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駅で出会った女の子と不思議な関係に。明日も死にたくなる彼女に、俺は毎日、生きる理由を渡すことになった。  作者: 最後の挑戦


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第11話 妹 それぞれの『普通』

玄関のドアを開けた瞬間、夜の空気が細く流れ込んできた。閉まったドアの向こうへ置いてきたはずの冷たさが、制服の袖や髪にまだ残っている。


靴を脱ぎ、廊下へ上がる頃には消えていてもおかしくない感覚なのに、今日はなぜかうまく切り替わらなかった。


湊は無意識に制服の襟元へ触れ、小さく息を吐いた。柔軟剤の甘い匂い、夕飯の残り香、少しだけ湿気を含んだ木の床の匂い。


毎日ここで過ごしていれば気に留めることもないはずのものが、今日は一つ一つ妙にはっきり鼻に残った。


リビングの方から、かすかに食器の触れ合う音が聞こえる。いつもと変わらない家のはずなのに、自分だけがまだ外に取り残されているみたいで、湊はもう一度ゆっくり息を吐いた。


落ち着かないわけではない。けれど、落ち着いているとも少し違った。


「……ただいま」


自分でも少し驚いた。思っていたより声が響いたからだ。自分の声がきちんと家の中へ届いてしまった感覚があった。


「おかえり」


間を置かずキッチンの方から声が返ってくる。特別優しいわけでも、機嫌がいいわけでもない。毎日聞いているはずの調子なのに、その変わらなさだけが妙にはっきり耳に残った。


水の流れる音と、食器が小さく触れ合う音がリビングの方から聞こえていた。


その生活の気配に触れているうちに、さっきまで身体に貼りついていた外の感覚が、ようやく少しずつ薄れていく。


湊がリビングへ視線を向けると、電子レンジの前に紬が立っていた。一つ下の妹は、こちらを振り返ることもなく、ぼんやりとレンジの中を眺めている。


回転する光が一定の間隔で横顔を照らし、そのたびに表情の陰影だけがわずかに変わった。


エプロン姿は見慣れているはずなのに、今日は妙に目に残った。家に帰ってきたという実感だけが、少し遅れて身体の中へ落ちてくる。


紬はレンジを見たまま

「遅かったね」


怒っているわけでも、心配しているわけでもない。ただ帰ってきた時間を確認しただけのような淡い声だった。


「……ちょっとな」


紬もそれ以上は聞いてこなかった。無理に会話を繋げないし、必要以上に踏み込まない。


同じ家にいて、同じ時間を過ごしていても、互いの中へ入り込みすぎない距離感だけが、いつの間にか自然に出来上がっていた。


電子レンジが小さな電子音を鳴らして止まる。紬は慣れた動きで扉を開き、白い湯気の向こうから皿を取り出した。

熱を避けるために少しだけ顔を逸らす仕草にも無駄がなく、そのまま流れるようにテーブルへ運んでいく。


「ご飯、食べる?」


湊はすぐには答えず、ほんの短い間だけ視線を落としてから「……食べる」と返した。


その瞬間、紬の手がわずかに止まる。本当に一瞬だけだったが、流れていた動きが途切れたことで、逆にその短さが目についた。


「そ」


紬は棚からもう一枚皿を取り出した。最初から湊が食べる前提で準備していたことが、その自然な動きだけで分かる。


湊は何も言わないままソファへ腰を下ろし、ポケットからスマホを取り出した。


別に連絡を待っているわけではない。そんな相手でもないことくらい、自分でも分かっている。それでも、気づけば親指が勝手に画面を開いていた。


通知欄に新しい表示はなく、メッセージアプリを開いて閉じても、何かが変わるわけではない。


暗くなった画面に、自分の顔がぼんやり映り込む。ミアの連絡先は知らない。交換もしていないのだから、連絡が来るはずもない。


「……なんかあった?」


不意に紬の声が飛んでくる。


キッチンの方を見ると、紬は振り返らないままシンクへ向かい、水を流し続けていた。食器が小さく触れ合う乾いた音と、蛇口から落ちる水音が、静かな部屋へ細く広がっている。


「……別に」


自分でも少し早かった気がする。紬はすぐには何も返さず、水音だけがしばらくリビングに残った。


「ふーん」

納得したわけでも、疑っているわけでもない声だったが、紬はそれ以上何も聞いてこなかった。


昔からそうだった。無理に踏み込まない。けれど、何も見ていないわけでもない。


「今日さ、公園行ってたでしょ」


湊の指先が一瞬だけ止まった。

「……なんで」


できるだけ普段通りにしたつもりだったが、自分でも少し硬くなった気がした。


「この前も見たし。友達と遊んだ帰り、たまたまだけど」


紬は皿についた泡を流しながら、何でもないことみたいに言った。


否定する理由はない。けれど、素直に認めるほど自分の中で整理もできていなかった。


「……まぁ」


紬がほんの一瞬だけこちらを見る。探るような視線だったが、目が合う前にすぐ逸れた。


「最近、毎日ちょっと遅いよね」


紬はさらりと続ける。軽い調子なのに、言い訳だけが先に頭へ浮かんだ。


「……そうか?」


「うん」


湊はスマホを伏せ、小さく息を吐いてテーブルへ向かった。向かい側では、紬がすでに箸を手にしている。手を伸ばせば届くくらい近い距離なのに、不思議と互いの中へ踏み込みすぎない。


同じ家で暮らし、毎日顔を合わせていても、必要以上に干渉しないまま成立している静かな距離感が、二人にとって一番自然な形になっていた。


「いただきます」

「……いただきます」


箸を取り、味噌汁を口へ運ぶ。出汁の味も湯気の温度も何一つ変わっていない。食べ慣れたはずの味なのに、今日は妙に舌へ残った。


「普通に美味しい」と、気づけばそんな言葉が口から漏れていた。紬が顔を上げ、「でしょ」と少しだけ笑いが混じっていた。


視線を味噌汁へ落とした。自分でも、どうしてそんな言葉が出たのか分からない。ただ、“普通”という感覚だけが妙に引っかかっていた。


紬は少し考えるように箸を止め

「普通でいいじゃん」


また何事もなかったみたいに食事へ戻る。その言葉に、湊の指先がわずかに止まった。つい最近、似たような空気の中で、同じ言葉を聞いた気がする。けれど思い出そうとすると、逆に輪郭だけが曖昧になっていった。


食卓には再び静かな時間が戻った。テレビはついていない。聞こえるのは、箸が皿へ当たる小さな音と、キッチンの換気扇が回り続ける低い音だけだった。


それでも不思議と気まずさはない。無理に会話を探さなくても成立する空気の方が、この家には昔から馴染んでいた。


「……ねえ」


不意に紬が口を開いた。さっきまでより、ほんの少しだけ低い声だった。湊が顔を上げると、紬は箸を持ったまま、軽い調子でと聞いてきた。


「その人さ、ちゃんとした人?」


冗談みたいに聞こえてもおかしくない言い方だった。けれど、湊にはそう聞こえなかった。


「……どういう意味だよ」


「そのままの意味」

その迷いのなさだけが、妙に耳へ残った。


言葉を選ぼうとしても、うまくまとまらない。頭の中ではいくつか言い訳みたいなものが浮かんでは消えていったが、結局どれもしっくり来なかった。


「……普通だよ」


湊はそう答えるしかなかった。口に出した瞬間、自分でも小さな違和感が残る。

“普通”と言ったはずなのに、何を基準にそう思ったのか、自分でもよく分からない。


ただ、ミアのことを他の言葉で説明できる気がしなかった。


向かい側では、紬の箸がほんの一瞬だけ止まっていた。流れていた動きが不自然に切れたことで、その短い沈黙だけが妙に目につく。


「……そっか」


納得したようにも聞こえるし、引っかかったまま流したようにも聞こえる曖昧な声だったが、少なくとも追及する気はないらしい。


食事を終えると、湊は皿をキッチンへ運んだ。シンクへ食器を置く乾いた音が響き、そのあとを追うように水の流れる音が広がっていく。


「ありがと」


それで会話は終わる。けれど、その短さを不自然だと思ったことは一度もなかった。


自室へ戻り、ドアを閉めると、さっきまで聞こえていた生活音が一気に遠ざかった。

湊はベッドへ腰を下ろし、小さく息を吐いた。


「……普通、か」


静かな部屋へ落ちる。

紬の言葉を思い出す。“普通でいいじゃん”。あの言い方が、まだ妙に耳へ残っていた。


けれど、ミアの言う“普通”と、紬の言う“普通”は、きっと少し違う。


その違いをうまく言葉にはできないまま、感覚だけが胸の奥へ引っかかっている。湊はベッドへ軽く倒れ込み、白い天井を見上げた。見慣れているはずの景色なのに、今日はどこか落ち着かない。


しばらく黙って天井を見つめたあと、湊は小さく息を吐き、「……明日、行くか」と呟いた。


理由は自分でもよく分からない。

それでも、もう身体の方は決めてしまっている気がした。


その頃、リビングでは紬が一人で皿を洗っていた。一定のリズムで流れ続ける水音の中、不意にその手が止まる。


「……普通、ね」


誰にも聞こえないくらい小さな声が落ちた。紬は少し考えるように視線を下げ、それから再び皿へ手を伸ばす。


「お兄が誰かと一緒にいる時点で、たぶん普通じゃないと思うけど」


呟きは、そのまま水音の中へ静かに溶けていった。

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