過去(6)
大将が漬けマグロの握りの皿を差し出す。
「おや、天野さんのご実家はお祖母さんの手作りだったんですか。昆布締めはシンプルな料理ですが、それだけに奥が深く家庭によって味が違ってくるんですよ。家庭料理にも歴史と文化ありですね」
「私もお祖母ちゃんに教えてもらって一度作ってみようかなあ」
家庭料理にも歴史と文化がある──大将の何気ない一言に気付かされる。
家族から渚が欠け、両親が欠け、やがて自分一人が残された。あるいは自分も欠けた側だったのか。
いずれにせよ、家族が体をなさなくなった時点で、東海林家の歴史と文化は絶たれた。渚とともに母を手伝って作り、家族四人で食べた家庭料理も。
母の死後味覚を失ったのは過度のストレスだけではない。家族を死に追いやった自分を許せない思いがそうさせていたのだろう。
その後一人きりになった未成年を放っておけないと、渚の捜索で便宜を図ってくれた元警察官の義父に引き取られ、カウンセリングを受けるよう勧められた。
世話になっている以上、断ることなどできずにしばらく通い、やがて時間をかけて味覚自体は戻ったが、今度は何を食べても美味いと思えない。
食事を美味いと感じるのは栄養を摂取するためだけではない。喜び、感謝し、幸せを噛み締めるため、つまり、人間らしく生きるためだ。
なら、いまだに何も美味いと思えない、亡霊のような自分は一体何者なのだろう。
かつて家族四人で囲んだ食卓の、母の手料理はどんな味だったのか。それを思い出しさえすればまた人間に戻れる気がした。
だから、記憶を頼りに東海林家の味を再現しようとして、数年前から自宅で料理をするようになっている。
漬けマグロの握りを口に入れる。やはり美味いとは思えない。
とはいえ、せっかく天野がこちらを気遣って……かどうかは怪しいが、接待してくれているのだ。不味いなどとは言えない。
「ん、美味しいですね。醤油のまろやかさとマグロの脂がよく合っている」
「さすが小説家の先生ですね。よくわかっていらっしゃる! その醤油は創業二百二十年の老舗の醸造所のもので、江戸前寿司にピッタリの味なんですよ」
「……」
天野の視線がなぜか自分に向けられたのを感じる。落ち着かない。澄んだ栗色の瞳に何もかも見透かされている気がする。
「あのう、東海林先生……もしかして」
天野は一旦口を開いたが、またすぐに閉じてお茶を啜り、今度はこっそり耳打ちをしてきた。
「このあとお時間ありますか? デザートは外で取りましょう! オススメのお店があるんです」




