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子供が性的被害、虐待にあう表現があります。

アナは一人になった。


泣き疲れて、空腹に耐えられなくなって、それでも、どうしていいのか分からなかった。


誰も教えてくれなかったからだ。


どうやって生きればいいのか。


どこへ行けばいいのか。


誰に助けを求めればいいのか。


そんなことを教えてくれる大人は、彼女の周りにはいなかった。


だから、アナは自分で覚えた。


泥水をすすり。


露店から食べ物を盗み。


誰かが捨てた残飯を漁った。


夜になれば、建物の軒下や物置の隅に身体を丸める。


雨が降れば濡れたまま眠り、冬になれば、震えながら朝を待つ。


「……お腹、すいた」


呟いても、答える者はいない。


日に日に身体は細くなった。


頬はこけ。


唇は乾き。


手足は棒のように痩せていった。


それでも、アナは死ななかった。


死ぬ方法すら知らなかったからだ。


そんなある日。


アナは、とある娼館の裏口でゴミを漁っていた。


「……これ、食べられるかな」


袋の中から、まだ傷んでいないパンの欠片を見つける。


小さな手を伸ばした、その時だった。


「お嬢ちゃん」


背後から声がした。


アナの身体がびくりと跳ねる。


怒鳴られる。


殴られる。


そう思って身を縮めた。


しかし。


「そんなものを食べるくらいなら、こっちへ来な」


「……?」


振り返ると、そこには娼館の店主が立っていた。


恰幅の良い女だった。


アナは逃げようとした。


だが。


「待ちな」


手を掴まれる。


「……っ」


「怖がるんじゃないよ。あんた、何日まともに食べてない?」


アナは答えなかった。


答えられなかった。


店主は小さく息を吐く。


そして、


「風呂に入れておやり」


近くにいた娼婦へ命じた。


「え?」


「それから、まともな服を着せて。飯も食わせな」


「はい」


アナは何が起きているのか分からなかった。


ただ、物心が着いてから初めて、湯へ浸かった。


身体についた汚れが落ちていく。


髪を洗われる。


新しい服を着せられる。


そして、温かい食事が出された。


「……食べていいの?」


「もちろん」


「……全部?」


「残したって誰も怒らないよ」


アナは、ゆっくりとパンを口へ運んだ。


「……おいしい」


それが、アナが初めて知った初めてのまともな食事だった。


店主はそんなアナをじっと観察していた。


薄汚れていた時には分からなかった。


黒々とした髪。


神秘的な金色の瞳。


整った顔立ち。


まだ幼いながらも、将来間違いなく美しくなるであろう容姿。


「……なるほどね」


店主は呟いた。


「こいつは、ダイヤの原石だ」


それから、アナの人生は変わった。


最初は見習いだった。


すぐに客を取らせることはしない。


まずは身体を健康にする。


十分な食事。


清潔な寝床。


そして、教育。


礼儀作法。


歌。


踊り。


詩。


楽器。


貴族社会で通用する言葉遣い。


食事の作法。


紅茶の淹れ方。


相手を不快にさせない視線の動かし方。


会話の間。


笑顔。


アナは何も知らなかった。


だからこそ、教えられたことをそのまま吸収した。


「アナ、今の動きはこう」


「はい」


「もう一度やってみな」


「はい」


「……完璧だね」


一度見ただけで覚える。


一度聞いただけで暗唱する。


歌も。


踊りも。


詩も。


教えれば教えるほど、アナは驚異的な速度で身につけていった。


やがて店主は気づいた。


この少女はただ美しいだけではない。


人の顔色を読む。


声色の変化を察する。


相手が何を望んでいるのかを、言葉にされる前に理解する。


それは、幼い頃から母親の機嫌を窺い続けてきたことで身についた能力だった。


「お母さん、今日は機嫌が悪い」


「何か言ったら殴られる」


「今は黙っていた方がいい」


そうやって生き延びてきた観察眼。


それが、この世界では一流の才能として花開いた。


「アナは、人の心を読むのが上手いね」


「そうでしょうか?」


「ええ」


アナは首を傾げる。


「普通だと思います」


彼女にとっては、それが普通だった。


相手の機嫌を損ねないこと。


相手が欲しいものを察すること。


相手が喜ぶことをすること。


それが、生きるために必要なことだったから。


栄養状態が改善すると、アナの美しさはさらに際立った。


艶のある黒髪。


金色の瞳。


白い肌。


細くしなやかな身体。


そして、どこか人を惹きつける、不思議な雰囲気。


ただし、笑顔だけはどこか違った。


「アナ、もっと楽しそうに笑って」


「……はい」


口元は笑う。


けれど、瞳は笑っていない。


母親から愛された記憶がない。


だから、人に愛されるという感覚も分からない。


それでも、与えられた役割は完璧にこなした。


そして、十四歳。


アナは高位貴族向けの商品として売り出された。


結果は予想以上だった。


瞬く間に評判が広がった。


「黒髪の少女を」


「金色の瞳をした子だ」


「彼女を指名したい」


高位貴族たちが競うように彼女を求めた。


母親が薬に溺れ、安い客しか取れなかったのとはあまりにも違う世界だった。


そしてある日。


一人の男から、正式な申し込みが入った。


先代侯爵。


四十八歳。


「後妻として迎えたい」


話は驚くほど早く進んだ。


娼婦として生きてきた少女が前侯爵夫人になる。


周囲は驚いた。


アナ自身は、その意味を完全には理解していなかった。


ただ、


「あなたは、これから貴族になるんだよ」


そう教えられ、


「はい」


と頷いた。


十六歳。


アナは四十八歳の先代侯爵の妻となった。


貧民街の孤児。


娼館の見習い。


高級娼婦。


そして。


前侯爵夫人。


あまりにも急激な人生の変化だった。


しかし。


侯爵家で待っていたのは、温かな家庭ではなかった。


当主夫妻。


つまり先代侯爵の息子夫婦は彼女を歓迎しなかった。


「父上も、とんでもない女を妻にしたものだ」


「侯爵夫人だなんて……」


陰でそんな言葉を浴びせられる。


そして、アナと先代侯爵は、領地の別邸で暮らすことになった。


そこには、貴族出身のメイドたちもいた。


彼女たちは、平民、それも娼館出身のアナを快く思っていなかった。


わざと仕事を教えない。


遠回しに侮辱する。


衣服を隠す。


食事を遅らせる。


しかし、アナは


「ありがとうございます」


と笑った。


嫌がらせだと気づいていなかった。


母親に罵られることが当たり前だった。


だから、それより少し優しい言葉なら、むしろ親切に感じた。


「奥様は、本当に鈍いのですね」


「そうでしょうか?」


「……いえ、何でもありません」


アナは微笑む。


「お疲れでしょう。貴女もお茶をどうぞ」


その言葉に。


メイドは何も言えなくなる。


アナは、誰かに愛されることを知らない。


だから、誰かから悪意を向けられていることにも気づけない。


ただ、相手を怒らせないように。


相手が快適でいられるように。


いつも通り、気を配るだけだった。


そんな生活が一年続いた。


そして、アナが十七歳になったその年。


世界に魔王復活の神託が下った。


国中が騒然となった。


そして、聖女の神託によって、魔王を討つための勇者一行が選ばれる。


その中に、アナの名があった。


「アナ・フォン・――」


神官が名を読み上げる。


その瞬間。


侯爵邸の静かな一室で。


アナは目を瞬かせた。


「……私、ですか?」


勇者一行。


魔王討伐。


自分とは無縁だと思っていた言葉だった。


先代侯爵も驚いていた。


だが、アナはいつものように微笑んだ。


「分かりました」


怖いのか。


悲しいのか。


嬉しいのか。


自分でも分からない。


ただ、神殿から告げられた使命なのなら、それを果たせばいい。


そう思った。


そして、この時のアナは知らなかった。


魔王討伐の旅が、彼女の人生で初めて、自分自身のために生きることを教えてくれる旅になることを。


そして――その旅の果てに、彼女自身が


この世界で最も深い絶望と向き合うことになることを。

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