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アナの無事を確認し、神官に託したレオンは、そのまま前侯爵邸へ向かった。


その足取りは、最初こそ静かだった。


ただ事務的に問題を処理するような、冷えた理性だけで動いていた。


――アナを救うためには、彼女を縛る法的関係を断つ必要がある。


それだけを考えていた。


応接間。前侯爵は椅子にふんぞり返る。


「勇者殿が何の用だ」


「アナと離縁してください」


感情はなかった。


ただ“手続きを進めるための言葉”だった。


前侯爵は鼻で笑う。


「断る」


即答だった。


「理由は?」


まだレオンは冷静だった。


交渉の余地を探していた。


「金だ」


「……」


「高い金を払って買った女だ。俺の所有物だ」


その瞬間。


レオンの思考が一拍だけ止まる。


理解が追いつかなかったのではない。


“理解したくなかった”。


「所有物?」


声は低い。


だがまだ、抑えられている。


「今、なんて言いました?」


「聞こえなかったのか? 所有物だと言ったんだ」


前侯爵は笑う。


その笑いは、レオンの中の“常識”を踏みにじる音だった。


「女は金で買える。買った以上は俺のものだ」


その言葉を聞いた瞬間。


レオンの中で、最初の“ひび”が入る。


怒りではない。


憎しみでもない。


もっと静かなもの。


――世界の前提が、少しだけズレる感覚。


「アナは人間です」


それは反射だった。


自分の中に残っていた“最後の倫理”が口を動かした。


「だから何だ」


前侯爵は即答する。


その瞬間。


レオンの中で、第二のひびが入る。


“会話が成立していない”という理解。


「人間を買った?」


「そうだ」


前侯爵は肩をすくめる。


「お前も戦争で魔物を殺してきただろう。何が違う?」


その言葉で。


レオンの中の“比較の軸”が崩れた。


――違いを説明できない。


――でも、同じだとも思えない。


その矛盾が、静かに思考を侵食する。


「……違う」


ようやく出た言葉は、説明ではなかった。


否定だけだった。


「何がだ?」


前侯爵は笑う。


その笑いが、決定的だった。


“理解する気がない存在”が目の前にいる。


レオンの中で、何かが音を立てて外れる。


「アナは」


一度、息を吸う。


ここで初めて、感情が混ざる。


「僕の世界だ」


前侯爵は一瞬、眉をひそめた。


「は?」


その反応で、レオンは確信する。


――この男には届かない。


理屈も、倫理も、言葉も。


すべてが無意味だ。


「アナは僕の世界なんです」


レオンは笑った。


それは“笑おうとした結果の表情”ではない。


感情が壊れたあとに残る、空白の形だった。


「それを“所有物”って呼ぶなら」


一歩。


「あなたは僕の世界を汚した」


もう一歩。


思考はすでに“対話”を捨てている。


「汚したものは」


さらに一歩。


「壊すしかない」


その結論は、論理ではなく“確信”だった。


前侯爵が立ち上がる。


「勇者風情が何を――」


言葉は途中で途切れた。


レオンが剣を抜いたからだ。


その動作に迷いはない。


だが、怒りの勢いでもない。


“結論に到達した者の動き”だった。


一閃。


音はなかった。


前侯爵の身体が崩れ落ち、床に血が広がる。


レオンはそれを見下ろしたまま、しばらく動かなかった。


ここで初めて、感情が遅れて追いつく。


「……ああ」


小さく声が漏れる。


「やっぱり、こうなるんだ」


それは後悔ではない。


予測の一致だった。


剣を握る手が震えている。


だがそれは恐怖ではない。


“正常な世界から外れた自分”を確認する反応だった。


「これで、アナは自由だ」


そう呟いた瞬間。


レオンは笑った。


今度ははっきりと。


「自由って、なんだろうね」


その問いは誰にも向けられていない。


すでに答えを求める段階ではなかった。


「僕が壊したものの上にしか、自由はないのに」


その言葉で、レオンは自分の中の“価値観の基盤”が完全に崩れたことを理解する。


――守るために壊す。


――救うために殺す。


――正しさの定義が、もうどこにもない。



事件はすぐに広まった。


「勇者が貴族を殺した」


「裁判もなしに」


「王権の否定だ」


「もはや英雄ではない」


王侯貴族たちは王都に集まった。


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