第43話:下校途中の買い食いと、無菌の聖域
静かな図書室でのテスト勉強を終え、学校の昇降口を出た頃には、空はすっかり茜色から群青色へと移り変わっていた。
「ふぅ……今日の分のお勉強は終了! 天羽くん、お疲れ様」
「お疲れー。いやー、やっぱり放課後は静かなのが一番だね」
「……最後の方、あなたが完全に静寂空間(無音)を作り出したおかげだけどね」
葵は呆れ混じりの溜息をつきつつも、どこか晴れやかな表情で校門を潜る。
通学路の街灯がぽつぽつと点灯し始めていた。
ダンジョン発生以降、夕方以降の外歩きは危険とされているが、この二人が並んで歩いている限り、恐怖感など微塵も感じられない。
「ねえ天羽くん、お腹すかない? 商店街のコロッケ屋さん、まだ開いてるかな」
「いいねぇ。あそこの揚げたてメンチカツ、小腹が空いた時に最高なんだよな」
二人は放課後の高校生らしく、寄り道がてら商店街裏の路地裏バイパスへと足を進めた。
その道中、悠人の視界の端で半透明のシステムウィンドウが静かに明滅する。
『【スキル:神】内部能力開放:【微少抗菌 Lv.1】発動可能』
『効果:指定範囲の細菌・ウイルス・毒素・腐食因子を毎秒0.001%分解・低減させる』
(……抗菌?)
悠人は歩きながら心の中で突っ込んだ。
(毎秒0.001%分解って……まな板の除菌スプレーにも負けるレベルだな。アルコール消毒液を吹きかけた方が一万倍早いぞ)
相変わらず【スキル:神】から生えてくる能力は、初期状態では実用性ゼロのゴミ能力ばかりだ。
手肌の消毒すらまともにできないレベルの微少抗菌。
だが、悠人の思考はすでに常人とは異なる領域へ達している。
『MP消費:0』
『クールタイム(CT):なし』
(まあ、コロッケ食べる前に手の消毒くらいには使えるか)
悠人が能天気な活用法を考えていた、まさにその時だった。
*
シュー…………ッ。
路地裏の角を曲がった瞬間、強烈な腐敗臭と、鼻を突く酸性の異臭が鼻腔を刺した。
「……っ!? なに、この臭い……!?」
葵が即座に鼻と口をハンカチで覆う。
路地裏のアスファルトが、黒くドロドロに溶け出していた。
電柱も、空き缶も、壁のレンガすらも、触れたそばから激しい泡を立てて腐食し、泥のように崩れ去っていく。
その路地裏の奥に鎮座していたのは——頭部が九つある巨大な毒蛇の魔物。
Sランク指定の毒性災害級魔物『ヴェノム・ベノム・ハイドラ』だった。
「Sランクの……『ヴェノム・ベノム・ハイドラ』……!? なんでこんな街中に……!」
葵の顔から一気に血の気が引く。
ハイドラが放つのは、ただの毒液ではない。
周囲の空気そのものを致死性の超高濃度劇毒・腐食性瘴気に変える『万物腐殺領域』だ。
吸い込めば数秒で内臓が溶け、皮膚に触れるだけで骨まで腐るという、近接戦闘が一切不可能な最悪の魔物。
「シャーッ!!」
ハイドラが九つの口を同時に開き、街一つを丸ごと腐死させるほどの大量の紫色瘴気と激酸毒液を噴射した。
紫色の毒雲が、津波となって悠人と葵へ向かって押し寄せてくる。
「ダメ……! 退いて天羽くん! この毒気、触れたら一瞬で……!」
葵がウインド・スラッシュで毒気を吹き飛ばそうと魔法を練るが、強風すらも毒気によって腐食され、霧散してしまう。
しかし、悠人は逃げるどころか、ポケットに手を突っ込んだまま一歩前に出た。
「うーん、せっかくこれから美味いコロッケ食うのに、こんな生ゴミみたいな臭い撒き散らされたら食欲減退するんだけど」
(毎秒0.001%の分解・低減……。これを一秒間に……六十万回連射したらどうなる?)
計算は一瞬。
0.001%の抗菌・分解。
それを秒間六十万回、空間の分子・毒性物質・腐食因子へと無限過剰塗布する。
それは——あらゆる毒性・病原体・劇薬・腐食成分を一瞬で原子レベルまで完全分解・無力化する『超高純度聖域(完全無菌空間)』へと昇華する。
(【微少抗菌 Lv.1】——秒間六十万連射)
悠人が退屈そうに息を「ふぅ」と吹きかけた。
しゅん……。
一瞬だった。
押し寄せていた紫色の巨大な毒雲と、激酸の毒液津波が、悠人たちの数センチ手前に達した瞬間——まるで綺麗な清流で汚れが洗い流されるかのように、一瞬で透明な無害の空気に変わった。
腐敗臭も、酸性臭も、跡形もなく消滅。
路地裏を満たしていた毒気は完全にろ過され、病院の手術室すら遥かに凌駕する『100%完全無菌・無毒の空気』へと浄化された。
「……え? 毒気が……消えた……?」
葵が呆然と口を開ける。
それだけではない。
悠人が放った無菌聖域の波動はそのままハイドラ本体へと到達した。
ハイドラという魔物の生命維持システムは、体内に保有する超高濃度の毒素と腐食性細菌に依存している。
その「毒」と「細菌」が、秒間六十万回の過剰抗菌によって強制的に100%完全分解・無菌化されたのだ。
「シャ……!? シュ……ッ!?」
体内から毒と腐食因子を完全に失ったハイドラは、自身の肉体を維持できなくなり、まるで乾いた粘土のようにボロボロと崩れ始めた。
「ついでに手も綺麗にしておこう」
(【微少抗菌】を手元に集中)
悠人の手がピカピカに無菌化される。
「仕上げだ」
(【微風 Lv.1】——秒間三十万連射)
ドォン!!
無毒化されてボロボロになったハイドラの巨体は、一音遅れて放たれた圧縮空気弾によって跡形もなく粉砕され、きれいな塵となって消え去った。
*
「ふぅ、これで臭いも消えたな」
悠人は手のひらをポンと叩き、爽やかな笑顔で葵を振り返った。
「さ、佐伯さん。コロッケ屋行こうぜ。揚げたて残ってるかな」
「……」
葵は口をぽかんと開けたまま、ピカピカに清浄化された路地裏と悠人を交互に見つめていた。
「……天羽くん」
「ん?」
「……あなた、今何をしたの?」
「え? 抗菌スキルで毒気を消毒して、ついでに手も綺麗にしただけだけど」
「Sランクの最凶毒蛇を『消毒』で消滅させたの……!?」
「うん。食事前に手を洗うのは基本でしょ?」
葵は両手で顔を覆い、天を仰いだ。
「……もうツッコむのも疲れてきたわ……。でも、ありがとう……助かったわ」
「どういたしまして。じゃ、コロッケはおごりね!」
「なんでよ!?」
夕暮れの商店街に、二人の他愛もない掛け合いが響き渡る。
通学路の平和は、今日も今日とて悠人の理不尽な「ゴミスキル」によって守られたのだった。




