領域侵犯 09
「まさか……」
それはダイアナがネイランを取り逃してすぐのことだった。少し遠くで二つの人影が空へと舞い上がって見えた。その次の瞬間、ダイアナのヴァディゴスの嫁としての勘が悲鳴を上げた。
夫の作品が汚された、と。
次の瞬間轟音を伴いながら何かがダイアナとレイの方に向かってきた。ダイアナはその正体に覚えがあった。かつての弟弟子、かつての反逆者によって編み出された禁術。神々の領域に真の意味で足を踏み入れ、あまつさえ土足で踏み荒らした無礼者の魔術。
「こっちへ来て! すぐに!」
ダイアナはレイに向かってそう指示をする。レイもとっさのことで何が何だかわからないままだったがダイアナに駆け寄った。ダイアナの後ろから微かに見えた正面からは真っ黒な波が押し寄せてきていた。レイが後ろまで寄ったのを確認した後ダイアナは杖を地面に突き刺した。
『我の領域は既に完結し、一字一句の改竄をも許さない!
塗り潰せ、不動の真白よ!
《拒絶する不動定点!》』
直後ダイアナ、レイの周りに半球状の結界が展開される。
「大地が穢れるわ! 私に捕まりなさい!」
レイはダイアナの腰に両手を回し後ろから言われるがまま目を強く閉じ抱きついた。
直後、黒い波が結界に触れる。
ドスン! という鈍い音とともに結界ごと大地が、空気が揺れる。恐る恐る閉じていた目を開くとそこはまるで暗黒世界だった。
「なに……これ」
「闇の潮よ」
数秒して「やっと安定した」と言いながらダイアナはレイの方を振り向いた。
「大丈夫? ケガしてない?」
レイの肩に微かについた砂埃をハラハラと払いながらダイアナはレイと同じ目線になるようにしゃがみ込む。
「は、はい……ありがとうございます」
「いいのよ」
ダイアナはレイの頭を撫でて立ち上がり、また正面を向き直す。
「あの、闇の潮って……それにこれって、魔人、ですよね」
「そっか、あなたは見たことあったんだっけ。そうだよ、これは魔人の大群だよ。いや、群なんていい方じゃこの気持ち悪さは表せないね。だからこそ昔の人はこれを『闇の潮』って呼んだんだよ」
ダイアナは地面に刺さった杖を引き抜いた。
「少し、歴史の講義をしようかな。かつてこの世界には歴代の魔術師のなかで比類なき才覚と知能そして肉体に恵まれた人間がいた。後にその者は狂い、狂気の中で世界に反逆する。
名はルイン。
その者は禁術と呼ばれる魔術を『作った』んだよ。その一つが《領域侵犯・第一審》、つまり今の状況を生み出した魔術だね。本来ならこの魔術はルイン本人から教えてもらった者しか使えないんだけど、それを無視できるようにしたのが私の夫、ヴァディゴスの第七番《月桂冠》よ。この世界のありとあらゆる魔術の使用履歴を閲覧でき、その中から任意で発動させることができる神器」
そこまで聞けばレイも勘づくというもの。
「なら今目の前で起こってることがその《領域侵犯・第一審》ってことですか?」
ダイアナは首肯する。
「あのアエデスがやらかしたとは思えないし……何か不測の事態があるのかな? なんにせよ、策を練らないとね」
ダイアナは杖を持たぬ左手の人差し指を立てて腕を円を描くように回す。
『《開けゴマー》』
円の軌跡をなぞるように金色の光の線が空中に現れる。線の始点と終点がつながり円ができあがるのと同時に円の内部が影で満たされる。ダイアナがそこに向かって杖を差し込むと、杖はみるみるうちに影のなかに消えていき、ついには完全に入りきってしまう。
『《閉じろゴマー》』
ダイアナの言葉に従って影は段々収縮しついには点になり消えてしまった。ダイアナは「さてと」とレイの方を振り向く。
「今の状況を改めて説明すべきよね。でも、その前に……」
ダイアナはレイの側まで歩き寄り、レイの右手を取る。そして両手で包み込む。
『全てを見通せ
万物の根源よ、私の声に応えなさい
貴方の軌跡を、貴方の命を見つめる
私の祈りに応えなさい
《魔子解析》』
詠唱に呼応して、レイの手を包むダイアナの手の隙間から淡い紫色の光が漏れ出る。それは記憶の断片から発せられる光である。かつて、誰かが言った。
『魔子とは記録媒体である』
仮にこれが真実だとしたら、魔子を解析し、その記録を覗き見ることが叶うのなら、それはどれだけの価値があるだろうか。
例えば、歴史上の偉人の生まれ変わりの人物の魔子には如何程の価値がつけられるか。それは想像を絶するだろう。
レイは何をされたのかわからなかった。でも、なぜか知らない言葉なはずなのに、その魔術の詠唱だけははっきりと理解できた。まるで昔に、それも遠い遠い昔に聞いた曲のメロディがふと思い出されるように、不確かながら、それを覚えていることを自覚させられる感覚だった。
対してダイアナは絶えず脳内に押し寄せてくる情報の濁流を丁寧に読み取っていた。
魔術大会で危機に瀕した記憶。友人の女の子に抱きついた記憶。実の姉に蹴り飛ばされた記憶。眷属会議に出席した記憶。寮に足を踏み入れた記憶。王都を案内してもらった記憶。故郷を離れた記憶。魔人と対峙し命を落としかけた記憶。
絶えず押し寄せてくる「レイ」として過ごしてきた日々の記憶。その一つ一つをダイアナは丁寧に読み解いた。
ダイアナはさらに深く記憶の海を潜っていく。
孤児院で女の子が病にかかり薬を作った記憶。そして孤児院で目を覚ました時の記憶。
(えっ)
しかし、そこで記憶は途切れる。断片的なものすら無く、ただひたすらな空白。まるで一面真っ白の空間に一人ぽつんと立たされているように、何処からも記憶の光が差し込み、どれが正しい次の記憶なのかわからない。
外から抜き取られたかのようにすっぽりと無い記憶。それにダイアナは違和感と少しの覚えを感じていた。
(嘘でしょ……もしかしてこの子)
ダイアナは一つの答えにたどり着いた。かつて、ちょうど十年ほど前に記憶を自身の手で抜き取った少年。
(……ごめんなさい。あなたの記憶は必ず返すわ)
ダイアナは一度深呼吸をする。
その時、不思議と声が聞こえてきた。『こっちだよ、こっちだよ』とまるで誘うような声。少しぶっきらぼうで粗暴さの残る声。
それはダイアナが七百年望んでやまなかったものだった。
(ヴァディゴス!)
まるで声がダイアナの手を握ったかのように記憶の濁流に沈んでいく。目にした記憶は数多あった。
戦乱のなかで《産声》を携え戦っている記憶。発明に明け暮れた記憶。歌手を夢見た貧相な女の記憶。家族に見捨てられたが画家として花開いた男の記憶。
そして、見覚えのある森の館で一人金槌を打ち、武器を作り上げ、その傍らで妻は読書に耽る、長閑で穏やかな男の記憶──
ダイアナはしばらく下を向き、目を閉じていたが、しばらくすると顔が持ち上がる。その目には涙が浮かんでいた。
「あぁ、やっぱり、そこにいたんだね……ヴァディゴス」
ダイアナはレイに抱きつこうとして、寸のところで止めた。
「いいや、こんなことしてる場合じゃないわね。それに、記憶も無いみたいだし……また今度かな」
ダイアナはレイから一歩離れる。
「今の状況、そしてまずは自己紹介ね。真理の裁定者第三席次ダイアナそれが私の名前。手短に済ませましょう。今の状況について説明するわ」




