第42話:図書室の静寂と、無音の新能力
校庭に突如現れたSランク魔物『ヘルファイア・サラマンダー』が、悠人の『微小除湿』三十万連射によって干しミカンの如くカピカピの砂にされてから、数時間が経過した。
幸いにも校舎への重大な被害は免れ、放課後の校内にはいつもの穏やかな放課後の空気が戻っていた。
「……はぁぁぁ……静かだわ……」
特別棟の三階にある図書室。
西日の差し込む窓際の閲覧席で、葵は大きな溜息を吐きながら世界史の教科書を開いていた。
「校庭のマグマが砂利になって乾いたおかげで、今日の部活動も体育も全部中止になっちゃったけどね」
「まあまあ。おかげで放課後に静かにテスト勉強ができるんだから、結果オーライじゃない?」
葵の目の前の席で、悠人は文庫本を片手にのんびりと文房具の消しゴムをいじっていた。
「『結果オーライ』で済まされる規模じゃないのよ……。鬼塚先生なんて、あのあとJDAの調査隊に『火竜が一瞬で乾いた砂になった』って説明して、頭の危険な人扱いされて倒れそうになっていたんだから」
「うーん、事実を言っただけなのに可哀想に」
「原因を作った本人が他人事みたいに言わないで……!」
葵は頭を押さえながら、声をひそめて抗議した。
ここは図書室だ。大声を出すと図書委員に怒られてしまう。
悠人はといえば、相変わらずどこ吹く風といった様子で文庫本のページをめくっている。
だが、その視界の端では、お馴染みの半透明ウィンドウが静かに明滅していた。
(……お、また新スキルが解放されてるな)
『【スキル:神】内部能力開放:【微小静音 Lv.1】発動可能』
『効果:自身から発せられる音を0.01デシベル低減させる』
(0.01デシベル低減……? 葉っぱが落ちる音すら20デシベルくらいあるのに、0.01って……息を呑む音すら消せないレベルだな)
悠人は心の中で呆れたように呟いた。
毎度のことながら、【スキル:神】から生えてくる新能力は、単体では何の役にも立たないゴミ機能ばかりだ。
0.01デシベルの静音など、図書館でささやき声で喋る時の足しにもなりはしない。
だが——悠人の思考回路はすでにその先へと到達していた。
『MP消費:0』
『クールタイム(CT):なし』
(まあ、図書館で本をめくる音を消すくらいには使えるか)
悠人がそんな能天気なことを考えていた、まさにその時である。
*
キィィィィィィィィィィィィン……ッ!!
突如、鼓膜を直接針で刺されるような、不快な高周波の金属音が図書室内に響き渡った。
「くっ……!? な、なにこの音……!?」
葵が耳を押さえて顔を歪める。
図書室内にいた他の数人の生徒たちも、あまりの不快音に悲鳴をあげながら崩れ落ちた。
窓の外を見ると、夕暮れの空が不気味な紫色に染まっている。
校舎の上空、高度数百メートルの空間に、半透明の巨大な女の幽鬼のような異形——SSランク指定の音波魔物『ソニックスペース・バンシー』が漂っていた。
「SSランク……『ソニックスペース・バンシー』……!? なんでこんな高位の魔物が相次いで……!」
葵は苦痛に耐えながら、ガタガタと震える声で叫んだ。
バンシーは実体を持たない精神・音波系の高位生命体だ。
その咆哮は衝撃波となって物理破壊を引き起こすだけでなく、指向性の超高周波によって人間の脳狂わせ、精神を内側から破壊する。
キィィィィィィガガガガガガガガッ!!!!
バンシーが大きく口を開け、校舎全体を破壊するレベルの特大の音波咆哮を放とうとしていた。
空気が歪み、窓ガラスに一斉に蜘蛛の巣状のヒビが入る。
「ダメ……息が……耳が割れる……っ! 天羽くん、耳を塞いで……っ!」
葵が自分の耳から血を流しながら、必死に悠人へ手を伸ばす。
「うーん、せっかく静かに読書してたのに、うるさいなあ」
だが、悠人は耳を塞ぐどころか、文庫本に栞を挟んでゆっくりと立ち上がった。
(音を0.01デシベル低減させる……。これを一秒間に……五十万回連射したらどうなる?)
思考は一瞬。
0.01デシベルの減衰。
それを秒間五十万回、空間の音波振動の媒体そのものへ過剰塗布する。
それは——空間を伝わるあらゆる振動・音波・衝撃波を概念ごと完全に遮断・無力化する『完全絶対消音空間』へと変貌する。
(【微小静音 Lv.1】——秒間五十万連射)
悠人がバンシーに向けて、軽く指を「シー」と口元に当てた。
………………………………。
一瞬にして、世界から『音』が消えた。
「……え?」
葵が呆然と目を見開く。
バンシーが放ったはずの、校舎を粉砕するほどの超高音波咆哮。
それが悠人の展開した絶対消音空間に触れた瞬間、何の一音も立てることなく、まるで水に溶ける砂糖のように虚無へと消え去ったのだ。
それだけではない。
バンシーが放つ不快な超高周波も、風の音も、遠くの街の喧騒すらも消え去り、そこには完璧な『無音』の世界が広がっていた。
「グ……ガ……!?」
空中で咆哮をあげ続けているはずのバンシー自身も、自分の声が一切響かないことに困惑し、目玉を丸くしている。
音波生命体にとって、自らの音波が完全に消されるということは、存在意義そのものを否定されるに等しい。
「静かに読書したいからさ、ちょっと静かにしてくれる?」
悠人は静かに窓枠に手をかけると、もう一つのスキルを同時に発動させた。
(【微風 Lv.1】——秒間五十万連射。消音加工つき)
完全な無音のまま、超高圧・超音速の圧縮空気弾が解き放たれる。
一音の衝撃音すら立てず、音速を超えて放たれた空気の巨砲は、上空のバンシーの胴体を完璧に穿った。
シュー……ッ。
SSランクの音波魔物は、叫び声一つあげることを許されないまま、静かに霧となって夜空へと消え去った。
*
消音空間を解除すると、図書室内に再び静かな風の音が戻ってきた。
「ふぅ、これで静かに本が読めるね」
悠人は満足そうに自席へ戻り、文庫本を開いた。
「……」
葵は自分の耳を触り、血が止まっていること、そしてバンシーが消滅したことを確認してから、そっと悠人の顔を覗き込んだ。
「……天羽くん」
「なに? 佐伯さん」
「……今の、音を消したの?」
「うん。0.01デシベルだけ音を小さくするスキルがあったからさ、連打して静かにしたんだ」
「0.01デシベルを連打して音波兵器とSSランクの魔物を無音で消去したの……?」
「そうそう。図書室ではお静かに、って書いてあるしね」
葵は深々と溜息をつき、教科書の上にガクッと額を預けた。
「……図書室のマナーを守るためにSSランク魔物を無音で滅殺する高校生なんて、世界中探してもあなただけよ……」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
夕暮れの図書室に、本をめくる小さな音だけが穏やかに響いていた。




