元推し(2)
眼鏡の向こうの意思の強い眼差しにドキリとする。手の届かないアイドルとしてではなく、生身の空也を初めて見た気がしたからだ。
「もちろん、強制することはありませんし、先生のプライバシーは尊重します。"蛍殺し"はいい作品で、すでに営業も動き出していますから、それだけで出版中止ということにはなりません」
口にすべきかどうかを迷ったが、聞かずにはいられなかった。
「高岡先生、どうして小説を書いたんですか」
そしてなぜ新人賞に応募したのか。
「小説家になって、有名になって、誰かに読んでもらいたいからでは?」
プロの小説家がジャンルを変え、変名で作品を執筆することはある。例えば、児童文学の小説家が官能小説を、ライトノベルの小説家が純文学を書いた場合などだ。各ジャンルの読者層の印象への考慮や、もう一方のジャンルのイメージを引きずりたくないからだろう。
だが、高岡は違う。
「なぜアイドルだったことを隠しておきたいんですか? 引退の際、大変だったことは私も知っていますが……」
高岡は苦笑し「過去を隠したい理由はいくつかあります」と答えた。
「ひとつは僕と家族の身の安全のためです。三年前、世間や昔のファンはもう僕など忘れているだろうと、特に警戒することもなく平穏に暮らしていたのですが……」
なんと、狂信的なファンの女性のひとりが空也の──高岡の現状を突き止め、従業員として入り込んだのだとか。ありとあらゆる個人情報を調べ上げ、自宅に不法侵入していたところを鉢合わせた高岡が捕まえた。
「そ、そんなことが……」
自分も狂人と紙一重のファンだったとは思うが、さすがにそこまでしない、というよりはしたくはない。嫌われるのが怖くはなかったのかと思う。
「もうひとつは千奈美の、妻の病気を慮ってのことです。もう寛解し、あの通り働いてはいるのですが、まだ芸能界やモデル業界にトラウマが……」
千奈美とは美奈月の本名なのだろう。
「奥さんはご病気なんですか?」
「実は、東京にいた頃摂食障害とうつ病を患ったんです」
仕事が行き詰まっただけではなく、モデル事務所でのトラブルや人間関係に悩んでいたのだという。高岡が詳細を濁したところからして、業界の闇を象徴するような出来事だったのだろう。
「僕は付き合っていたのに何もできませんでした。しなかったと言った方がいいか」
美奈月はモデルになるのは夢だったが、これ以上頑張れないと泣いたのだと言う。
「もう、湯田中に帰りたいと泣きました」
もともと高岡と美奈月──千奈美は中学校の同級生だったのだそうだ。その頃は仲のいいクラスメート程度の間柄だったのだが、互いに上京してデビュー後、仕事を通じて再会し意気投合。こっそり付き合うようになったのだという。
「妻は義父母から跡を継げと押し付けられるのを嫌がって、絶対に帰らないとよく主張していましたが、結局モデル業界の水が合わなかったんでしょうね」
一方、当時MUSASHIは人気が鰻登りだった時期で、会う機会がどんどん減っていた。
そんな中千奈美が自殺を図ったのだという。
永夢は思わず声を上げた。
「じゃあ、やっぱり高岡先生のせいじゃなかったということですか?」
話の流れからするとうつ病が原因としか考えられない。
「どうしてあんなひどい報道に反論しなかったんですか」
「アイドルはイメージが最優先ですからね。事務所にもマネージャーにも迷惑をかけてしまいました」
「だからって、先生が泥を被るとか」
高岡は和卓に身を乗り出した永夢に微笑みかけた。穏やかな、何かを悟った微笑みだった。
「僕にとってはそうすることが最善だったんです。今でもその点については疑っていません」




