第53話:放課後の買い出しと、忍び寄る新たな影
ワイバーンの急襲騒動から何事もなかったかのように、午後の授業も平穏に過ぎ去っていった。
相変わらず数学の教師は怯えていたし、佐伯さんは「さっきの風圧は何だったのよ」と終業のチャイムが鳴るまで俺をジト目で睨みつけてきたが、実害は何一つない。
放課後。
夕方の冷たい風が吹き抜ける中、俺は一人で校門を出て、駅前のスーパーへと足を向けていた。
世界が魔物だらけになって久しいが、人間が生きていくためには日々の食料や生活必需品の確保が不可欠だ。
物流自体は自衛隊や能力者ギルドの護衛によって最低限維持されているものの、いつまた道路が封鎖されるか分かったものではない。備蓄食料や日用品のストックは、一人暮らしの生命線だ。
「……カップ麺の棚、また品薄になってるな」
大型スーパーのインスタント食品コーナー。
お気に入りの豚骨醤油味が綺麗に刈り取られているのを見て、俺は小さく息を吐いた。
「あ、それ、最後の一箱だったのに」
ふと、隣から声が聞こえた。
振り返ると、そこにいたのは制服の上に私服のパーカーを羽織った佐伯葵だった。手には買い物カゴを持ち、中には野菜や牛乳といった普通の主婦のような食材が入っている。
「なんだ、佐伯さんか。買い出し?」
「そうよ。母さんが仕事で遅くなるって言うから、私が夕飯の材料を頼まれてるの。……って、天羽くんも一人暮らしだから買い出し?」
「ああ。非常食の補充だ。カップ麺が全滅してたのが痛いな」
「もう、カップ麺ばかり食べてちゃ体に悪いわよ。ほら、野菜とかお肉とか、ちゃんと栄養のあるものも買わなきゃダメなんだからね」
やれやれと言いながら、佐伯さんは呆れたようにため息をつく。
学級委員長気質というか、他人の世話を焼きたがる性格は相変わらずらしい。
「一人暮らしの自炊なんて面倒だろ。炒めるだけで食える肉で十分だ」
「そういう食生活をしているから、いつまで経ってもマイペースで不摂生なのよ。……しょうがないわね。今度、余分に作りすぎたおかきでも分けてあげるから、少しは感謝しなさいよね」
「いや、遠慮しとく。お前の手料理とか、何か裏がありそうで怖いし」
「ちょっと、失礼ね! 私の料理の腕前を疑ってるの!?」
スーパーの通路の真ん中で、佐伯さんがぷくっと頬を膨らませて抗議の声を上げる。
周囲を歩く買い物客たちが、微笑ましいものを見るような生温かい目をこちらに向けてきた。
(……やばい、変に目立つのは避けたいたいんだが)
「はいはい、分かったよ。じゃあ俺はレジ行ってくるから」
「あ、ちょっと待ちなさいよ! 話はまだ――」
佐伯さんの声を無視して、俺はさっさとレジの列へと並んだ。
必要最小限の買い物を済ませ、スーパーの自動ドアをくぐって外に出る。すでに夕暮れの空が茜色に染まり始めていた。
帰り道。
住宅街の狭い路地を歩いていると、ふと背筋に奇妙な悪寒が走った。
(……ん?)
物理的な殺気というわけではない。
もっとこう、周囲の魔素の密度が不自然に歪んでいるような違和感だ。
俺は足を止め、振り返る。
そこには、夕日に照らされた閑静なアスファルトの道路が続いているだけだ。電柱の影が長く伸び、風に揺れる街路樹の葉擦れの音しか聞こえない。
気のせい、ではないな。
「そこ、隠れてないで出てきたらどうだ? 別に隠密のつもりなら下手くそだぞ」
俺が淡々とそう呟くと、数歩先の電柱の陰から、静かに一人の男が姿を現した。
「……ほう。今の俺の『気配遮断』のスキルを、一瞬で見抜いたか」
そこに立っていたのは、整った銀髪と冷徹な双眸を持つ男――今朝、校門前でへたり込んでいたエリート能力者、白銀玲司だった。
制服のブレザーはきちんと着こなされ、朝の屈辱を引きずっているのか、その瞳には鋭い闘志の炎が灯っている。
「白銀か。お前、ストーカーの趣味でもあるのか? 気持ち悪いぞ」
「ふっ……相変わらず口の減らない男だ。お前を尾行していたわけではない。このエリアの魔物討伐の巡回中、偶然お前に行き当たっただけだ」
白銀は冷笑を浮かべながら、手元で弄んでいた銀色のペンダントトップを指先で弾いた。
「朝の校門前では、不可解な現象で助けられたな、天羽悠人。お前が何かイカサマを使ったのか、それとも運が良かっただけなのか……それは分からないが」
「で、用件は何だ。暇なら他所でやってくれ。冷蔵庫の肉が解凍されちまう」
「ふざけるな……!」
白銀の表情から余裕が消え、怒りの色が浮かび上がる。
「俺はな、『氷雪の白銀』と呼ばれ、次世代の最強能力者候補として期待されているんだ。それなのに……お前のような一般生徒の枠を出ない男が、俺より目立つなどあり得ない!」
「……勝手にライバル視されても困るんだが。俺は目立ちたいわけじゃない。むしろ一番目立ちたくないタイプだ」
「口ではなんとでも言える! いいか、天羽。明日、市の郊外にある廃工場跡地で、魔物の大規模な群れが発生するというギルドからの通達があった」
白銀は一歩、俺へと詰め寄る。
「そこで俺と勝負しろ。どちらが多くの、そしてより強い魔物を討伐できるか。正々堂々、実力で決着をつけるぞ」
ふむ、と俺は内心で考える。
廃工場跡地、か。人の目を気にせず、溜まったスキル経験値を一気に稼ぐには絶好の環境かもしれない。毎日の通学路だけでは、そろそろ限界を感じていたところだ。
「……別に、お前と勝負する気はないけどな」
「逃げるのか?」
「いや。面白そうだから、行くには行くよ。勝手に一人でやってろ」
「……っ! 口だけは一丁前だな。泣き言を言っても、明日は容赦しないからな!」
白銀はそれだけ言い残すと、不機嫌そうに体を反転させ、夜の闇へと消えていった。
(やれやれ……。明日もまた、めんどくさい一日になりそうだな)
俺は買い物の袋を持ち直し、家路へと歩き出した。
夕闇の迫る空の向こうで、新たな波乱の気配が静かに胎動を始めているのを感じながら。




