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王都へ戻る道中、レオンは何度も同じことを考えていた。


母はもういない。


父も、王妃も、兄たちも、自分の手で殺した。


魔王は倒した。世界を救った。


けれど、胸の中には何も残っていなかった。


あれほど望んでいた凱旋も。


公爵位も。


英雄としての名誉も。


何一つ、心を満たしてはくれなかった。


そんなレオンに、最後に残されたものが一つだけあった。


「……アナ」


彼女だけは、生きている。


そう思うだけで、ほんの少しだけ胸の奥が温かくなった。


アナ。


自分が傷つけた少女。


それでも、もう一度自分を見てくれるようになった少女。


彼女なら。


彼女に会えば。


もしかしたら、自分はまだ生きていてもいいのだと思えるかもしれない。


そんな身勝手な期待を抱きながら、レオンは王都へ向かった。


しかし、アナのいる教会へ足を踏み入れた瞬間、妙な違和感を覚えた。


人の気配が少ない。


聖堂の高い天井には、昼間だというのに蝋燭の火が細く揺れているだけで、祈りの声も足音もない。


湿った空気が肌にまとわりつき、石造りの床からは冷えた水気の匂いが立ち上っていた。


誰もレオンの目を見ようとしない。


視線を合わせた神官は、すぐに目を逸らし、唇を固く結ぶ。


「アナはどこにいる?」


「……」


返事はない。沈黙だけが聖堂の中に重く沈む。


「アナは?」


「……地下に」


ようやく絞り出された声は、まるで罪を告げるように震えていた。


「地下?」


神官はそれ以上何も言わなかった。


ただ、祈りの間の奥にある鉄扉を一度だけ見て、視線を伏せた。


レオンは胸騒ぎを覚えた。


扉を押し開ける。


その瞬間、空気が変わった。


上階の乾いた空気とは違う、湿りきった冷気。


石壁に染み込んだ水が、どこかで滴り落ちる音が規則的に響いている。


ぽたり、ぽたり、と。


それはまるで時間そのものが腐っていく音のようだった。


階段を下りる。


一段。また一段。


降りるほどに光は消え、背後の世界が遠ざかっていく。


松明の火が壁に揺らめき、歪んだ影が階段を這うように伸びていた。


空気は重く、喉の奥に鉄のような匂いが絡みつく。血ではない。


だが、長く閉じ込められた人間の絶望が染みついた匂いだった。


そして、どこからか声が聞こえた。


「殺して……」


レオンの足が止まる。


「お願い……」


かすれた声は、石壁に吸い込まれながらも確かに響いていた。


「誰か……私を殺して……」


その声は、祈りではなかった。


救いを求める叫びでもなかった。


ただ、終わりを願うだけの音だった。


レオンの顔から血の気が引いた。


「……アナ?」


走った。


靴音が石の階段に鋭く跳ね返り、地下の闇に吸い込まれていく。


やがて鉄格子の並ぶ通路に出る。


そこは牢獄だった。


湿気が濃く、壁からは常に水が滲み落ちている。


鉄の匂いと、腐った藁の匂い。


そして、人の体が長く閉じ込められたときにだけ生まれる、言葉にできない重い臭気が満ちていた。


松明の火は弱く、揺れるたびに影が牢の中で蠢く。


その奥で、鎖の音がした。


じゃらり、と。


レオンは扉を開けた。


そこに――彼女はいた。


鎖に繋がれていた。


鉄は錆び、肌に食い込み、そこから滲んだ血が乾いて黒く固まっている。


床は湿り、冷たい水が足元に溜まっていた。


以前の面影はほとんど残っていなかった。


髪は乱れ、頬は痩せこけ、目の下には深い影が落ちている。


唇は乾き、呼吸は浅い。


そして何より、その瞳から、生きる意志が消えていた。


ただ、暗い穴のように空虚だった。


「……アナ」


彼女がゆっくりと顔を上げる。


鎖が引かれ、金属が床を擦る音が響く。


「……レオン?」


声はかすれていた。


それでも、その声を聞いた瞬間、レオンは胸を抉られたような痛みを感じた。


「何をしているんだ……」


「……見ての通り」


アナは笑った。


だがそれは、唇が形だけ動いただけの笑みだった。


「ここで、死ぬのを待ってるの」


「どうして……」


「お願いしてるの」


アナは鎖を軽く引いた。


金属が骨に擦れる鈍い音が、牢の中に響く。


「毎日、神官様にお願いしてる」


「何を?」


「殺してって」


その言葉は、湿った空気の中で異様に乾いて聞こえた。


レオンは言葉を失った。


ただ、目の前の現実を理解できずに立ち尽くす。


「どうして……」


ようやくそれだけを口にする。


アナは俯いた。


天井から落ちる水滴が、彼女の肩に当たり、小さな音を立てて弾ける。


「だって、私……穢れてるから」


「……」


「レオンは勇者様になった」


「……」


「魔王を倒して、公爵様になって……これから、誰よりも幸せになれる人」


アナは自嘲するように笑った。


その笑いは、湿った牢の空気に溶けてすぐに消えた。


「そんな人の隣に、私がいるわけにはいかないでしょう?」


「そんなこと――」


「あるよ」


即座に遮られた。


声は弱いのに、妙に鋭かった。


「私は前侯爵の妻」


その言葉に、レオンの胸が締め付けられる。


「今もそうだよ」


アナは静かに続けた。


「離縁もされていない。記録も残ってる」


「この鎖みたいに、ずっと繋がったまま」


「レオンと結ばれることなんてできない」


アナは淡々と言った。


「私には、その資格がない」


「資格なんて必要ない!」


レオンは叫んだ。


声が牢の壁に反響し、何重にも重なって返ってくる。


「僕が愛していると言っている!」


「……知ってる」


アナの瞳に、初めてわずかな光が揺れた。


それは涙だった。


「知ってるから、辛いの」


「……」


「私だって、レオンが好きだから」


その言葉に、レオンの息が止まる。


牢の中の水滴の音だけが、やけに大きく響いた。


「初めてだった」


アナは泣きながら笑った。


「誰かを好きになったのは、レオンが初めてだった」


「……アナ」


「それまでの私は、自分の身体に価値があると思ってなかった」


「ただ、売られるものだった」


「ただ、生きるための道具だった」


アナの声が震える。


湿った空気が、その震えを増幅させるように揺れた。


「でも、レオンに出会って初めて……誰かに愛されたいって思った」


涙が頬を伝い、鎖の上に落ちる。


「一緒に笑いたいって思った」


「……」


「一緒に生きたいって思った」


レオンは何も言えなかった。


ただ、目の前の彼女を見つめることしかできない。


「だから、あなたが私を見てくれたことが嬉しかった」


「なのに……私は、あなたと結ばれることができない」


「そんなことはない」


「できないよ」


「僕が望んでいる」


「それでも」


アナは首を振った。


その動きで、鎖が床に擦れ、乾いた金属音が響く。


「私は前侯爵の妻だった」


「今も、そう」


その一言が、牢の湿った空気よりも重く落ちた。


「それは変えられない」


「……」


「私の身体も、過去も、今の立場も、何もかも消せない」


レオンは鉄格子を掴んだ。


冷たさが掌に刺さる。


「なら、僕が全部受け止める」


「……どうして?」


「君を愛しているからだ」


アナは泣いた。


声を押し殺すように。


牢の中に、嗚咽だけが湿った音として広がる。


「……ずるいよ」


「アナ」


「そんなこと言われたら……」


肩が震える。


鎖が揺れ、金属が壁に当たって乾いた音を立てる。


「生きたくなっちゃうじゃない」


レオンの胸が締め付けられた。


「それでいい」


「……」


「生きてくれ」


「無理だよ」


「どうして」


「だって……」


アナは涙を拭った。


拭っても拭っても、すぐに溢れてくる。


「初めて恋をした人と結ばれないって……こんなに辛いんだね」


その声は、湿った牢の中でかすかに震えながら消えていった。


「だったら……」


アナはレオンを見つめた。


その瞳は、もう光を失いかけているのに、どこか必死だった。


「殺して」


「……」


「お願い」


鎖が小さく鳴る。


その音だけが、やけに現実的だった。


「レオンが私を殺して」


「……できない」


「お願い……」


「できない!」


レオンは叫んだ。


声が牢の天井にぶつかり、湿った空気を震わせる。


「僕には、君を殺すことなんてできない!」


「どうして……?」


「僕はもう、これ以上大切な人を失いたくない!」


母の顔が脳裏に浮かぶ。


血に濡れた玉座の間。


そして、何も残らなかった自分。


「母上を失った」


レオンは震える声で言った。


「仲間も壊れた」


「家族も、僕自身が壊した」


「もう嫌なんだ」


涙が落ちる。


それは牢の床に落ち、すぐに水に紛れて消えた。


「これ以上、僕の大切な人が消えるのは……嫌なんだ」


アナは黙っていた。


ただ、鎖の音だけが微かに揺れている。


「君までいなくなったら、僕には本当に何も残らない」


「……」


「だから、殺してなんて言わないでくれ」


「でも……私は……」


「穢れてなんかいない」


レオンははっきりと言った。


湿った空気の中でも、その声だけは揺れなかった。


「君は、何も悪くない」


「……」


「生きるためにしたことを、君の罪にはしない」


アナの唇が震えた。


涙が鎖の上に落ち、金属を濡らす。


「前侯爵の妻だったことも、今もそうであることも、僕が君を愛することを邪魔する理由にはならない」


「……本当に?」


「ああ」


「……私でも?」


「ああ」


「こんな私でも?」


「君だからだ」


アナの瞳から、涙が溢れた。


それはもう止まらなかった。


「……レオン」


「だから、僕と一緒に生きてくれ」


「……怖い」


「僕も怖い」


「辛いよ」


「僕も辛い」


「幸せになれるかな」


レオンは答えられなかった。


それでも。


「……分からない」


正直に答えた。


「僕にも、分からない」


アナが見つめる。


牢の中の闇の中で、その視線だけが確かにそこにあった。


「でも」


レオンは鉄格子の前で膝をついた。


冷たい水が膝を濡らす。


「分からないから、一緒に探したい」


「……」


「幸せになれるのか」


「……」


「生きていていいのか」


「……」


「僕たちに、明日があるのか」


レオンは手を差し出した。


その手は、血と戦いと喪失の記憶で震えていた。


「一緒に探そう」


アナは、その手を見つめた。


長い沈黙の後。


震える指を伸ばす。


鎖に繋がれた手が、鉄格子の隙間からレオンの手に触れた。


冷たい。


けれど、その奥に確かに人の温度があった。


「……温かい」


「うん」


「レオンの手……温かいね」


「ああ」


アナは泣きながら笑った。


その笑いは、初めて人間らしいものだった。


「……もう少しだけ」


「何?」


「もう少しだけ、生きてみてもいい?」


レオンは強く頷いた。


「もちろんだ」


その言葉を聞いた瞬間。


アナは初めて、声を上げて泣いた。


牢の湿った空気の中で、その泣き声だけが確かに生きていた。


レオンは鉄格子の中へ手を伸ばす。


そして、彼女の手を握り続けた。


冷たさと温かさが、ゆっくりと混ざっていく。


二人とも、幸せになる方法など知らなかった。


過去を消すこともできない。


傷をなかったことにすることもできない。


それでも。


死を選ぶのではなく。


明日を選ぶことだけはできる。


だから二人は、その日。


初めて恋をした相手と結ばれる未来を諦める代わりに――。


いつか、本当に互いを幸せにできる日まで生きることを選んだ。

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