いざ湯田中(1)
翌日、永夢は長野駅発の特急ゆけむりのんびり号、湯田中駅行きの指定席に揺られていた。タブレットを取り出し、PDFで保存しておいた、高岡のデビュー作「蛍殺し」のゲラをチェックする。
「蛍殺し」は前年の新人賞に応募された作品だ。ただし、その新人賞では最終選考で落選している。
永夢も最終選考まで通過した作品には目を通したのだが、その文章のみずみずしさと心を締め付けられるようなストーリーに目が離せなくなった。
結局大賞はそれなりに面白く、アクションが派手で映像化しやすい。更に話題性があるということで、現役美人女性医師の作品に決定した。
しかし、永夢は「蛍殺し」を諦め切れなかった。錦戸や三上、同じく「蛍殺し」を評価していた副編集長の力を借り、一年かけて企画を通し出版に持ち込んだのだ。
とはいえ、編集長は副編集長に押されゴーサインを出してくれはしたが、いまだに小説家本人に話題性がないとブツブツ言っている。それだけに、一体高岡から何を打ち明けられるのかと冷や冷やしていた。
まだ引き返そうと思えば引き返せる段階ではあるが、辞退されたら作品にも高岡にも振られたようで悲しい。人気イラストレーターに苦労して交渉し、ブックカバーの表紙のイラスト──装画作成の約束は取り付けてあるし、営業にもかけあい販促にも力を入れているのだから。
いずれにせよ、高岡に会わなければ何も始まらない。永夢は気合いを入れて湯田中駅に降り立った。
湯田中駅は読んで字のごとく、長野県北東にある有名な温泉街、湯田中渋温泉郷の最寄り駅だ。なんと開湯一三五〇年の歴史があるのだとか。旧駅舎の隣にはかけ流しの日帰り温泉、「楓の湯」があり、街の端から端まで温泉づくめなのだと予感させられる。
日曜日だからか観光客が多く、鄙びた駅は混雑している。年配の夫婦が多い。永夢は小さな体を生かして人混みをすり抜け、駅前でタクシーを拾い目的地へと向かった。
窓から眺める街のあちらこちらから湯気が立ち上っている。長い年月とともに湯気が染み込んだのか、ところ狭しと建ち並んだ大小の木造の温泉宿には、東京にも金沢にもないしっとりとした風情があった。
高岡万次郎はこの湯田中渋温泉郷の一温泉宿、「瑞雲楼」で働いているのだとか。客室は十二しかない小規模な旅館で家族経営。高岡の妻の実家だと聞いているので、高岡は婿入りした若旦那ということなのだろう。
永夢は今日この瑞雲楼に宿を取っていた。高岡とは夕食後、部屋で話し合うことになっている。
実は高岡は永夢に会いたいと希望した際、当初は自分の都合なので上京し、青雲館を訪ねると申し出ていた。だが、永夢は申し訳ないので私が参りますと断ったのだ。一見高岡に負担を掛けさせないようで、なんのことはない。高岡を口実にのんびり温泉に浸かりたかっただけだった。
タクシーが大木をスライスして作られた、「瑞雲楼」の看板の立てかけられた旅館前に停まる。
「お客さん、いい宿を選びましたね。もちろん、この辺はどの宿もそうですが、瑞雲楼は料理が絶品なんですよ」
「えっ、そうなんですか?」
ワクワクしつつタクシーを降り渋染めののれんと一つしかない自動ドアを潜る。
チェックイン時刻までまだ十分ほどあるからか、フロントには誰もおらず静まり返っている。呼び出しベルが置いてあったので慣らしてみると、奥から小豆色の作務衣を身に纏った、すらりと背の高い若い美女が現れた。
こんなところに芸能人レベルの美女がと息を呑む。
「お待たせして申し訳ございません。ご予約のお客様ですか?」
しかも、この美女には見覚えがあった。戸惑いつつも記憶を探る。
「あっ、はい。一泊予約した天野で、高岡……岡田空也さんと約束がございまして……」
永夢は心の中であっと声を上げた。
見覚えがあるはずである。かつて首ったけだったイケメンアイドル、空也のスキャンダルの相手だったモデルの美奈月だった。




