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しかし、リカ達が先の地下通路を歩いたところ、いつまで経っても店屋は一軒も現れなかった。
「ほらね?もしも先ほど、そういうものが見えたのであれば、それは幻覚ですよ。極度の疲労かストレスか、何かが加わると幻覚や幻聴が現れるのは当然です。しかし、私には現れませんでした。私はこの道を歩くのに慣れていて、肉体的には兎も角、精神的な負担からは自由だからです」
「そうすると、今と同じように見えていたってことですか?」
「そうですね。私は、魚の位置さえもピタリと当てることが出来ます」
「魚?」
ゼロダは、言うよりも早く、壁に手を突っ込んで、中から一尾の小魚を採って見せた。「これは、名前は忘れましたが、地上で最も個体数の多い脊椎動物です。深海魚です」
「何を言っているのか頭に入ってきませんね。これは壁ではないのですか?」
リカが薄暗い地下通路の壁に触れると、確かに水が手についた。さらに手で壁を押すと、簡単に壁の中に手を入れることが出来た。手には鰭が当たってくる感覚があった。魚だ。群れでいるのだろう。
「本当ですね。帰りましょう」とリカは言った。
「この魚は簡単に捌けそうです。酢飯があれば、寿司を作りたいところなんですが。無いので刺身にしましょうか」
「他にどこか買いに行ける場所は無いんですか?」
ゼロダは二尾目の魚を捕えて「ありますよ。そこへ行きましょう」と言った。そして三尾目もすぐに捕えて、持ってきていたらしいビニール袋に魚を突っ込むと、海水も少し袋に入れた。海水を入れたときに、無数の小魚が一気に袋に入った。「網を使えばもっと採れるかもしれない。良い漁場を見つけることが出来ました。国の一大産業に出来るかもしれません」
リカは、何も言わず元来た道を戻り始めたが、ゼロダは、早歩きをしていたために、すぐ抜かされた。「袋に穴が開いています。早く帰らなければ、水が抜けてしまうでしょう」
「水が抜けると困りますか?冷蔵庫は無いんですか?」
「出来るならば生け簀で飼うべきでしょう。毒があるかもしれません。観察して、図鑑で調べなければ」
数分後、小屋へ戻ると、ゼロダはガラスの水槽に、袋の中身をぶちまけた。水は亀を飼うくらいの量しか入らなかったが、魚も小さいので、観察することは出来た。
「Cyclothoneですね。Most commnly found in the mesopelagic zone of the ocean, mostly at depths of over 300 meters」
「これなら踊り食いが出来そうだ」とリカは言った。「ところで酢飯はどこに売られているんですか?」
「街の市場です。十分ほど歩きますが、そこで酢飯も山葵も醤油も手に入るでしょう。お土産に数匹持って行ってあげましょう」
市場に向かう途中、ゼロダは、眠りにつく前に語っていた事柄の続きを語った。即ち、大陸法と英米法で微妙に民法は異なる。そして、それは何故なのかというと、ゼロダの予想では、大陸法は古代ローマ法を起源としているが、寧ろ、それを乗り越えたところに理論を作ったのだという。他方、英米法は、乗り越える対象が無かったため、自然発生的に作られた法律がそのままの形で理論化された。即ち、民法が問題になるのは、実際には日常の中ではない。企業取引や個々人の経済活動の中でもない。そうした取引や経済活動の中で争いが生じ、しかも個人間では決着がつかない場合に初めて現れる。そして裁判所において第三者の審判を仰ぐことになるが、そんな当事者間で水掛け論のようなことやっている問題について、真実を見出すことは第三者にはなおのこと無理という話なのだ。だから、訴訟においては、意思よりも意思表示の証拠となる外形が重視された。故に英米法だと契約に約因が要求されるし古代ローマ法だと諾成契約もあるが、要式契約が多く、物権行為についても奴隷や家畜、不動産の譲渡など特別な儀式が必要な場合がある。故に、自由意思という法律行為の原因を重視する大陸法は、実際の運用、即ち裁判規範としてよりもまず、学問研究の対象としての民法を作ることに力を注いだといえる。
「しかし、そうしてみると、大陸法を作った学者達は偉いですね。人の役に立つ事柄を一人で部屋に籠っているときにこそ考えられるようにしたのだから」とリカは言った。
「そうともいえますね。実際、そのように考えると、パンデクテン方式は大した発明ですよ。契約と言わずに、単独行為や合同行為まで含めた法律行為にまで単純化して、法律効果の原因としての自由意思を純粋な形で取り出して、相手方や第三者の利益との衡量を表示主義を取り入れることで実現する様を抽象的に纏めたのだから」
市場の魚屋は、「この魚は旨くないと思うよ」と言った。
「毒はありますか?」
「毒は無いけど」
「食べたことあるんですか?」
「食ったことは無いけど、毒が無いことは皆知っている」
「酢飯はありますか?」
「あるよ」
酢飯を買って、山葵と醤油の小袋を貰い、ゼロダは、小魚を店主に差し出した。魚屋の店主は、ゼロダから数匹の小魚を受け取ると、大事そうに空いた生け簀に袋を浮かべ置いた。「水合わせしてから生け簀には入れます」と店主は言った。




