置が、わずかに気になる。
「ねえ、湊」
呼ばれる。
さっき伝えたばかりの名前。
距離がほんの少しだけ近づく。
「なに」
自然に返す。
ミアはわずかに視線を落とし、それから上げる。
「その先輩って人」
間がある。言葉を選んでいるわけではない。確かめているような、わずかな沈黙。
「気になる?」
軽い言葉。だが、その奥に意図がある。
湊は一瞬だけ黙る。
否定は簡単だった。
それでも、その言葉を選べば何かが変わる気がして、口を閉じる。
「……どうだろうな」
曖昧に返す。ミアはそれ以上追わない。ただ、ほんのわずかに視線を外す。電車がホームに滑り込む。
風が強くなり、人の流れが一気に動き出す。
その中で、ミアだけが一瞬遅れて歩き出す。
「また明日」
振り返らずに言う。
そのまま人の流れに混ざり、姿が見えなくなる。
残されたホームに、わずかな余韻だけが残る。
呼ばれた名前が、少し遅れて胸に落ちる。
——湊。
それと同時に、もう一つの言葉が浮かぶ。
“気になる?”
否定しなかったこと。
曖昧にしたまま残したこと。
その重さが、思ったより深く残っていた。




