元推し(3)
障子の隙間からわずかに見える、湯田中の闇に目を向ける。
日中には緑に覆われた山々や田畑が広がっていたのに、夜は黒一色でずっと眺めていると心までもがその色に塗り潰されそうだった。
「そろそろ蛍の季節ですね」
「えっ、この辺りに出るんですか?」
「はい、露天風呂から小川が見えませんでしたか? そこで毎年蛍が舞うんです」
「蛍が舞う」という表現と闇を見つめる高岡の眼差しに、作品の「蛍殺し」のタイトルが重なった。
「──もちろん、後悔も未練もありました。僕も生半可な気持ちで芸能界に入ったわけじゃない。夢も野心も人一倍あった。そう簡単に割り切れるなら男ではありません」
夏の夜、小川で蛍を目にするたび、時折テレビやラジオ、ネットでかつてのMUSASHIの仲間を見かけるたびに、そうした後悔や未練が澱のように心の底に溜まっていった。
「こんな調子では妻にも悪い。だから、その澱をすべて吐き出したかった。天野さんのように自分をずっと支えてくれたファンや、芸能界でお世話になった皆様に、何か言い訳をしたかったのもあったかもしれません。気が付くと文章を書いていました」
主人公に思いを託し、書いては消し、また書いては直し、二年掛けて青春小説の原稿を完成させ、青雲館の新人賞に応募した。一人でも多くの人に読んでほしいと。
「そう、だったんですか……」
永夢も高岡の視線を追って湯田中の闇を見つめる。
永夢は自分がなぜ「蛍殺し」に惹き付けられたのかがわかった。
作品中で幻のように美しい夏の夜、闇の中でキラキラ輝いていた蛍は、かつての彼自身なのかもしれなかった。
翌朝の湯田中の空は青く、夏らしい塊になった雲が浮いていた。
チェックアウトをした永夢を高岡は門まで見送ってくれた。
結局、宿泊料金の差額は受け取ってもらえなかった。高岡は「オーバーブッキングで予約されたお部屋が埋まっていたので、お詫びだと思ってください」と悪戯っぽく笑った。
「……わかりました。そういうことにしておきます」
過去を彷彿とさせる笑顔にほんの少しときめいてしまったのは、永夢だけの秘密にしておくつもりだった。高岡はもう人妻ならぬ人夫なのだから許されない。
「このあとはすぐに東京にお帰りですか?」
「はい。明日から仕事なので」
「あっ、そうだ。少々お待ちいただけますか」
高岡は身を翻して瑞雲楼に戻ったかと思うと、紙袋と小ぶりの発泡スチロールを抱え、再び永夢の前に現れた。
「こちら、どうぞ。湯田中土産の温泉プリンと冷凍の小鮎です。プリンは試供品、小鮎は訳ありで商品にできないから、よければ配ってくださいって頼まれているんですよ」
「コアユ?」
「小ぶりの鮎ですね。妻の友人の実家が信州鮎の養殖所なんです。昨日お出しした鮎の塩焼きもここの養殖所のもので……。冷蔵庫でゆっくり解凍して、揚げ物にすると美味しいですよ。あっ、でも、荷物になってしまいますね。ご自宅に送りましょうか」
「いえいえ、これくらいなら持って帰ります。ありがとうございます」
永夢は高岡に手伝われ、荷物と土産物をタクシーに積み込んだ。
「では、またご連絡しますので」
「このたびはありがとうございました」
後部座席に乗り込んだ永夢に、高岡が深々と頭を下げる。
永夢もぺこりとして礼を述べようとしたのだが、途中、子ども特有の澄んだ高い声に遮られてしまった。
「あっ、お父さーん!」
子ども用の自転車が高岡の前でキキッと停まる。サドルには小学校低学年ほどの、短パンのわんぱくそうな少年が腰掛けていた。
子どもは今高岡をお父さんと呼ばなかったか──恐る恐るその姿を確認して目を見開く。
びっくりするほど可愛い子どもで、高岡と美奈月、双方のいいとこ取りの顔立ちである。
「なんだ、お前。どこ行くんだ」
「石田んち!」
「昼飯までには一旦戻れよ」
「おう!」
子どもを見る高岡の眼差しは愛情に満ち溢れていた。
呆然とする永夢に気付いて気まずそうに笑う。
「息子の翔也です」
「……!」
永夢は脳内で何かがガラガラと崩壊していく音を聞いた。




