091 -Aono-
律と放課後残って勉強をし、帰宅してすぐシャワーを浴びた。夕食を食べるよりも前に予期せぬ人物から蒼乃に電話がかかってきた。
「もしもし」
『蒼乃、急に電話してごめんね。突然で悪いんだけど……今からうち来れる? あ、時間あれだったら泊まってくれてもいいんだけど……』
全然話の流れが読めない。何事かと問いただしても、遥は要領得ない感じで『直接会って話したい』の一点張りだった。
「お母さん、出かけてくる。律のところ。泊まるかもしれないからまた連絡する」
泊まりになるなら明日の準備がいるので、制服に着替えて鞄に教科書類を入れる。
律の名前を出したのは、母親の信頼を一番得ているのが律であることと、おそらく今回の一件に律が絡んでいると思ったからだ。
電車を待っている間、律に電話をかけたけど出てくれない。一体何があったのかまったく想像もできないことに焦燥感を覚える。
どんなに蒼乃が急いだところで電車のスピードは変わらない。腹立たしい。乗り換えは人混みだったが可能な限り走った。
遥のマンションに着き、蒼乃はエレベーターも待たずに階段で三階まで上がった。三〇二号室のチャイムを連続で鳴らす。
「そんなに鳴らさなくても聞こえてるよ」
遥は制服姿のまま、蒼乃を迎えてくれた。心なしか元気がない。そして玄関には一足のローファーがあった。遥は普段から運動靴で通学しているので、遥のものではない。律のものだと直感する。
「律、いるの? いるんでしょう?」
遥が「ちょっと待った」と言うのも聞かず、蒼乃はリビングへ繋がるドアを開ける。そこには鼻をかむ、目を腫らした律がいたので、反射的に蒼乃は遥に手が出た。シャツの襟首をつまみ上げる。律にするのとは違う、手加減のない動作だった。
「どうして律がここにいて、どうして律が泣いてるの?」
「や、これからちゃんと説明しますって。あたしが百パーセント悪いから、ここに蒼乃を呼んだんだよ……」
遥のことは放っておくことにして、蒼乃は律の横に滑り込む。新しいティッシュを取り出し、律の鼻に当ててやる。
「ひとまず……すみませんでした!」
蒼乃は生きてきて初めて土下座を見た。遥がカーペットの上に額をこすりつけていた。
「何がすみませんなの?」
「りっちゃんに好きって言って泣かせたので……」
「はぁ?」
言いたいことが山程ある。
「…………私が律と付き合うように後押ししたのは、他でもない貴方だけれど?」
「……いや、本当に蒼乃のことは応援してて……。あたしはそもそもりっちゃんに想いを告げるつもりもなかったんだよ……」
「ではどうして告白したのよ」
遥は少し頭を上げてテーブルの方を見た。明らかに二人分の食事が行われていた形跡がある。
「りっちゃんが美味しそうにごはんを食べてくれて、つい……」
蒼乃は大きく息を吸った。吐く前に律の左耳をつまみ上げる。
「律はどうして自宅と彼女以外の家で、夕飯を食べたのかしら」
鼻の詰まった声でごめんなさいが返ってくる。
「いや、りっちゃんは帰ろうとしたんだけど、あたしが引き止めたの」
「遥はちょっと黙ってて」
蒼乃はしっかりと律と向き合う。
「律、頼まれたごはんを届けに行くことには怒ってないの。でもね、のこのこと家に上がり込んで手料理を振る舞ってもらったことには怒ってる」
「ごめんなさい……もう絶対にしません……」
「あと念のために聞いておくけど、遥の告白に適当な返事をしてないでしょうね」
「してません……」
律が自分の行いを深く反省しているようだったので、蒼乃は耳から手を離す。左耳だけ真っ赤になってしまったが、罰だと思ってほしい。
「……蒼ちゃん、まだ怒ってる?」
「怒ってない」
嘘だ。まだ怒りの炎は消えていなかったが、表に出すことはやめた。
「……私は今まで通りはるちゃんと仲良くしたい。はるちゃんは私の親友で家族みたいなものだから……」
いい話だが、正直蒼乃はジェラシーも感じる。
「遥が今まで通りの対応ができるなら勝手にどうぞ。でも律に手を出そうとしたら許さない」
遥が告白をしたことに起因する騒動ではあったが、すぐに蒼乃を呼んでくれた誠意を買った。
「律に何かあったのかと思ってすごく焦った……」
「ごめんね。蒼ちゃん」
切り詰めた空気が少し緩んだところで、遥が申し訳なさそうに手を上げた。
「何でしょう」
蒼乃は冷たい眼差しを遥に向ける。
「あの、本当にあたしはりっちゃんと付き合う気はなくてね。ずっと好きだったのは確かなんだけど」
歯切れが悪いので、機嫌の悪い蒼乃は「で?」と先を促す。
「りっちゃんにも言ってなかった、と言うか……誰にも言ってないんだけど、あたし、付き合ってる人がいます」
律が鼻をかんだティッシュを床に落とす。
「付き合ってる人がいるのに、律に告白したと」
「だから本当にごめんなさい。つい、本音が出て……。今付き合ってる人はあたしがりっちゃんのこと好きなのも知ってて付き合ってくれてるの」
「待って待って待って」
律が混乱している。ぶつぶつと「はるちゃんが付き合ってる?」と念仏のように唱えている。狼狽していた。
「だれ? 誰と付き合ってるの? はるちゃんが、誰と?」
「律、落ちついて」
震える律の背中を擦る。
「い、いつから付き合ってたの?」
「中三の時からかな。や、正確にはまだ中二か」
予想外の時期だったのか、困惑した律は横から蒼乃にしがみつく。時期からして中学の知り合い、つまり律の知り合いだろう。
「え、誰だれ? 誰? どこの誰?」
律の感情が重い。
「それは……」
遥がとても言いづらそうにしている。これだけ律が食いついていたら言いづらい気持ちも分かる。
「あれでしょう。猫……味噌汁の写真に写ってた人」
蒼乃が記憶を頼りに聞いてみる。確か先輩だと言っていた。
「蒼乃は鋭いね……面識ないのに当てるとか」
「絢先輩!?」
律が蒼乃を思い切り抱き締める。感情が力の強さに比例していた。
「そう。絢ちゃん。絢ちゃんの卒業式の時に告白されて、ずっと付き合ってる。黙っててごめんね」
律にとってまったく予想打にしない相手だったらしく、しばらくフリーズしていた。
「えっと……はるちゃんもおめでとう?」
「うーん。りっちゃんに言われても嬉しくないかなぁ」
辛辣な言葉が律の心を刺しているようだった。
「そんなわけであたしはりっちゃんに手は出さないよ。約束する」
「ごはんで釣るのもなしよ?」
「ごめんってば。もうしないから。ところで蒼乃は今日どうするの? 今から帰る? うちなら泊まっていってもいいけど」
「それなら律の家に泊まる」
「え?」
何も聞かされてない律が戸惑う。
「律、これだけ迷惑かけたんだから泊めてくれるでしょう」
「でも今日はお姉ちゃんいるよ?」
「そんなの些細な問題だから。律はね、お義母さんを納得させればいいの。分かった?」
「はい……」




