第4話:学級崩壊と、マイペースな買い出し計画
授業の開始を告げるはずのチャイムは、当然ながら鳴らなかった。
それもそのはずだ。
校庭のすみからはときおり、獣とも爬虫類ともつかない不気味な魔物の遠吠えが風に乗って響いてくる。
廊下には教職員の姿すらなく、学校という社会システムそのものが、世界変動の大きなあおりを受けて半ば機能停止に陥っていた。
そんな荒廃した校舎の中にあって、悠人たちの所属する2年B組の教室は、重苦しく異様な静けさに包まれていた。
「……で、これからの俺たちのサバイバル方針についてだが」
静寂を破って教壇の前に立ったのは、先ほど校門前で気絶させられた堂島剛とは別の男子生徒――桐島蓮だった。
彼は世界が変貌した直後、自らのステータス画面で【索敵スキル】を開放していた。
周囲の生体反応や魔物の接近を事前に察知できる彼の能力は、パニックに陥った生徒たちにとって貴重な情報源であり、彼は自然とクラスのまとめ役を引き受けるようになっていた。
桐島は割れた窓ガラスを警戒するように一瞥し、教壇を拳で軽く叩く。
「この学校の地下倉庫や備蓄庫には、災害用の非常食や保存水が多少はある。だが、ここにいる全員で分け合えば、持ってもせいぜい二日か三日だ。いつ崩壊するかもわからない学校に閉じこもっているだけじゃ、遠からず干上がって詰む」
桐島の現実的な言葉に、教室内の生徒たちがざわめいた。
女子生徒のひとりが、不安で震える声を漏らす。
「じゃあ……どうするのよ? 外に出ろって言うの……?」
「……そうだ。誰かが近所のコンビニやスーパーまで行って、水や食料、それに救急用品を調達してこなきゃならない」
桐島がそう言い放つと、教室内の温度がぐっと下がったかのように静まり返った。
外にはゴブリンや、得体の知れない凶暴な魔物がうろついているのだ。
武器も持たない高校生が買い出しのために外へ出るなど、実質的な特攻自殺に等しい。
誰もが自分の命を守ることに必死であり、気まずそうに視線を落として沈黙を守り込んだ。
「……俺が行ければ一番いいんだが、俺の【索敵スキル】はこの校舎全体の警戒と防衛に必要なんだ。俺が離れれば、いつ魔物が校舎内に侵入してくるかわからなくなる。……だから、戦闘系スキルを持っていて、手っ取り早く動ける奴が引き受けてくれると助かるんだが……」
桐島はそう言いながら、さりげなく教室のいちばん後ろの席――窓際の最後尾に視線を向けた。
つられて、教室中の生徒たちの視線が一斉にひとつの場所へと集まる。
そこにいたのは、窓の外をぼんやりと眺めながら、あくびを噛み殺している天羽悠人だった。
(おい……天羽を見ろよ……)
(朝の校門前で、あの堂島を一言も交わさずに指先ひとつで吹っ飛ばしたんだろ……?)
(あいつなら、外の魔物なんて踏み潰して物資を取ってこれるんじゃないか……?)
クラスメイトたちの頭の中で、勝手な期待と妄想が雪だるま式に膨らんでいく。
彼らにとって、自分たちを脅かす過酷な現実を打開してくれるのは、この「底知れぬ孤高の最強者」しかいないという確信に変わりつつあった。
一方、当の悠人はというと――。
(いや、なんで全員でこっちを見てるんだよ……気まずいな)
悠人は内心で、心底めんどくさそうに息を吐いていた。
クラスの人間がどうなろうと知ったことではないし、サバイバルの方針だの、物資の分配だのといった集団の話し合いに関わる気なんてサラサラない。
だが、悠人にはひとつだけ、朝からずっと喉に引っかかっている重大な問題があった。
(……そういえば、昨日の夜に買い忘れてたから、うちの冷蔵庫の麦茶とプリンが完全に切れてたな)
悠人の脳裏に、自宅の冷蔵庫の寂しい光景が鮮明に浮かび上がる。
両親は出張中で不在。
朝からろくなものを食べていない悠人にとって、冷えた麦茶と甘いプリンの不在は、世界が崩壊したことよりも遥かに切実で深刻な死活問題だった。
(まあ、どのみち授業もなさそうだしな。いまのうちに近所のコンビニに行って、買い出しでもしてくるか)
生き残るためでも、クラスのためでもない。
ただ「冷たい麦茶が飲みたい」「ついでにプリンが食べたい」という、極めて個人的でどうでもいい動機。
それが、悠人の重い腰を上げさせた。
ガタッ、と静かな教室に椅子の引く音が響いた。
それだけで、教壇に立っていた桐島をはじめ、教室内で固まっていた生徒たちがビクリと肩を震わせる。
「天羽……くん?」
悠人の隣の席で状況を見守っていた佐伯葵が、不安と困惑の混ざった声で呼びかけた。
悠人は自分のポケットに両手を突っ込み、だるそうに肩をすくめながら言った。
「いや、ちょっと近所のコンビニまで、麦茶とプリンを買いに行ってくるわ」
「……は?」
佐伯の口から、間抜けた声が漏れた。
教室中が、氷点下まで冷え込んだかのように再び固まる。
世界が変貌を遂げ、凶悪な魔物が外を徘徊しているこの極限状況において。
「麦茶とプリンの買い出し」を理由に単身で外へ出ようとする高校生。
常識的に考えれば完全な狂人か、状況を理解していない愚か者の発言だ。
しかし、校門前での圧倒的な「自滅(と周囲が思い込んでいる撃破劇)」を目撃した生徒たちの脳内フィルターは、この悠人の発言を全く別の意味へと都合よく変換してしまった。
(くそっ……! まだ外にどんな凶悪な魔物が潜んでいるかもわからない状況で、あえて単身で物資調達の強行偵察を買って出るつもりか……!?)
(しかも『麦茶とプリン』なんて言っているが……あれは周囲を無駄にパニックにさせないための、高度な隠語に違いない……!)
(『麦茶』は水分補給用の保存水……『プリン』は高カロリーな緊急糧食のことか……!?)
(なんて恐ろしい男だ……! 死と隣り合わせの任務だというのに、あの落ち着き払った余裕……まさに孤高の最強者……!)
クラスメイトたちが勝手に感動し、武者震いに身体を震わせていることなど、悠人は知る由もない。
「あ、佐伯さん。なんか買ってきてほしいものある? 途中で売ってたらついでに見てくるけど」
「えっ……あ、ううん! 私は大丈夫だけど……って、違うでしょ! あんた本気で言ってるの!? 外は魔物だらけなのよ!?」
「大丈夫だって。すぐ戻るから」
悠人はひらひらと手を振ると、周囲の過剰な熱視線と強烈な勘違いを背中に浴びながら、ガラガラと教室の引き戸を開けて廊下へと出て行った。
「あ、待ちなさいよ悠人くんっ!」
慌てて後を追おうとした佐伯葵だったが、教壇の桐島がそれを制するように手を挙げた。
「止めろ、佐伯。……あいつには、俺たちの想像もつかない計画と絶対の自信があるんだ。下手に引き止めるのは失礼だ」
「……桐島くんまで何言ってるのよ……あいつ、本当にただ買い食いに行くだけよ!?」
佐伯の切実な叫びは、クラスメイトたちの「天羽悠人=秘められた最強者」という揺るぎない信仰の前に、虚しく掻き消されていくのだった。
◇
校舎を抜け出た悠人は、荒れ果てた敷地をマイペースな足取りで歩いていた。
校庭のアスファルトはあちこちがへし折れ、かつての穏やかな風景は見る影もない。
冷たい風が通り抜ける中、悠人は目的のコンビニへと続く路地裏へと足を向けた。
「めんどくさいな……。大通りは道路が崩れて歩きにくいし、裏道から行ったほうが早いか」
住宅街の合間を縫うように走る狭い路地裏。
日陰が多く、普段なら猫くらいしか通らない静かな一本道だ。
だが、今の世の中において、そうした閉鎖的な空間は魔物の格好の潜伏場所となっていた。
ガサガサッ、と崩れかけたブロック塀の陰から不気味な足音が響く。
直後――引き裂くような威嚇音とともに、狭い路地裏へ躍り出てきた影があった。
それは人間の子供ほどの体躯を持つ、巨大なネズミの形をした魔物――【ラット・ビースト】だった。
その体毛は鋼のように硬く逆立ち、口からは鋭い黄ばんだ牙が覗いている。赤い目を獰猛に輝かせ、獲物である悠人を捉えていた。
「……うわっ、でかっ。ドブネズミの化け物かよ」
悠人は思わず嫌そうな顔をして眉をひそめた。
ラット・ビーストは悠人の反応を恐れと受け取ったのか、けたたましい鳴き声を上げながら、鋭い爪を前に突き出して疾走してきた。
路地裏という逃げ場のない狭い空間。
超スピードで迫る肉食の魔物。普通のアスリートであっても回避不可能な絶望的な奇襲――に見えた。
だが、悠人の脳裏に、あの漆黒のステータスウィンドウが反射的に浮かび上がる。
(……うっとうしいな。買い出しの邪魔すんなよ)
悠人のごく日常的で苛立った感情をトリガーとして、例の無意識な泥臭い連射機能が発動した。
【石ころを1ミリだけ浮かせることができる】
秒間、数千回におよぶ微小な衝撃波。
物理法則を完全に無視した、超音速の微振動弾幕が悠人の指先から路地裏の空間へと一斉に放たれる。
――ボワッ!!
まるで空間そのものが激しく歪んだかのような奇妙な重低音が響いた。
飛びかかってきたラット・ビーストは、悠人の体に触れるどころか、数メートル手前の空中で巨大な見えない壁に激突したかのようにピタリと停止した。
次の瞬間。
ズザザザザザザザッ!!
肉眼では到底捉えきれない超高頻度の打撃の嵐が、ラット・ビーストの全身をミリ単位で粉砕していく。
悲鳴を上げる隙すら与えられない。
鋼の体毛も、分厚い皮膚も、凶悪な骨格も、すべてがミキサーにかけられたかのように一瞬で微粒子へと還元されていく。
わずか0.1秒。
悠人の目の前で跳躍していたはずの巨大なネズミは、影も形もなく空気中へと霧散し、あとには焦げたような微かな匂いと風だけが残された。
「ふぅ……びっくりさせやがって。服に血がついたら嫌だったから助かったけど」
悠人はパッパと自分の制服の袖を払うと、何事もなかったかのように再び歩き出した。
だが――彼自身は全く気づいていなかった。
その衝撃的な一部始終を、すぐ脇のアパートの二階ベランダから、息を殺して見つめている人物がいたことを。
その人物とは、同じ2年B組の男子生徒――山崎健太だった。
山崎は世界変動が起きた直後、パニックになって通学路から逃げ出し、たまたま鍵の開いていたこのアパートの通路に隠れ潜んでいたのだ。
外にはラット・ビーストなどの恐ろしい魔物がうろついており、恐怖で足がすくんで指一本動かせずにいた。
そんな中、偶然にも眼下の路地裏に現れたのが、同級生の天羽悠人だった。
(あ、天羽……!? なんであんな無防備に歩いて……ひっ!?)
山崎が見ている前で、ラット・ビーストが跳びかかった。
「終わった」と山崎が絶望し、両目で顔を覆いかけた――その直後の出来事だった。
突如として響いた、空間を切り裂くような重低音。
そして、あの恐ろしいラット・ビーストが、魔法の呪文(詠唱)も、スキルの発動エフェクトも一切なしに、文字通り「空中で一瞬にして消滅」したのだ。
(ば、馬鹿な……っ……!?)
山崎は自分の口を両手で必死に押さえ込み、ガタガタと全身を震わせた。
(あ、あんな凶悪な魔物が……一言も発せず、手すら触れずに……消し飛んだ……!?)
(魔法陣も出てない……ステータス画面を操作した様子すらない……ッ!)
(噂は本当だったんだ……! 校門前で堂島を一撃で沈めたのも、事故なんかじゃない……!)
(天羽悠人は……この世界において、既存のルールすら無視して魔物を崩壊させる『絶対の破壊者』なんだ……ッ!!)
山崎の勝手な妄想と恐怖の脳内補正により、悠人に対する評価はもはや「孤高の最強者」を超え、関わることすら恐ろしい「触れてはならない不可侵の絶対者」へと完全に昇華してしまっていた。
ベランダで恐怖のあまりガクガクと膝を折り、涙目になっている同級生がいることなど知る由もなく。
「お、あったあった。奇跡的に営業してる(?)っぽいな」
悠人はようやく辿り着いたコンビニの前で、壊れた自動ドアのフレームを慎重に跨ぎ、お目当ての冷えた麦茶とプリンを探しに、店内へと呑気に入っていくのだった。




