過去(15)
ダイニングテーブルの向こうにはキョトンとした顔の天野が立っている。
「……?」
彼女の声のトーンは渚とまったく違う。聞き間違えるはずがない。
では、先ほどの声はなんだったのかと狐に摘まれた心境になったが、昨日の夢の影響による空耳だったのだろうと気を取り直し天野に席を勧めた。
「さあ、座ってください。一度料理を誰かに味見してもらいたかったんです」
蛸唐草模様の陶器の椀に盛られた炊きたてのご飯と、梅干しと海苔とたくあんの載った白いシンプルな小皿、手触りのよさそうな木の椀にたっぷり盛られた豚汁。だが、何よりも目の前に料理を喜んでくれる天野の笑顔があった。
「美味しそーう」
天野は豚汁と炊きたてのご飯を強化合宿中の野球部員さながらにかき込んだ。景気のいい食いっぷりに思わず口元が緩む。
「あー、もう、東海林先生、泣けるほど美味しいです! やっぱり日本人は味噌と米ですよね」
天野からすれば美味しいと言える味に仕上がっていたらしい。というよりは、彼女はなんでも顔を輝かせて平らげそうだ。
自分にとっては味気ない料理でも、天野がパクパク美味しそうに食べているのを見るだけで、同じように食事を楽しんで気分になる。一体この感覚はなんなのだろう。
ご飯の茶碗があっと言う間に空になったので、もっと天野が食べる姿を見たくてお代わりを勧める。
「たっぷりあるのでお代わりはいかがですか? よそいますよ。私一人では食べ切れませんし」
すると天野は顔を上げるが早いか茶碗をずずいと差し出した。
「はい! お母さん、お代わり!」
いわゆる低学年の小学生が学校でうっかり女性教師を「お母さん」と読んでしまうあの現象だ。しかし、お父さんならともかくなぜお母さんなのか。
自炊だけではなく家事をほとんどこなしているので、主婦的な雰囲気になっていたのだろうか。
だが、いずれにせよ──
「あー……えーっと、これは、そのお……。も、申し訳ございません。さっきのお母さんってのは、そのお……」
顔を真っ赤にしてあたふたする天野を眺めているうちに、堪えきれない笑いが込み上げついぷっと吹き出してしまった。
「せ、先生?」
「お、お母さん、お母さんって。やっぱり天野さんは面白い人ですね」
こんなに笑ったのは何年ぶりだろう。愉快な気分のままお代わりをよそって天野に手渡す。
もう自分は食べなくてもよくなっていたのだが、一度食器に注いだ豚汁を鍋に戻すのにも抵抗がある。少々冷めた豚汁を一口飲んで思わずその水面に目を落とした。
「昔食べた味だ……」
家族での最後の晩餐の豚汁と同じ、じんわりと心から温まる素朴な旨味。何度も再現しようとしてできなかった味をなぜ今になって──
ああ、そうか。
気付いてしまえばこんなにも単純だった。あの日の食卓にあって今までなかったもの。
向かいの席の天野に目を向ける。
彼女は口一杯に里芋を詰め込んでいた。ハムスターかよと二度噴き出したくなるのをどうにか堪える。
「ど、どうしたんれすか?」
「美味しいですか?」
「それはもう、鍋ごと持ち帰りたいくらいです。特に焼き豆腐と里芋が絶品です!」
やっと母の隠し味がわかったのだと伝えると、天野は不思議そうに首を傾げた。
「えっ、なんだったんですか?」
「隠し味なので秘密です」
──君と一緒に食べるだけでこんなに美味しい。
「何もったいぶっているんですか。東海林先生、ネタは出し惜しみしない方がいいですよ」
窓から差し込む陽の光と豚汁から立つ湯気の向こうにある笑顔と。
──たったそれだけで世界はこんなにも美しい。




