第36話:遅刻寸前の突風と、新しい扇風機能力
ガラガラガラ……と無機質な音を立てて、教室のドアが開いた。
「ふう……ギリギリセーフだな」
天羽悠人は、壁掛け時計の針が午前八時二十九分を指しているのを確認して、ほっと胸を撫で下ろした。予鈴が鳴る一分前。まさに間一髪の滑り込みだった。
教室の中を見渡すと、クラスメイトたちの表情は一様に暗い。
世界の変貌からしばらくが経ち、学校という場所自体はなんとか存続しているものの、日々の通学路で魔物と遭遇する恐怖は生徒たちの精神を確実に削っていた。
「ハぁ……ハぁ……! 天羽くん、足早すぎ……っ!」
後ろから肩を上下させながら教室に飛び込んできたのは、佐伯葵だった。
普段は乱れることのない黒髪を少し散らし、整った顔を真っ赤にしながら悠人を睨みつけている。
「だって佐伯さん、走らないと遅刻するって言ったの佐伯さんじゃないか」
「それはそうだけど! ゴーレムを砂にしたあと、普通にあたしを置いてダッシュする!? 少しは余韻とか警備の人への説明とかあるでしょ!」
「説明してたら小テスト受けられなくなるだろ? 単位落ちたら困るし」
「そういう問題じゃないのよ……!」
頭を抱える葵。
クラスメイトたちは「また委員会コンビが揉めてるな」というような生暖かい視線を向けているが、彼らは知らない。悠人がほんの数分前、Bランク指定の巨大魔物をただの『砂』に変えてきたことなど。
悠人が自分の席につき、鞄から筆記用具を取り出していると、担任の教師が教卓に立った。
「よし、全員席についたな。今日は連絡事項がある。……最近、学校周辺の魔物の活性化に伴い、放課後の立ち入り禁止区域が拡大された。特に裏山の『旧校舎ルート』は絶対に入るなよ。防衛隊からも厳重に警告が出ている」
教室内が生徒たちの不安そうな囁き声で満たされる。
しかし、悠人の意識は教師の言葉よりも、自分の視界にチラチラと表示されている半透明のシステムウィンドウに向いていた。
(……ん? また新しくスキルが生えてるな)
『【スキル:神】内部能力開放:【微風 Lv.1】発動可能』
『効果:手のひらから秒速0.5mの微風を発生させる』
(秒速0.5メートル……? 扇風機の『弱』よりも弱いぞこれ。うちわで仰いだ方がまだ涼しいんじゃないか?)
悠人は心の中でツッコミを入れた。
相変わらず【スキル:神】から生えてくる初期能力は、単体で見れば驚くほどのゴミ性能ばかりだ。
秒速0.5メートルの風など、前髪がわずかにそよぐ程度。戦闘どころか、夏の暑気払いにも役に立たない。
だが——悠人はもう理解していた。
『MP消費:0』
『クールタイム(CT):なし』
この反則仕様が組み合わさった時、どのような現象が起きるのかを。
(うーん、まあ……掃除の時に埃を払うくらいには使えるか)
悠人は能天気な感想を抱きながら、手元で小さく指を動かした。
*
そして、放課後。
ホームルームが終わり、生徒たちがゾロゾロと下校を開始した直後のことだった。
ウゥゥゥゥゥゥゥゥン————っ!!
校内中に、腹の底を揺さぶるような緊急警報のサイレンが鳴り響いた。
『緊急警告! 緊急警告! 敷地内裏山より、大型の指定魔物が接近中! 生徒および職員は直ちに校舎内へ避難し、防護結界の起動を待ってください!』
校内放送の悲鳴に近い声とともに、校庭や廊下がパニックに包まれる。
「キャーッ! 嫌ぁぁぁ!」
「逃げろ! 裏山から何かが降りてくるぞ!」
窓際に駆け寄った生徒たちが悲鳴を上げる。
悠人も窓の外を見下ろした。
学校のグラウンドを囲む防球ネットをなぎ倒し、ヌルりと姿を現したのは、体長十メートルを超える巨大な大蛇——『タイラント・コブラ』だった。
紫色の鱗に覆われた胴体は丸太のように太く、頭部からは強力な酸の煙が立ち上っている。防衛隊の資料ではAランク危険度に分類される、単独での撃破がほぼ不可能な大型怪獣だ。
「そんな……なんでこんな学校の目と鼻の先にAランクが……!?」
隣で窓枠を掴む葵の顔から、完全に血の気が引いていた。
「防護結界が起動するまであと三分……! でも、あんな巨体に突っ込まれたら校舎の第一外壁なんて一瞬で砕かれるわ……っ!」
葵は唇を噛み締め、手にしたナイフを強く握りしめた。
「天羽くん、生徒たちを奥の体育館へ誘導して! あたしが時間を稼ぐから!」
「え? 佐伯さん一人で行くの? 危なくない?」
「あたしは学級委員長よ! みんなを守る義務があるの! ……それに、ここで食い止めなきゃ全員やられるわ!」
そう叫ぶと、葵は風を脚に纏わせて窓から校庭へと飛び出していった。
「あ、ちょっと——」
呼び止める間もなく行ってしまった葵を見送り、悠人はポリポリと頭を掻いた。
「真面目だなあ、佐伯さんは。……まあ、あんな大蛇に暴れられて校舎が壊されたら、明日の登校時に大変だしな」
悠人は溜息を吐くと、パニックになる生徒たちの間を悠々とすり抜け、階段を降りて校庭へと向かった。
「『ウインド・スラッシュ』! 『ウインド・スラッシュ』!!」
校庭の中央。
葵が必死に風の刃を放ち、『タイラント・コブラ』の注意を惹きつけていた。
しかし、硬質な紫色の鱗は風の刃を易々と弾き返し、傷一つついていない。
大蛇は煩わしそうに巨大な尾を振り回す。それだけで校庭の朝礼台が粉々に砕け散った。
「くっ……! 効かない……!? 威力が足りなさすぎる……っ!」
圧倒的な質量の差。
大蛇が鎌首をもたげ、口からドロリとした超高濃度の酸性毒液を葵に向けて噴射しようとした。
「しまい——っ!」
死を覚悟し、葵が目を瞑ったその時。
「おい大蛇、校庭を散らかすなよ。備品は大切に使えって先生に言われてるだろ」
呑気な声とともに、悠人が葵の前にひょいと立ち塞がった。
「あ……天羽……くん……!? なんで逃げてないのよバカ……っ!」
「いや、佐伯さんが危なさそうだったからさ」
悠人は大蛇の巨大な開口部を見上げると、今朝覚えたばかりの新能力——【微風 Lv.1】を右手のひらにセットした。
(秒速0.5メートルの風……。これをただ出すだけじゃ、ゴミを飛ばすこともできないが)
悠人は視界の端のMP表示【0 / 0】を確認し、思考を『連射モード』へと切り替えた。
(一秒間に、十万回連射したらどうなる?)
瞬間。
悠人の手のひらの前に発生した、超極小の空気の層。
それが冷却・圧縮・再生成を秒間数十万回繰り返すことにより、手のひらの前に『超高圧の空気の壁』が形成された。
10万回の秒速0.5mが物理的に重なり合う。
それは即ち——秒速5万メートル(マッハ140超)の超音速空気弾の完成を意味していた。
「吹き飛べ」
悠人が右手を前方へ押し出す。
ドガァァァァァァァァァンっ!!!!!!!
校庭全体を、目に見えるほどの巨大な『空気の衝撃波』が突き抜けた。
大音響とともに大気そのものが爆発し、校庭のアスファルトが一瞬でめくれあがる。
「ギャアアアアアアアアアアアッ!??!?」
体長十メートルを超える『タイラント・コブラ』の巨体が、まるで大型台風に吹き飛ばされる紙切れのように、一瞬で空のかなたへと弾き飛ばされた。
衝撃波はそのまま大蛇を呑み込み、上空数千メートルの雲を綺麗に穿ちながら、大蛇の肉体を高気圧の圧力で木端微塵に粉砕していった。
シュー……ッ。
一瞬にして晴れ渡る秋の青空。
校庭には、心地よい微風だけがふわリと吹き抜けていた。
「……え?」
地面にへたり込んでいた佐伯葵は、空を見上げたまま完全に思考を停止させていた。
今、目の前で何が起きたのか。
Aランクの巨大モンスターが、悠人が手をかざした瞬間に衝撃波で雲の彼方まで吹き飛んで消えた。
「よし、これで校舎も壊されずに済んだな」
悠人は満足そうに頷くと、手についた埃をパンパンと払って葵に向き直った。
「佐伯さん、大丈夫? 立てる?」
「あ……あ……天羽くん……あなた、今……何を……」
「ん? ちょっと強い風を送っただけだよ。扇風機みたいなもん」
「扇風機で大蛇が宇宙まで吹き飛ぶわけないでしょぉぉぉぉぉっ!??!」
静まり返った校庭に、葵の絶叫が虚しく響き渡ったのだった。




