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駅で出会った女の子と不思議な関係に。明日も死にたくなる彼女に、俺は毎日、生きる理由を渡すことになった。  作者: 最後の挑戦


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第12話 名前で呼ぶ距離

食べ終わった皿を重ねて流しへ運び、そのまま無意識に蛇口をひねる。

細く伸びた水がシンクに当たり、一定の音を立て始めた瞬間、それまで食卓の上に残っていた会話の気配が、ゆっくり別のものへ切り替わっていくのが分かった。


手を濡らし、スポンジを掴んで洗剤を落とす。泡立った白を皿の表面へ滑らせながら、湊はぼんやりと視線を落としていた。

大皿から洗って、小鉢を流し、最後にコップを片付ける。考えて動いているわけじゃない。何度も繰り返してきた順番だから、身体が勝手に覚えているだけだ。


それでも、無意識のまま同じ流れをなぞっていることに気づくと、ほんの少しだけ、自分が機械みたいに思える瞬間がある。


水の音だけが、静かなキッチンに残っていた。

それ以外のものは、全部どこか遠くへ押し出されている気がする。


さっきまで聞こえていた紬の声も、テレビの音も、窓の外を走る車の気配も、今は水音の向こう側に沈んでいる。


スポンジを動かすたび、泡がゆっくり形を崩しながら排水口へ流れていく。その白を、湊は意味もなく目で追っていた。


ただ消えていくだけのものなのに、なぜか視線が離れない。


形が残っている時間は短い。水に押されればすぐ崩れて、跡もなく消える。それをぼんやり眺めていると、頭の中まで空になっていくような感覚があった。


何かを考えているわけではないのに、手だけは止まらない。皿を流し、水を切り、次を取る。その繰り返しだけが静かに続いていく。


やがて最後の一枚を洗い終え、立てかけるようにラックへ置く。そこでようやく湊は小さく息を吐き、蛇口へ手を伸ばした。


水音が止まる。


たったそれだけのことなのに、急にキッチンの静けさが広がった気がした。さっきまで空間を埋めていた音が消えたことで、部屋の広さだけが妙に浮き彫りになる。

濡れた指先をタオルで拭きながら、湊はその感覚を振り払うみたいに小さく息を吐いた。


最後の皿を流し終え、立てかけるようにラックへ戻してから、湊は蛇口を閉めた。


さっきまで途切れることなく流れていた水音がそこでぷつりと消え、急にキッチンの静けさだけが浮き上がる。


耳に残っていたはずの音がなくなると、空間そのものが少し広くなったように感じるのが不思議だった。


濡れた指先をタオルで拭いながら、小さく息を吐く。洗剤の匂いがまだ指先に残っていて、水気を拭き取ったあとも、手のひらだけが少し冷たい。その感覚を振り払うみたいにタオルを畳み、湊はそのまま部屋へ戻ろうと身体の向きを変えた。


「ねえ」


背中に声が落ちる。


呼び止めるには静かで、独り言にしては近すぎる声だった。


湊の足が、そこで止まる。


振り返るほど強い呼び方ではない。けれど無視して歩き続けるには、声の距離が妙に近かった。

数歩先へ進めば終わるはずなのに、そのまま動いてしまうと何かを置き去りにする気がして、足だけが中途半端に床へ張りつく。


背後では、冷蔵庫のモーター音だけが低く鳴っている。


紬はたぶん、まだキッチンの近くにいる。視線を向けなくても分かるくらいには、同じ空間の気配が残っていた。


湊は振り返らない。


けれど進むこともできず、途切れた動作のまま、ただ次の言葉を待っていた。


「明日、バイトなんだけどさ」


背後から聞こえた紬の声は、いつもと変わらない調子だった。


わざわざ呼び止めるほど重くもなく、かといって独り言みたいに流すには少しだけ近い。冷蔵庫の横にでも寄りかかっているのか、声に変な緊張感はないのに、不思議と“続きがある言い方”だった。


「……そうか」


湊は振り返らないまま短く返す。


そこで会話を終わらせるつもりだったが、紬は少しだけ間を置いてから、「ちょっと聞きたいことあるんだけど」と続けた。


視線はたぶん、まだキッチンの方を向いている。


こっちを見ながら言わないのは、深刻な話じゃないからなのか、それとも逆に、真正面から言いづらい内容だからなのか。そこまでは分からない。ただ、何でもない口調を装っているぶんだけ、逆に本題がそこにある気がした。


「……なに」


湊は数秒遅れて聞き返す。


急かすわけでもなく、興味を見せるわけでもない、中途半端な返事だった。


すると紬は、思ったよりあっさりした声で、


「連絡先、教えていい?」


意味を理解するまで、一瞬だけ間が空く。

言葉自体は単純だった。けれど、それが自分に向けられている話だと頭の中で繋がるまで、妙に時間がかかる。


「えっ……誰に」


ようやく出た声は、確認するみたいに低かった。


紬はそこで初めて少しだけこちらを見て


「バイト先の先輩。私の一個上で、高校二年の人」


その言い方はあまりにも自然で、まるで“断られる前提”を最初から考えていないみたいだった。


紬はそう言いながら、手元のスマホを軽く持ち上げた。画面を確認するでもなく、ただ指先で端を弄るみたいな動きだった。


「この前さ、流れで写真見られちゃって」


何でもないことみたいに続ける。


湊は振り返らないまま聞いていたが、その言い方だけで、話がまだ終わっていないことは分かった。


「写真?」


「うん。別にちゃんと見せたとかじゃないんだけど、たまたま開いてたやつ見られて。“この人誰”って」


そこまで言って、紬がほんの一瞬だけこちらを見る。


確認するみたいな短い視線だった。

けれど、その一瞬だけで十分だった。

話の流れが、そこでようやく繋がる。


「で、連絡先聞いといてって頼まれた」


「ああ……」


曖昧な声が漏れる。


紬はそんな反応を気にした様子もなく

「ちなみに美人だよ、その人」と軽く付け足した。


わざとらしく強調するわけでもない。ただ“条件として当たり前”みたいな口調だった。


「整ってるし、愛想いいし、人と話すの上手い感じ。バイト先でも結構人気あるし」


説明が増えるたびに、頭の中へ輪郭が浮かんでいく。


いかにも人当たりがよくて、自然に周囲の中心へ入っていけるタイプ。たぶん笑顔も上手くて、誰とでも距離を縮められるような人なんだろう。


“普通にいい人そうな美人”。


そういう像が、あまり苦労もなく頭に浮かぶ。


紬の言葉を聞きながら、湊は曖昧に視線を逸らした。


目の前にいる紬は、世間的に見れば十分に可愛い部類だと思う。顔立ちは整っているし、愛想も悪くない。学校にいたら普通に目を引くタイプだろうし、実際、話しかけられることも多いだとか。


その“分かりやすさ”を頭の中でなぞった瞬間、不意に別の顔が浮かんだ。


駅のホーム。


白線の近く。


人の流れから少し外れた場所に立っていた横顔。


光の当たり方だけで印象が変わる目と、何を見ているのか分からないまま遠くへ抜けていく視線。


“美人”という言葉に当てはめようとして、途中で思考が止まる。


たぶん違う。


そういう分類の仕方をした瞬間、何かがずれる気がした。比べるものじゃないのかもしれない。

というより、最初から立っている場所が違う。


「……なんで俺なんか」


考えを切るみたいに、湊は小さく呟いた。


すると紬は少しだけ首を傾げ、それから「気に入られてるっぽい」と軽く返す。


深い意味なんてない、という口調だった。

ただ事実をそのまま置いただけみたいな言い方。


「俺は興味ないから」


反射みたいに言葉が出る。

迷って答えたわけじゃなかった。

けれど紬は、「そっか」と軽く頷いただけで終わらせない。


「じゃあ教えとくね」


「……は?」


思わず視線が戻る。


返事が噛み合っていない気がして、一瞬だけ言葉が遅れた。紬はそんな反応を気にした様子もなく、こちらを見ながら小さく笑う。


「だって」


短く区切ってから、少しだけ間を置く。


「人と関わらなすぎじゃん」


紬は笑いながら言った。


責めるような言い方ではなかった。本気で改善させたいわけでも、説教したいわけでもない。ただ当たり前のことを確認するみたいな軽さだったからこそ、逆に返す言葉に詰まる。


「先輩、別に悪い人じゃないし」


続けながら、紬はテーブルの上に置いていたコップを指先で軽く回した。


押しつける気はないのだろう。


興味がないならそれでもいい、でも選択肢くらいは持っとけば、という程度の温度で話している。その距離感が、妙に逃げづらかった。


湊は黙ったまま視線を逸らす。


否定する理由はない。


だからといって、素直に受け入れたいわけでもなかった。


自分でも整理できていない感覚だけが中途半端に残って、結局、何も返せないまま沈黙が落ちる。


その空気を変えるみたいに、紬が「あ、あとさ」と続けた。


今度は少しだけ真っ直ぐこちらを見ている。


「ちゃんと名前で呼んでよ」


一瞬、意味が頭の中に引っかかった。


連絡先の話とはまったく別方向から来た言葉だったせいで、反応が遅れる。


「……名前?」


「私のこと」


紬はあっさり言う。


「もう一年経つよ」


その言葉に、湊は小さく息を止めた。


一年。


口にされて初めて、その時間の長さを意識する。


同じ家で暮らして、同じ食卓を囲んで、それなりに会話もしてきたはずなのに、どこかでずっと距離を測ったままだった。


理由があるわけじゃない。


近づこうとしなかったわけでも、避けていたわけでもない。ただ何となく、そのままここまで来てしまっただけだ。


「……つむぎ」


口に出す。


たった3文字なのに、妙にぎこちなかった。


呼び慣れていないせいで、名前だけが口の中に引っかかる。けれど紬は、そんなこちらを見て、一瞬だけ目を丸くしたあと、すぐに小さく笑った。


「やればできるじゃん」


からかうほど強くはない声だった。

そのまま試すみたいに


「みなと」


続けて呼ばれる。

ただ名前を呼ばれただけなのに、空気の触れ方が少し変わる。


今まで曖昧に引いていた線を、ほんの少しだけ越えたみたいな感覚だった。


「……なんだよ」


反射的に返したあと、自分で少し驚く。

思ったより自然に返事が出た。


間を考える前に、身体の方が先に反応していた。


紬はその反応がおかしかったのか、小さく笑いながら「ほら、普通にいけるじゃん」と言う。


“普通”。


その言葉が妙に耳に残った。


さっきから何度も聞いているはずなのに、紬が言う“普通”と、ミアが口にしていた“普通”は、どこか違って聞こえる。


同じ言葉のはずなのに、含まれている温度が違う。


紬の“普通”は、誰かと同じ場所に立つための言葉で、ミアの“普通”は、たぶんそこへ届かなかった側の言葉だ。


その違いをうまく説明できないまま、湊は小さく息を吐く。


「今日からお互い名前で呼び合おうね」


紬は軽い調子で言った。

冗談みたいな口ぶりだったが、たぶん本気だ。


「……急だな」


湊がそう返すと、紬はすぐに「いいでしょ別に」と笑う。


躊躇う様子はなかった。

思いつきで言っているというより、最初からそのつもりだったみたいな言い方だった。


「どうせ変えるなら、今でしょ」


さらっと続けられたその一言に、湊はほんの少しだけ引っかかる。


“今”という言葉だけが、妙に耳に残った。


別に今日じゃなくてもよかったはずだ。

明日でも、一週間後でも、たぶん困らない。

なのに紬は、最初から今日に決めていたみたいに迷いなく言う。


理由を聞くほどでもない。

けれど、何となくそのまま流すには少しだけ気になる。


「……まあ」


結局、湊は曖昧に頷く。

納得したわけじゃない。

ただ、拒否するほどでもなかった。


紬はそんな返事に満足したのか、小さく笑ってから、「じゃあ決まりね」と軽く言った。


その声を聞きながら、湊は自分の中で何かが微妙にずれていることに気づく。


大きく変わったわけではない。


けれど、今までと同じ距離のままではいられなくなったような、そんな感覚だけが静かに残っていた。


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