第39話:夕暮れのファミレスと、重力を弄ぶ日常
『アーマード・アイアンホーン』の群れが、悠人の指先から放たれた静電気連射の爆雷によって全滅してから、約三十分。
すっかり日が暮れた住宅街の沿道にあるファミレス『デニーズ』の窓際席に、悠人と葵の二人は座っていた。
「……はぁぁぁぁぁ……」
葵は机に肘をつき、両手で顔を覆いながら、本日何度目になるか分からない深々とした溜息を吐き出していた。
テーブルの上には、悠人が注文した大盛りハンバーグプレートと、葵が頼んだドリンクバーのアイスティーが置かれている。
「佐伯さん、冷めちゃうよ。せっかくの夕飯なんだからさ」
「誰のせいで食欲が失せていると思っているのよ……天羽くん」
顔を上げた葵の目は、どこか遠くを見つめるように虚ろだった。
「あたしね、今日だけで人生の価値観が三回くらい崩壊したわ。最初は超高熱のプラズマ、次は大竜巻、その次は光子レーザーで、最後は数千万ボルトの落雷……」
「どれもただの日常的な物理現象だよ。科学の授業で習ったでしょ?」
「高校の物理で『指先から静電気を何十万回も出せばギガボルトの雷になる』なんて教わらないわよっ!」
葵がペチペチとテーブルを叩く。
店内は夕食時の家族連れやカップルでそこそこ賑わっていたが、二人の会話の内容があまりにも浮世離れしているため、周囲の客は「近頃の高校生の創作小説の打ち合わせかなにか」といった生暖かい視線を送ってくるだけだった。
「まあまあ、何はともあれ無事に帰路につけたんだから良いじゃない。ほら、ポテト食べなよ」
「……いただくわよ。全部天羽くんのおごりなんだからね」
葵はぷくっと頬を膨らませると、サクサクのフレンチフライを一本つまんで口に運んだ。
文武両道で学園のマドンナと恐れられる彼女の、年相応の素顔。
命懸けの戦闘を潜り抜けてきた緊張感が薄れ、二人の間に少しだけ穏やかな空気が流れる。
「……でも、本当に助かったわ」
ポテトを飲み込んだ葵が、急に真面目な顔になって呟いた。
「あのアーマード・アイアンホーンの群れが住宅街に突入していたら、どれだけの被害が出ていたか分からない。日本のダンジョン対策局……JDAの特防隊だって、到着までに最低三十分はかかったはずだし」
「んー、まあ近所のコンビニが潰れたら俺も困るしね」
「相変わらず動機が軽すぎるのよ……」
葵は呆れ半分、尊敬半分といった眼差しで悠人を見つめた。
悠人にとって、世界がどれほど変貌しようと、どれほど恐ろしい魔物が現れようと、優先すべきは「自分の平穏な日常」なのだ。
そのブレなさが、どれほど過酷な異変の中でも彼を彼たらしめている。
*
食事が終わり、二人が会計を済ませて店を出たのは、夜の八時を回った頃だった。
夜風が少しだけ肌寒く感じる。
住宅街の街灯がぽつぽつと点灯し、静まり返った夜道を二人は並んで歩いていた。
「天羽くんの家って、この先の三丁目だっけ?」
「そうそう。佐伯さんの家は?」
「あたしは二丁目の交差点を曲がったところ。あ、じゃあここで——」
葵が別れの言葉を口にしようとした、その時だった。
——ゴォォォォォォォ……ッ。
空全体が、不気味に低く振動し始めた。
地震ではない。
頭上——夜空の遥か上空から、空間そのものがぐにゃりと歪むような強烈な圧迫感が降り注いできたのだ。
「な……なに……!? 体が……重い……!?」
葵がその場に崩れ落ちそうになり、膝をつく。
見上げれば、満月の月光を遮るように、上空数百メートルに巨大な影が佇んでいた。
黒紫色の鱗に覆われた、体長三十メートルを超える巨躯。
二対の大きな翼を広げ、その周囲の空間が重力波によって揺らめいている。
「SSランク指定……特災級魔物……『グラビティ・ワイバーン』……!?」
葵の声が恐怖で震える。
重力を自在に操り、一都市を丸ごと押し潰すほどの局所重力場を生み出す、文字通りの『天災』。
本来なら最高レベルの警報が鳴り響き、国家規模の騎士団が総動員されるレベルの凶悪な魔物だった。
「空間を歪めるほどの重力操作能力を持っているわ……! 天羽くん、この重力場の中にいたら、魔法の展開すら圧殺される……っ!」
葵は地面に両手をつき、必死に立ち上がろうとするが、数十倍に跳ね上がった重力によって指一本動かすことすら困難になっていた。
「うーん、なんか体が重いな。体重計に乗った時みたいな嫌な感じだ」
だが、その重力場の中で。
悠人だけは、首をぽりぽりと掻きながら普通に立っていた。
「な……なんで……普通に立っていられるのよ……!?」
「え? 気合?」
「気合でSSランク魔物の重力場を無効化できるわけないでしょぉぉぉっ!!」
悠人は苦笑しながら、ポッケから手を出して頭上を見上げた。
視界の隅で、お約束のメッセージがピコンと点滅する。
『【スキル:神】内部能力開放:【極微重力 Lv.1】発動可能』
『効果:対象にかかる重力を0.0001%だけ変動させる』
(0.0001%……。また絶妙にしょぼい数字だな。体重70キロの人なら、0.07グラム軽くなる程度か。埃が一粒吹き飛ぶレベルだな)
悠人は思考を巡らせる。
だが、いつもの計算式はすでに頭の中で完成していた。
『MP消費:0』
『クールタイム(CT):なし』
(0.0001%の重力変動。これを秒間……そうだな、一億回くらい重ねがけしたらどうなる?)
悠人はニヤリと笑うと、宙に浮く巨竜に向けて軽く右手を掲げた。
(まずは、自分の足元の重力をゼロ……いや、マイナスに反転)
一瞬。
悠人の体が重力を完全に無視し、ふわっと宙に浮き上がった。
摩擦も空気抵抗すらも微小重力の連射によるベクトル操作で受け流し、彼は弾丸のような速度で垂直に夜空へと跳び上がったのだ。
「え……!? 天羽くんが……飛んだ……!?」
地上でへたり込む葵が、目を丸くして空を見上げる。
遥か上空、ワイバーンの眼前まで一瞬で到達した悠人は、巨竜の巨大な瞳と正面から向き合った。
ワイバーンが異変に気づき、口から超高密度の重力波ブレスを吐き出そうと顎を開く。
(はい、次。そっちの重力を一億倍に増加)
悠人が指先をチチッと鳴らした。
【極微重力 Lv.1】——秒間一億連射。
ドォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!!!!
音すら置き去りにする、超巨大な空間圧縮音。
ワイバーンの巨躯にかかる重力が、一瞬にして数万トン、数百億トンという天文学的な数値へと跳ね上がった。
超高重力によって空間そのものが球状に落ち込み、ブラックホールにも似た超高密度圧縮場が生成される。
「グ、ガ……ッ!?!?」
ワイバーンは叫び声をあげる暇すら与えられなかった。
三十メートルを超える龍の体が、自らの自重と超重力によって一瞬でミカン箱ほどのサイズへと一気に手繰り寄せられ、圧縮され——そのまま物理法則の限界を超えて消失した。
パリンッ!
重力場が弾け飛び、澄み切った夜空に静寂が戻る。
「……よし、重いのも治ったな」
悠人は自分にかかる重力を自然な値に戻し、ストンと軽やかに地上へと着地した。
着地点のすぐ目の前では。
葵が口をぽかんと開けたまま、空と悠人を交互に見つめて固まっていた。
「ただいま、佐伯さん。なんか上のワイバーン、自分で重くしすぎて潰れちゃったみたい」
「……天羽くん」
「なに?」
「……もうあたし、何が起きても驚かないって決めたはずなのに……」
葵はプルプルと震えながら、悠人の胸ぐらをガバッと掴み引き寄せた。
「重力を手玉に取って空を飛んでSSランクの龍を豆腐みたいに潰す高校生がいてたまるかぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ技能の概念を見直しなさぁぁぁぁい!!!!」
「わわっ、胸ぐら引っ張らないで! 服が伸びるから!」
静まり返った夜の住宅街に、委員長の絶叫がいつまでも木霊していた。




