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地方で仕事をしている涼佑は、やるべきことを終えるとすっかり実家には戻ってこなくなった。私も実家から30分も掛からないような近場に住んでいたけれど、仕事や育児の忙しさを理由に殆ど敦子のもとを訪れなくなった。
私の子どもの誕生日、私の誕生日、敦子の誕生日、お盆やクリスマス、正月。そんな言い訳があるときにだけ、私は2ヶ月に1回くらいの頻度で実家に行く。
メールと電話しか寄越さない涼佑よりはマシだっただろうが、私も大して変わらなかっただろう。
敦子のことが嫌いなわけではなかったが、多分涼祐も私も、さっさと以前の日常に戻りたかったのだ。
父親の死という現実に心が揺さぶられることのない、平穏な日常に。
ーーその日、私が実家に訪れたのは、ただ子どもが「ばあばと遊びたい」と突然言い出したからに過ぎなかった。
浩介が死んで、1年が経っていた。
ダイニングテーブルで敦子と茶を啜る。
今日のおやつは「なんとか屋」の大福。有名店らしいが興味はない。
和菓子が好きな敦子は、私が実家に帰るといつもこうして有名店の茶菓子を振る舞ってくれる。
「宝さんは?元気にしてるの?」
私が大福を一口齧った時、敦子がそんなことを言った。
宝さん、というのは私の夫だ。結婚してもう7年が経つ。
実家に来る度に同じ事を尋ねるのは、最早挨拶のようなものなのだろう。
「へんひだよ」
食べることも話すこともやめずに、私は答える。
「祝日なのに仕事だなんて、大変ね」
「まぁひゃくしょうはいだし」
「え?」
私は頬張りすぎた大きな大福を漸く喉の奥へと飲み込む。
「客商売だから、しょうがないよ」
「まぁ、そうよね」
再び私は大福を一口齧る。ぼーっとテレビを眺めて、そしてスマートフォンでSNSを開く。
1ヶ月振りくらいに会ったとは言え、私からは大して話すこともない。
「……今でもね、たまに思うのよ」
湯呑を両手で握り締めた敦子は、突拍子もなく話始める。
突拍子もなく、ではないのか。きっとそれは敦子が「あの日」からずっと抱えていることで、一人の時間を過ごせば過ごすほど、考えずにはいられないこと。
「夫」という存在を認識すればするほど、目の前の現実として突き付けられる。
「お母さんが無理矢理にでもお父さんを病院に連れて行っていれば、こんなことにならなかったんじゃないかなって」
あぁ、やっぱりその話か。
浩介が死んだ時の話。彼は心筋梗塞で自宅で倒れた後、3日間生死を彷徨い、そのまま帰らぬ人となった。
正直なところ、もう1年も経ったのだから湿っぽい話は勘弁して欲しい。
こっちもようやく過去のこととして考えられるようになってきたというのに。
「ほら、足が痛いって言ってた時、あったでしょ?あの時、もうきっと血管詰まってたのよ。お母さん、お父さんが足が痛い痛いって言ってたの、ずっと聞いてたのに」
けれど、それも子どもの役目か。この心の奥に渦巻く痛みを共有できるのは、敦子にとっては子どもくらいなのだから。
「でも、お父さん病院嫌いだったじゃん」
敦子から目を逸らして、私はそう返事をする。
「病院嫌いと言うか……まぁ確かにあんまりお医者さんのこと信用してなかったわね」
「行けって言ったって本人が行く気ないんだから、どうしようもないじゃん」
「まぁ……確かに。どうしてあんなに頑固だったのかしらね」
どれほど後悔していようと、死んだ者は帰ってはきやしない。その後悔を掘り下げることに、意味などない。
そう思うのは、きっと私がもうずっと浩介と離れて暮らしていたからだ。私には新しい家族があって、守らなければならない人がいるからだ。
けれど敦子にとっては違う。息子は新たな土地で挑戦を始め、娘も嫁に行ってしまってすっかり連絡を寄越さなくなって、もう浩介しかいなかったのだから。
「……認めたくなかったのかしら」
呟くように、敦子は言う。
「ん?」
「自分が病気だって、認めたくなかったのかも……」
認めたくなかった。
確かに、自分が病気であることと向き合うのはとても難しいと聞く。
ましてや死ぬかもしれないのであれば、もっと認めたくなかったかもしれない。
「……そう、かもね」
敦子がそう思うならそれで良い。そう思っていてくれる方が、敦子が必要以上に自分を責めないで済む。
正直、これ以上自分のせいで浩介は死んだのだと聞かされ続けるのは、こちらもうんざりだ。
だからあんまり会いにきたくないのだと、そんな愚痴すらこぼしたくなる。
けれど思う。浩介はそんなことを考える人だっただろうかと。
認めたくなかったなどという理由で、病気を放っておくような人だっただろうか。
むしろ、目の前の医者を信じられないから、別の医者に代えてくれと、できないのであれば大学病院に紹介してくれと食って掛かるような性格だ。調べることができることは自分で調べ尽くして、ありとあらゆる可能性を考えて、その上で医者と話し合うような人だ。
少なくとも私が知っている木下浩介という父親は、都合の悪いことから目を背けるような人ではなかった。
そんな人が、自分を内側から殺していく病という敵を「認めたくなかった」などということがあるだろうか。
「ママー?」
空虚を見つめていた視線をゆっくりと移動させる。娘の風花が、落書き帳を両手に抱えて私を見つめていた。
「どうしたの、風花」
「丸が上手に描けないから描いて」
「丸?」
「うん」
「じゃあ一緒に描こうか」
風花を膝に乗せる。彼女の鉛筆を握っている手を私は握って、白い紙に大きな円を描いていく。
丸が綺麗に描けて満足そうにローテーブルの方へと戻っていく小さな背中を見つめて、私は浩介の書斎へと向かう。
机の上には、すでに会社を定年退職し、まだ働いていた敦子の代わりに専業主夫をしていたのであろう浩介の家事のメモ書きが置いてある。
豚肉、人参、キャベツ。2階のトイレ掃除、まる未。
心が酷くざわついて、私は目を逸らす。メモ書きをゴミ箱に捨ててしまいたい衝動を、敦子のために必死に抑える。
メモ書きの傍に置いてある浩介の遺影からも目を逸らして、私は本棚に視線をやる。
次回投稿は2/21(土)
を予定しております。




