087 -Aono-
約三百人によるマラソン大会が始まった。女子が走る距離はおよそ三キロなので、三十分も経たないうちに終わる。
蒼乃と律はちょうど団体の中間くらいにいる。蒼乃はトップランナーたちに並ぶ体力を持ち合わせているし、律も平均より速いタイムを保持している。つまり、手を抜いてお喋りをしながら走っていた。
「どう? ネックウォーマーは暖かい?」
「絶対マフラーの方があったかい……」
「律は首が細いから」
蒼乃の力でもへし折れそうなほど細い。ユニセックスのものでは大きかったのであろう。
「蒼ちゃんこそ寒くない?」
「意外と平気かも」
手先は冷たいから、本当は律と手を繋ぎたい。
「走っている間、暇だよね。まぁシャトルランよりはこっちの方が好きなんだけどさ」
「シャトルランは私も嫌い」
音階が聞こえてくるだけで嫌という人は多いだろう。
「私、シャトルランでも転んだことがあって」
「また?」
「小一の時にね、二十回いくってところで靴が脱げて転んだの。あと一回はいきたかったなぁ」
「今日はちゃんと靴紐結んだ?」
「結んだよ。大丈夫」
爽やかな笑顔で返されたが信用できなかったので、蒼乃は律の足元を見る。今のところは解ける気配はない。
「律って、四月のシャトルランもいい成績残していたでしょ」
「蒼ちゃんの方が回数上でしょ」
「律にはちゃんと体力つけてもらわないと困るから」
蒼乃の意図を察知した律の顔が赤くなる。
「できれば私が満足するまで頑張ってほしい」
「蒼ちゃんは何回すれば満足するのさ……」
小声で言ってくる律に、蒼乃も小声で返す。
「知りたい?」
律がぶんぶんと首を横に振る。本日何回目かの可愛いが心の中で漏れる。
せっせと道を走っていく。道が分かれるところには教員が立っていて、進行方向を案内していた。
「八重ちゃんだー!」
案内板代わりに立っていた八重樫を見つけ、律が手を振る。さすがに八重樫が手を振り返すことはなかったけれど、視線は律に向かっていた。
「アイザワさん、真面目に走りなさい」
蒼乃も一瞥される。もっと速く走れるだろうと言いたいらしい。
「またねー、八重ちゃん」
律は注意を耳に入れず、八重樫を抜く時に再び手を振る。
「律、ちゃんと前を向いて走って」
こういう些細なところで転ぶのだろうなと蒼乃は呆れた。
「先生も大変だよね。寒いところに立たされて」
八重樫がダウンジャケットを着ている姿は初めて見た。そもそも教員の学校外の姿を蒼乃は知らない。律は知っているようだけれど。
「私、学校の先生にはなれないなー」
「なれないと言うか、なっちゃダメ」
「え、どうして?」
「こんな可愛い先生がいたら、生徒に手を出されちゃう」
「いやー現実に教師と生徒の関係はないでしょ」
律は笑うが、蒼乃にとっては笑い話じゃ済まされない。
「でも私の友達にいたなー。中学を卒業する時に、先生に告白している子」
「ほら」
「ほらって……。もちろん振られていたよ」
それは体面的に振るしかないだろう。でも世の中には子供に手を出す大人もいるから、律のことは蒼乃が守らねばならない。
「蒼ちゃん、そろそろ一周するよ」
それにしても、グラウンドを走るのは最初と最後だけ。この間応援もできない男子は何をしているのだろう。
「蒼ちゃんは疲れてないよね」
「律は疲れたの?」
「ううん、正直走るより……ね?」
「走るより何?」
言いたいことは百パーセント伝わっていたが、蒼乃は意地悪をする。
「いや……あとで言う」
「あとで聞いたら忘れたとか言うでしょ。今言って」
「…………」
律の横顔がだんだんと紅潮していく。耳まで赤くなったところで、律はあたりを見回した。近くに人がいないことを確認すると、小さな声を出した。
「蒼ちゃんとえっちする時の方が疲れる……」
録音しておくべきだったと蒼乃は悔いた。
「やっぱりあとでもう一度言って」
「話が違くない?」
顔が熱くなった律は、冷えた手先を頬に当てている。蒼乃の指もお手伝いする。
「ひゃっ!? 蒼ちゃん、いきなりはやめて」
「びっくりする律が見たいんだもの」
「今度は私が蒼ちゃんをびっくりさせるからね」
周りが少し疲れてきているところで、仲良く騒いでいると「アイザワさん、真面目に走りなさい」と一周目と同じ注意を受ける。八重樫だった。
「八重ちゃん、一位通過誰だった?」
「先頭集団に小谷瀬さんがいましたよ」
律の問いに的確に答える八重樫。受け持ちの生徒の交友関係くらいは頭に入れているのだろう。
「はるちゃんはすごいねー。陸上部の人についていってるんだ」
「このままだと私が肩揉みする流れね」
「そうなったら蒼ちゃんの肩揉みを私がしてあげるから」
「……律にされるより律にしたい」
「マッサージの話だよね?」
蒼乃も律も体力は余っていたので、少しペースを上げる。グラウンドが見えてきた。あの四百メートルトラックを回り終えればゴールだ。
「これでマラソンの授業が終わるねー」
「私からしたら律とずっと話せる時間だから結果的によかったわ」
ゴールテープはないが、ラインを越えたところで紙をもらった。今回の順位らしい。最後の方頑張ったからか、蒼乃たちは二桁に収まっていた。
「終わったー終わったー」
着いた順で着替えていいそうだったので、蒼乃は律と一緒に一度スタンドに戻る。
「やっほー! お疲れ!」
一足先に遥が着替えていた。
「はるちゃん、どうだった?」
「じゃーん!」
遥が『1』と書かれた紙を見せる。蒼乃と律は拍手を送る。律が遥とハイタッチをした。このくらいは蒼乃も目を瞑る。
「風邪引いちゃうから二人とも着替えておいで」
荷物を持って更衣室に行く。来た時よりも混雑していた。蒼乃は少しでも人のいないところに律を詰めさせ、律の壁になるようにして着替えた。
「律、また髪がボサボサになってる」
「えー直して、蒼ちゃん」
「上に行ったら直してあげるから」
蒼乃は着替え終わった律を更衣室から連れ出す。そこで更衣室の横に通路があるのを発見した。この先に部屋があるらしいが、今は人の出入りがない。
「律」
律の名前を呼び、蒼乃は通路の中に彼女を引き込んだ。
「蒼ちゃん、ここ入っていいの?」
「立入禁止とは書いてなかったでしょう」
壁に律を追い込む。巷で言う壁ドンというやつだ。
「まだ体力余っているのでしょう」
「いや……ここじゃ周りに聞こえちゃうよ?」
確かにすぐそこに更衣室があって絶えずに人が出入りをしている。なんなら出る方向を間違えた人に見つかるかもしれない。
「聞こえちゃうなら、声を抑えて」
律の顎に指を添わせ、上向きに修整する。そして、蒼乃は口づけをした。
それから蒼乃はスマホを取り出す。
「さっきの疲れるって話、もう一度言って」
「嫌だよ……」
「どうして?」
「恥ずかしいから……」
「でも言って。お願い」
スマホの録音ボタンを押すとピッと高い音がした。蒼乃は無言で律に圧力をかける。
「……蒼ちゃんと……ぇ、えっちする方が、疲れる」
蒼乃の声が入る前に停止ボタンを押した。
「律、ありがとう」
震える唇を蒼乃は塞ぐ。録音したデータは寝る前に百回再生しようと思う。
男子の走りなんて興味がない。もう終わるまでずっとこのままでいたい。唇をあわせては離し、また求めあうようにあわせる。
律の目に涙が溜まってくる。その姿が愛おしくてたまらない。
「昨日あんなにしたのに律が欲しくてたまらないの」
「……私も、蒼ちゃんが欲しい」
そんなことを言われてしまっては、あげるしかないと思い、蒼乃は口から愛情を注ぎ込む。
律の手を両方とも絡み取り、壁に押しつける。
廊下からは少女たちの穏やかな声が響いてくる。目を開けていた蒼乃は視界の片隅で見えたのだが、二人組の女子生徒が気配を感じ取ったのか、迷ったのか、通路を覗き込んできた。すぐに空気を読んでいなくなってくれた。
他人に見られていたことなど知らない律は、たまに目を開けては恥ずかしそうに目を閉じるのを繰り返していた。
「律、好き」
走っている時よりも律の息が乱れてきていることに、蒼乃は満足感を得ていた。
しかし、だんだんと喧騒が落ち着いてきた。後ろを走っていた組もゴールしたに違いない。蒼乃はこのままここに留まるか、スタンド席に戻るべきか考える。
目の前の律を見た。……このまま続けたら集団に戻るのは難しいかもしれない。名残惜しいが、蒼乃は律から離れる。
「律、大丈夫?」
「へーき」
律がもたれかかるように抱きついてくる。蒼乃も細い腰に腕を回す。
「遥のところへ戻りましょうか」
スマホを見ると遥から『なにしてんの?』とメッセージが着ていた。たかが制服に着替えるだけなのに戻ってこなかったら心配もするだろう。
「蒼ちゃん」
「何?」
「あと一回だけキスしたい」
意味が分からないくらいに彼女が可愛い。蒼乃は要望通りに一回、律に長めのキスをしてからスタンド席に戻った。




