089 -Aono-
金曜日の午前授業は全て移動教室であった。どこかマイペースな律を蒼乃が手を引き、グラウンド、パソコン室、美術室と連れ回る。
美術の時間は絵の具を使うので、蒼乃はネクタイを解く。律も絶対に絵の具をつけるので、授業が始まってから蒼乃が解くようにしている。
「律、袖つきそう。ちゃんと捲くらないと」
袖口を捲くるのも蒼乃の仕事だった。律に限っては一時間目の体育から着替えない方がいいのではないかと思う。
選択授業は蒼乃と律が美術、遥が音楽、日向が書道を選択している。美術の時間は蒼乃にとって律と密接にいられる貴重な時間でもある。二人掛けの工作机に律と並び、二時間お喋りを続ける。美術の教師は成果主義なので、授業中は明るい雰囲気が流れている。
「蒼ちゃん、白色出し過ぎたんだけど使う?」
「それならちょっとだけもらうわ。ありがとう」
律は不器用だが絵は上手い。夏前に描いた絵が廊下に飾られているくらいだ。絵が上手いので、当然美術の教師からの好感度も高い。
「律は絵が上手だから選択で美術を選んだの?」
「んーそれもあるけど、音楽は人前で歌うのが嫌だし、書道はねぇ……苦手分野だから」
蒼乃はわりとギリギリまで美術と書道の選択を悩んでいた。今となっては春休みの自分はナイス判断をした。
「絵は上手いのに字は下手くそだものね」
「毛筆なら多少上手く書けるよ」
律は細筆に青色をつけると、下書き用のキャンパスノートに『相澤蒼乃』と書いた。自分の名前ではなく恋人の名前を書くところが可愛い。出来はと言うと、可もなく不可もなく。普段のノートよりは綺麗めな字だった。
「あ、ほら、こんなんよりレタリング上手いでしょ。見て見て」
レタリングとは、ペンで書いた字を手で書くことだ。美術の時間では、お手本となる字を大きく手書きで真似をする。律が見せてきた字は確かに蒼乃よりも上手い。
「不器用なのにこういうのは得意なのね」
「凝り性だから」
確かにちまちまと集中して下書きを描いているのを見た。蒼乃は絵にこだわりを持っていないので、全て無難なラインで仕上げている。きっとこの手の一生懸命さの違いが、教師からの評価が変わるのだろう。
「確か律って中学の美術の先生にも気に入られてたって遥が言ってたわよね」
「なんで今その話が出てくるのさ」
律が気不味そうな顔をする。
「今、思い出したから。竹之内先生だっけ」
「一回しか出てきてないのに名前まで覚えてるの怖いよ……。確かに良くしてもらってたのは私でも分かるあからさまさだったけど……」
後半がもごもご口籠る。律が自覚していたとなると、相当はっきりと態度に差があったのだろう。今からでも教育委員会に言えば何かしら処罰の対処にならないだろうか。
「でも厳しい先生だったから、怒られることなくてよかったかな。怒られても軽く小突かれるぐらいだったし」
軽く小突かれるのは、教師と生徒の距離感ではない。断じてない。蒼乃は筆を持ったまま律に迫る。律の頬に黄色い絵の具がついたが気にしない。
「男の先生って言ってたわよね。完全なるセクハラじゃないの、それは」
「ちょ、蒼ちゃん落ち着いて。父親と娘くらい離れてるって」
「年齢関係なくダメ。というか若い先生にだけモテているのかと思ったらそんなことないのね」
律は筆を置き、両手を軽く上げた。降参ポーズらしい。
「蒼ちゃん、私その先生とは卒業以来一切連絡取ってないよ。もちろん連絡先も交換しておりません。向こうが一方的に気に入ってくれてただけなので……」
「はぁ、そう」
蒼乃はため息をつく。過去のことなので、今更蒼乃が何を言っても仕方がない。しかし、むしゃくしゃしたので蒼乃は律の顔にさらに絵の具を重ねた。
「なんかムカつくから今日はこのままでいて」
「八つ当たりだぁ」
そんなこと言いつつ、律は顔を洗わなかった。真面目な子だ。
◆ ◆ ◆
「あれ、二人ともネクタイはどうしたの?」
昼休み、美術室から教室に戻ると遥から指摘を受けた。
「片付けがバタバタしてたからつけるの忘れてたわ」
蒼乃のポケットにはネクタイが二本ある。名前を書いていないので、どちらが蒼乃のものか分からない。
「てゆうかりっちゃんはなんで絵の具を顔につけたまま帰ってきたの」
「罰ゲームなので……」
蒼乃は遥と話す律の胸ぐらを掴み、自分に引き寄せる。シャツの襟を立て、二本あるうちの一本のネクタイを結んでやった。
「毎朝蒼ちゃんに結んでもらおうかな」
そんな発言一つで蒼乃の機嫌が全快するわけではないが、その案は採用とする。
「いつまでもいちゃついているのならわたしは先にお昼をいただきますよ」
机を寄せた日向がお昼ごはんのコンビニ袋を出す。今日は弁当ではないらしい。
「あたしもお昼食べよーっと」
遥もコンビニ袋をリュックから取り出してきた。律も蒼乃に「お昼にしよう」と言う。蒼乃は自身のネクタイも結び席に着く。
いつも通り、蒼乃は律とお弁当のおかずを交換する。いつまでも気にしていては大人げないので、蒼乃も気持ちをリセットする。顔の絵の具は拭いてあげないが、卵焼きを咀嚼している律の頭は撫でた。
「明日で二月も終わるねー」
蒼乃と律のことは無視され、遥が世間話を始める。
「あっという間ですよね。受験からもう一年ですか」
「受験はりっちゃんと一緒だったね。りっちゃん、面接でガチガチに緊張してた」
「しょうがないじゃん……。人見知りに面接は酷なんだよ……」
「高校の面接なんて、内申点足りていれば余程なことがない限り弾かれないでしょう」
「そんなこと分かってても緊張するのー」
律が唇を尖らせた。昼休みだけど、可愛いのでキスがしたくなる。
「でも律が無事に受かってくれてよかった。会えてよかった」
「私もだよ。蒼ちゃん」
「まーた惚気が始まったよ。なんの話題振ってもこれだから嫌になっちゃうよ」
遥がこれ見よがしに蒼乃以上のため息をつく。蒼乃はまったく気にせずに律を抱き締めた。




