第8話:静寂の放課後と、不穏な影
静まり返った2年B組の教室で、悠人はプラスチックのスプーンを小さく動かしていた。
とろりとしたカスタードの甘みと、少し苦味のあるカラメルソースが口いっぱいに広がる。
トートバッグの底で潰れることなく無事に生還した焼きプリンは、格別の味わいだった。
「う~ん、やっぱりこのプリンにして正解だったな。生き返るわ」
悠人が満足そうに頬を緩める一方、教室の空気はピンと張り詰めたままだった。
誰も悠人に不用意に話しかけようとはしない。
クラスメイトたちは、一定の距離を保ちながら、まるで檻の中の巨大な猛獣でも観察するかのように、横目で恐々(こわごわ)と悠人の様子を伺っていた。
その中で、一人意を決して歩み寄ってきた人物がいた。
クラスのリーダー的役割を担う桐島 蓮だ。
「あ、あの……天羽」
「ん? なんだ桐島、プリンはやらんぞ」
「ち、違う! そういう意味じゃない……! その……外の状況について、少し教えてくれないか?」
桐島は唾を飲み込みながら、慎重に言葉を選んで尋ねてきた。
「山崎の話だと……東町三丁目交差点のあたりまで魔物が一掃されていたと聞いている。校舎周辺の危険度は、いまどうなっているんだ……?」
悠人は最後のプリン一口を惜しみそうに飲み込むと、空になった容器をプラスチック袋に丁寧に結んで入れた。
「危険度? いや、普通に道に犬とかデカい豚が散歩してただけだけど。買い出しの邪魔だったから退けておいた。これでしばらくは、この前の道路も通りやすくなってるんじゃないか?」
悠人にとっては「単なる邪魔排除」の報告であった。
しかし、それを聞いた桐島の目には、激しい衝撃と深い畏敬の念が浮かんだ。
(やっぱりそうだ……! 天羽は、自分ひとりの力で校舎周辺の安全圏を拡げてくれたんだ……! 買い出しにかこつけて、俺たちがパニックにならないよう、さりげなく外の脅威を排除してくれたんだ……ッ!)
桐島は感極まった面持ちで、深く頭を下げた。
「ありがとう……天羽。お前がいてくれて、本当によかった。俺たちは……お前の意図を理解し、この教室を全力で維持してみせる」
「……? おう、頑張れよ」
噛み合わない会話のまま、桐島は満足げな表情で自席へと戻っていった。
悠人は首を傾げつつ、冷えた麦茶のペットボトルを一口煽る。
(なんか勝手に納得して帰っていったな。まあいいか、静かになったし)
窓の外を見やると、傾きかけた太陽が空を茜色に染め始めていた。
普段なら部活が終わって下校する時間帯だ。
壊れた街並みと、遠くで時折あがる黒煙。
異変が起きてからまだ一日も経っていないというのに、世界の日常はあまりにも呆気なく崩れ去っていた。
だが、天羽悠人という男の日常だけは、どれだけ世界が狂おうとも、マイペースな軸を揺らすことはなかった。
――その時である。
校舎の屋上方向から、かすかな打撃音と、低く響く地鳴りのような音が届いた。
「……ん?」
悠人はふと天井を見上げた。
教室内の他の生徒たちも、異変を感じ取ってざわめき始める。
「な、なんだ今の音……!?」
「屋上から……!? 誰か上にいるのか!?」
窓の外、校舎の屋上付近の空間が、歪むガラスのようにユラユラと揺らめいていた。
そこは本来、施錠されて生徒の立ち入りが禁止されている場所だ。
だが、その空間の歪みの中から、禍々しい紫色の光が漏れ出しているのが見えた。
――【歪みの亀裂】。
通学路やコンビニに現れていた孤立した魔物とは異なり、空間そのものが裂けて魔物の群れが溢れ出す、小規模なダンジョン発生現象だった。
「グルルルルル……!!」
屋上のフェンスを突き破り、黒い羽を生やした怪鳥――【ガーゴイル・インプ】の群れが、夕空へと飛び出していくのが見えた。
「ひ、ひぃぃぃっ! 屋上に化け物が湧いたぞ!!」
「こっちに降りてきたら全滅だ……!!」
クラス内が再び悲鳴と恐怖に包まれる。
しかし、悠人が気にしたのは、怪鳥の恐怖などではなかった。
(あ……待てよ。屋上の先って、俺のチャリ(自転車)を止めてる駐輪場の真上じゃないか……?)
悠人は顔をしかめた。
(もしあいつらが暴れて屋根が崩れたら、俺の愛車が潰れる……。あれ、先月お小遣い貯めて買ったばかりの変速ギア付きなんだぞ)
麦茶とプリンの平穏を守り抜いた悠人に、新たな災難――「愛車の危機」が訪れようとしていた。
「……ちょっと外見てくる」
悠人は静かに立ち上がると、トートバッグを肩にかけ、落ち着いた足取りで教室の扉へと向かった。
クラスメイトたちは、その背中に向かって祈るような視線を送るのだった。




