094 -Ritsu-
朝の教室はいつもと変わらないはずなのに、体の重みがいつもとは違った現実を演出している。この重みは単なる筋肉痛ではなく、律が昨日背負った重みだった。
席についてリュックを置き、蒼乃とお喋りを交わしていると、「おはよー!」と元気な声が飛んでくる。遥だった。
「おはよう」
先に蒼乃がいつもの通り挨拶を返す。昨日は相当怒っているように見受けられたが、今はあまりにも普通だった。
「おはよう、りっちゃん」
そして遥も通常運転だった。律は自分だけがおかしいのかと思いながら、「はるちゃん、おはよう」と震える声で返した。
「どうしたの、りっちゃん。うわずった声出して」
どうしたのは律が聞きたいセリフだった。昨日あんなことがあって、一応解決したにしろ、どうして蒼乃も遥も普通でいられるのだろうか。
「散々鳴いたあとだから喉の調子が悪いのよね?」
蒼乃がとんでもない理由を提示してきた。
「うわ、また惚気話だよ。朝から胸焼けがしますねー」
遥は胃のあたりを押さえる動作をする。
「りっちゃん、大丈夫?」
なにに対して聞かれているのか判断ができず、律はフリーズした。蒼乃が律の肩を揺する。
「蒼乃、りっちゃんになにをしたのさ」
「さっきまでは正常に動いていたわよ」
遥は律のことが好きで、でも絢と付き合っていて……蒼乃にそのことが露見して修羅場になって……。
「おはよう、はるちゃん」
「それはさっき聞いたよ。本当に大丈夫?」
「大丈夫……。大丈夫……」
普通に接すればいいのだろうが、意識すると律にはどうも難しい。今まで多くの人から告白を受けてきたのに、なんの経験値にもなっていなかった。
チャイムが鳴り、遥は自席に戻っていく。蒼乃に頬を引っ張られたが、律の気持ちはどこか上の空だった。
◆ ◆ ◆
昼休みがくる。いつも通り机を寄せて、四人でごはんを食べる。
「律、何か様子がおかしくありませんか? 大丈夫ですか?」
事情をなにも知らない日向に話しかけられ、律は「大丈夫です」と返す。見かねた遥が助け舟を出す。
「昨日ね、蒼乃がりっちゃんの家に泊まったんだって。よろしくやってたそうだよ」
全然助け舟になっていなかったが、日向は「なるほど」と納得してしまった。
「だから律と蒼乃のお弁当が一緒だったんですね」
「そうなの。律のお義母さんに作ってもらっちゃった」
蒼乃は得意気に半分なくなった弁当の中身を日向に見せていた。
「蓮ちゃんとはケンカしなかったの?」
「ストーカーされたけど撃退したわ」
「え、物理じゃないよね?」
遥が苦笑いをする。律は蒼乃が遥の胸ぐらを掴み上げた光景を思い出していた。
「そんな簡単に手を出したりしません」
いくら律が泣いていたとは言え、弁明を聞く前に手を出した蒼乃の言葉に信憑性はない。
「私は今日帰ったらお姉ちゃんに詰問されそうで嫌だな……」
「その時はスピーカー通話にして。私が言い返してあげるから」
「怖い」
きっと部屋に戻されたあとも蓮は壁越しに音を聞こうとしていたに違いない。聞かれていないといいな。
「日向もお兄さんいたよね? 仲はいいの?」
「歳も離れているので悪くはないですね」
「へぇ、いくつ離れてるんだっけ」
「六つですね。四月から社会人です」
「日向のお兄さんは家を出たりするのかしら」
「今のところは実家暮らしですね。お金がもったいないからと」
社会人になるのが六年先と考えると現実味を帯びてくる。マイペースな律が毎日働けるのだろうか。律は不安になる。
「律と蒼乃は高校を出たら一緒になるつもりなんですか?」
「そのつもりよ」
食い気味に蒼乃が答える。毎日蒼乃に甘やかされて律がダメになっていく未来が見える。
「あたしは今も一人暮らしみたいなものだから、大学が遠いところにならない限り今のまんまだなぁ。日向は?」
「わたしはおそらく実家から通える学校を選んで、実家に残りますね」
「じゃあ、りっちゃんと蒼乃が引っ越したら遊びに行くかー」
あまりにも遥がいつも通りの対応をしているので、律は未だに混乱している。遥への返事は全て蒼乃に任せることにした。
「引っ越し祝いをちゃんと持ってきてちょうだいね」
「まったく気が早いですね……」
律は昼食を黙々と食べ終えて、弁当箱をしまう。時間ギリギリになると混むので、今のうちにトイレに行こうと立ち上がる。
「あたしも行こうかな」
遥が立ち上がる。蒼乃の目が光ったのをいち早く察知し、律は蒼乃の肩を叩いた。
律は背中に視線を感じながらも遥と一緒に教室を出る。
「りっちゃん、態度に出過ぎー」
遥に背中を叩かれる。遠慮のない力加減のせいで、律はつんのめった。
「普通は振られた方が気にするもんなんですがねぇ」
「はるちゃんはどうしていつも通りでいられるの?」
「そりゃーりっちゃんと親友でいたいからだよ」
トイレの個室に入って遥の言葉を反芻する。律だって遥とは変わらない関係でいたい。
用を済ませて個室を出ると、手洗い場で遥が待っていた。
「りっちゃん、ぼけっとしてたからハンカチ持ってきてないでしょ」
「気づいていたなら教室出る前に言ってよね」
濡れた手に遥のタオルハンカチが渡される。
「洗濯して返した方がいい?」
「なにその気遣い。それに午後はまだ長いんだから、あたしが使うよ」
律だけがぎくしゃくしながら、遥と並んで廊下に出た。
「もう、りっちゃんはいつも通りでいいんだってばー」
「いつも通りね……」
「あ、でも、しばらくの間は蒼乃と二人きりにしないで……。さすがにちょっと怖い」
「あはは……。あの時の蒼ちゃんは怖かったね」
よくないことをしたと律も反省している。
「りっちゃん、握手しよ」
教室に入る直前で遥が立ち止まり、右手を差し出してくる。律は戸惑いながらもその手を握った。
「はい、仲直り」
「ケンカしていたわけじゃないけどね」
遥と笑い合っていると、教室から蒼乃が出てきた。穏やかな笑顔のまま、律の手を遥から引き剥がす。
「律、食後にチョコ食べる?」
「た、食べる……」
剥がれた手をそのまま掴んだ蒼乃は、律を席まで連れていき、蒼乃の膝の上に乗せた。
「はい、あーんして」
口の中に入れられたチョコは甘くなかった。




