大人のおやつ(5)
アルコールがゆるゆると心身に回る。食べながら飲んでいたからか、ほどよい酔い加減で気持ちがいい。
一方、東海林は温泉プリンを手に取り、原料と製造元を確認していた。
「湯田中温泉にはまだ行ったことがありません。長野県ならきっと食事も美味しいんでしょうね。ワラビ、タラの芽、山ウドの取れる山に、鮎、イワナ、ヤマメの釣れる渓流に……羨ましい。観光だったのですか?」
「あっ、いいえ。従姉の結婚式に出席するついでだったんです。って、結局観光ですね」
編集者としての守秘義務があるので、高岡の件については何も語るつもりはない。
だが、酔っているからか、なんとなく胸の中にふわふわ漂う愛しさや切なさや、そんな自分の気持ちを言語化したくなっていた。
「実は、そこで昔憧れていた人に会ってですね……」
テーブルの上に手を組み額を乗せる。走馬灯のように空也追っ掛け時代のいくつもの忘れられない出来事を思い出した。
英語と数学と生物と世界史で赤点を取り、更に仲の良かった友だちと大ケンカをし、とどめにクラス一のイケメンの小泉君に幼馴染みの可愛い彼女がいると知り、人生のどん底にいた高校一年生の秋。たまたまつけたテレビの音楽番組でMUSASHIが歌って踊っていたのだ。
液晶画面の向こうの空也は彼自身が太陽であるかのようにキラキラ眩しく輝いていて、曇っていた自分の心までもがその光に照らし出される気がした。
以降、お小遣いの無駄遣いは一切辞め、アルバイトに励み、全国に遠征して空也を追っ掛けた。
兄からは手の届くはずのないアイドルに夢中になるなど時間の無駄だとバカにされた。男は顔ではないとも。
ちなみに、前者の主張には「バカで結構」。後者に対しては「その主張はイケメンでないと説得力がない。よって却下」と答え、涙目の兄と大ゲンカになったのも懐かしい思い出だ。
その後東京に引っ越せばより空也に近付けると、かの地の大学への進学と希望。両親からならば国公立でなければ許さないと宣言され、目を血走らせて家族友人知人、教師までもが引くレベルで猛勉強し、見事某女子大に見事合格した。
兄をしてバチカンに奇跡調査官の派遣を要請して認定してもらえと言わしめたほどの快挙であり奇跡だった。だが、神もまさかイケメンアイドルを追っ掛けるために奇跡を起こしたとは思わなかっただろう。
いずれにせよ、空也は永夢の高校生活を彩っただけではなく、人生にも影響を与えていたのだ。
だからこそ、空也の現在──高岡の姿は衝撃的だった。失望したのではない。
芸能界引退の理由はきっと妻の美奈月と息子の翔也なのだろう。
美奈月は当時すでに翔也を身籠っていたのだろうが、心の病だった彼女が育児をできたとは思えない。故郷に戻って美奈月の両親の手を借りつつ、翔也を必死に育てたのではないか。
逃げ出すこともなく家族を大切にする高岡は、以前とは別の形で輝いて見えた。眩しかった。
「……好きになってよかったなあって思ったんです」
幸せでよかったとも。
ふと、優しいとは人が憂うと書くのだと気付く。
元カレの悠人にもいつかこんな切なくも優しい気持ちを抱けるようになるのだろうか。今はまだタンスの角に足の小指をぶつけてしまえとたまに呪っているが、時が経てば悠人との日々も思い出となり、幸せを願えるようになるだろうか。そんな自分になれれば嬉しかった。
「うん、頑張ろ……。受験より難しそうだけど……」
東海林は何も言わずに黙って聞いくれていたが、永夢が顔を上げると頬杖をついて唇の端を挙げた。
「天野さんは原動力は好意なのですね。道理で何をしても楽しそうなはずです」
「そう見えますか?」
「ええ」
眩しいものを見るような切れ長の目にドキリとする。慌てて缶ビールに口をつけたが、あいにくもう一滴も残されていなかった。
「もう半分しかないのですが、よろしければどうぞ」
「あっ、はい。では遠慮なく……」
東海林が差し出してくれたそれをありがたくいただく。
「いつもポジティブなわけじゃないですよ。ホラー小説家の先生を担当することになった時は、半泣きで初稿読んでましたし」
「おや、ホラーが苦手なのですか?」
「はい。私惨殺死体とか血がブシャーとか幽霊とか全然ダメなんですよ。ゾンビ映画なんか見た日には夢に出ますし」
もっとも、それで眠れないだの、食事も喉を通らないだのということにはならないのだが。
東海林はわずかに眉根を寄せ、「困りましたね」と唸った。
「私の作品には幽霊やゾンビは登場しませんが、惨殺死体や血がブシャーという状況は頻繁に書きますから」
「いやいや!」
不快にさせてしまったのかと慌て、洗濯機の水流強並みに首を横に振る。
「確かに苦手ですが仕事ですから! 東海林先生の作品は怖さを撥ね除けるくらい面白いですし。それに……」
「それに?」
一年前東海林を担当することになり、それまでの既刊をすべて読んだのだが、すぐに作風を好きになった。
「その、ミステリーへの感想じゃないと思うんですけど、先生の作品には必ず料理をするシーンやご飯を食べるシーンがあるでしょう? すごく美味しそうで幸せそうで……だから、いいなって」
作品が好きだと言ったはずなのに、東海林を好きだと告白してしまったようで気恥ずかしくなり、顔を伏せてビールを一口飲む。
だから、東海林の優しい微笑みと唇だけのその呟きを知ることはなかった。
「……殺し文句だなあ」
──もし高岡に次回作を依頼することができそうなら、温泉街に仲良く暮らす家族が主人公の人情ものがいい。きっと優しく温かい物語になるに違いなかった。
第二話『小鮎の天ぷらと二種のかき揚げ』終
少しでも面白いと思っていただけたら、★をいただけると嬉しいです!




