豚汁で朝ごはん(4)
黒に近い濃い茶の瞳に影が落ちた。
「……ええ、そんなものですね。だから、人に作ってもらった味ではダメなんです。何かが違う。だったら私が自分で作ればいいと思いまして。ですが、なかなか難しい。今日の豚汁も目指す味ではない気がします」
なるほど、それは難しかろうと永夢はうんうんと頷く。
「実家の味の再現って結構難しいですよね」
私はお袋の味の再現どころか、そもそも料理をしていないけどと心の中で付け加える。
日々の仕事に忙殺されているからとは単なる言い訳で、掃除やその他の家事と同じく悠人に振られた今、相当気合いを入れなければ料理をしようという気にもならないからだ。近頃の夕食はもっぱらスーパーの惣菜のおつとめ品とおにぎりである。
もちろん、おつとめ品もプロが作った料理には違いないし、一定レベルの味は保証されている。だが、レンジで温め一人で口にする惣菜を、あまり美味しいとは思えなかった。
一方、東海林の豚汁はご飯と一緒に何杯でもお代わりできそうだ。気が付くともうどちらの椀も空になっていた。
東海林はまだ自分が口にしていないのに、担当編集者が瞬く間に料理を平らげたのに関心したのだろうか。微笑みを浮かべつつ永夢に尋ねる。
「たっぷりあるのでお代わりはいかがですか? よそいますよ。私一人では食べ切れませんし」
とにかく空腹だったからか、永夢の脳内からは遠慮という概念が消失していた。木の椀を東海林に向かって差し出す。
「はい! お母さん、お代わり!」
しまったと思った時にはもう遅かった。
東海林との狭間の空間に沈黙が落ちる。
「あー……えーっと、これは、そのお……。も、申し訳ございません。さっきのお母さんってのは、そのお……」
低学年の小学生が学校でうっかり女性教師を「お母さん」と読んでしまうあの現象だ。しかし、永夢は二十四歳の大人である。
おまけに、お父さんならともかく、お母さんとはなんだと自分を叱り付ける。いや、お父さんも論外だなどと脳内で一人ノリツッコミをループしていたのだが、途中、東海林の肩が小刻みに震えているのに気付いた。永夢から目を逸らし何かを堪えているように見える。
「せ、先生?」
永夢が声を掛けると東海林はついに腹を抱えてくつくつと笑い出した。
「お、お母さん、お母さんって。やっぱり天野さんは面白い人ですね」
永夢はその笑顔にはっとする。目と唇だけの微笑みなら何度も見ていたが、顔中での笑顔は初めてだったからだ。
不覚にもその笑顔に目を奪われている間に、東海林は笑いを噛み殺しつつ永夢から椀を受け取った。
「ご飯と豚汁の量はそれぞれどれくらいがいいですか?」
こうなれば恥は掻き捨て世は情けである。諺自体が色々間違っている気はしたが、永夢は開き直って「大盛り!」と答えた。
「豚汁はお肉と焼き豆腐と里芋たっぷりで。見ての通り育ち盛りなので」
「かしこまりました」
東海林は執事を気取って左胸に手を当てた。まもなく左手にご飯の椀、右手に豚汁の椀を手にダイニングに再登場する。
その後永夢がご飯の椀を手に取るのを見計らい、腰を下ろして自分も少々冷めた豚汁に箸を付けた。汁を一口飲み目をわずかに見開く。
永夢は大口を開けてご飯とたくあんを一緒に放り込むところだったが、東海林の表情の変化に気付き、飲み込んだあとに声を掛けた。
「東海林先生、どうしました?」
「昔食べた味だ……」
ということは、お袋の味を再現できたのだろうか。
「じゃあ、ニンニクとショウガと焼き豆腐が決め手でしょうか」
「いや、それらの材料自体は前も入れたことがありまして。だから、なぜ」
東海林はしきりに首を捻っていたのだが、やがて何かに気付いたように顔を上げた。
永夢は今度は口一杯に里芋を詰め込み、ハムスターさながらにせっせと咀嚼中だったので、突然黒に近い濃い茶の瞳を向けられ少々狼狽えた。
「ど、どうしたんれすか?」
「美味しいですか?」
ごくりと飲み下し「それはもう!」と頷き、幸福を体現した満面の笑みで肯定する。
「鍋ごと持ち帰りたいくらいです。特に焼き豆腐と里芋が絶品です」
「……そうですか」
形のいい薄い唇の端が上がる。
「やっと母の隠し味がわかりました」
「えっ、なんだったんですか?」
東海林は微笑みながら永夢を見つめた。
「隠し味なので秘密です」
「何もったいぶっているんですか。東海林先生、ネタは出し惜しみしない方がいいですよ」
東海林と食事をするのもお喋りをするのも楽しく、永夢はいつしか二日酔いとともに失恋したことも忘れていた。




