28
アナの無事を確認し、神官に託したレオンは、そのまま前侯爵邸へ向かった。
その足取りは、最初こそ静かだった。
ただ事務的に問題を処理するような、冷えた理性だけで動いていた。
――アナを救うためには、彼女を縛る法的関係を断つ必要がある。
それだけを考えていた。
応接間。前侯爵は椅子にふんぞり返る。
「勇者殿が何の用だ」
「アナと離縁してください」
感情はなかった。
ただ“手続きを進めるための言葉”だった。
前侯爵は鼻で笑う。
「断る」
即答だった。
「理由は?」
まだレオンは冷静だった。
交渉の余地を探していた。
「金だ」
「……」
「高い金を払って買った女だ。俺の所有物だ」
その瞬間。
レオンの思考が一拍だけ止まる。
理解が追いつかなかったのではない。
“理解したくなかった”。
「所有物?」
声は低い。
だがまだ、抑えられている。
「今、なんて言いました?」
「聞こえなかったのか? 所有物だと言ったんだ」
前侯爵は笑う。
その笑いは、レオンの中の“常識”を踏みにじる音だった。
「女は金で買える。買った以上は俺のものだ」
その言葉を聞いた瞬間。
レオンの中で、最初の“ひび”が入る。
怒りではない。
憎しみでもない。
もっと静かなもの。
――世界の前提が、少しだけズレる感覚。
「アナは人間です」
それは反射だった。
自分の中に残っていた“最後の倫理”が口を動かした。
「だから何だ」
前侯爵は即答する。
その瞬間。
レオンの中で、第二のひびが入る。
“会話が成立していない”という理解。
「人間を買った?」
「そうだ」
前侯爵は肩をすくめる。
「お前も戦争で魔物を殺してきただろう。何が違う?」
その言葉で。
レオンの中の“比較の軸”が崩れた。
――違いを説明できない。
――でも、同じだとも思えない。
その矛盾が、静かに思考を侵食する。
「……違う」
ようやく出た言葉は、説明ではなかった。
否定だけだった。
「何がだ?」
前侯爵は笑う。
その笑いが、決定的だった。
“理解する気がない存在”が目の前にいる。
レオンの中で、何かが音を立てて外れる。
「アナは」
一度、息を吸う。
ここで初めて、感情が混ざる。
「僕の世界だ」
前侯爵は一瞬、眉をひそめた。
「は?」
その反応で、レオンは確信する。
――この男には届かない。
理屈も、倫理も、言葉も。
すべてが無意味だ。
「アナは僕の世界なんです」
レオンは笑った。
それは“笑おうとした結果の表情”ではない。
感情が壊れたあとに残る、空白の形だった。
「それを“所有物”って呼ぶなら」
一歩。
「あなたは僕の世界を汚した」
もう一歩。
思考はすでに“対話”を捨てている。
「汚したものは」
さらに一歩。
「壊すしかない」
その結論は、論理ではなく“確信”だった。
前侯爵が立ち上がる。
「勇者風情が何を――」
言葉は途中で途切れた。
レオンが剣を抜いたからだ。
その動作に迷いはない。
だが、怒りの勢いでもない。
“結論に到達した者の動き”だった。
一閃。
音はなかった。
前侯爵の身体が崩れ落ち、床に血が広がる。
レオンはそれを見下ろしたまま、しばらく動かなかった。
ここで初めて、感情が遅れて追いつく。
「……ああ」
小さく声が漏れる。
「やっぱり、こうなるんだ」
それは後悔ではない。
予測の一致だった。
剣を握る手が震えている。
だがそれは恐怖ではない。
“正常な世界から外れた自分”を確認する反応だった。
「これで、アナは自由だ」
そう呟いた瞬間。
レオンは笑った。
今度ははっきりと。
「自由って、なんだろうね」
その問いは誰にも向けられていない。
すでに答えを求める段階ではなかった。
「僕が壊したものの上にしか、自由はないのに」
その言葉で、レオンは自分の中の“価値観の基盤”が完全に崩れたことを理解する。
――守るために壊す。
――救うために殺す。
――正しさの定義が、もうどこにもない。
事件はすぐに広まった。
「勇者が貴族を殺した」
「裁判もなしに」
「王権の否定だ」
「もはや英雄ではない」
王侯貴族たちは王都に集まった。




