27
王都へ戻る道中、レオンは何度も同じことを考えていた。
母はもういない。
父も、王妃も、兄たちも、自分の手で殺した。
魔王は倒した。世界を救った。
けれど、胸の中には何も残っていなかった。
あれほど望んでいた凱旋も。
公爵位も。
英雄としての名誉も。
何一つ、心を満たしてはくれなかった。
そんなレオンに、最後に残されたものが一つだけあった。
「……アナ」
彼女だけは、生きている。
そう思うだけで、ほんの少しだけ胸の奥が温かくなった。
アナ。
自分が傷つけた少女。
それでも、もう一度自分を見てくれるようになった少女。
彼女なら。
彼女に会えば。
もしかしたら、自分はまだ生きていてもいいのだと思えるかもしれない。
そんな身勝手な期待を抱きながら、レオンは王都へ向かった。
しかし、アナのいる教会へ足を踏み入れた瞬間、妙な違和感を覚えた。
人の気配が少ない。
聖堂の高い天井には、昼間だというのに蝋燭の火が細く揺れているだけで、祈りの声も足音もない。
湿った空気が肌にまとわりつき、石造りの床からは冷えた水気の匂いが立ち上っていた。
誰もレオンの目を見ようとしない。
視線を合わせた神官は、すぐに目を逸らし、唇を固く結ぶ。
「アナはどこにいる?」
「……」
返事はない。沈黙だけが聖堂の中に重く沈む。
「アナは?」
「……地下に」
ようやく絞り出された声は、まるで罪を告げるように震えていた。
「地下?」
神官はそれ以上何も言わなかった。
ただ、祈りの間の奥にある鉄扉を一度だけ見て、視線を伏せた。
レオンは胸騒ぎを覚えた。
扉を押し開ける。
その瞬間、空気が変わった。
上階の乾いた空気とは違う、湿りきった冷気。
石壁に染み込んだ水が、どこかで滴り落ちる音が規則的に響いている。
ぽたり、ぽたり、と。
それはまるで時間そのものが腐っていく音のようだった。
階段を下りる。
一段。また一段。
降りるほどに光は消え、背後の世界が遠ざかっていく。
松明の火が壁に揺らめき、歪んだ影が階段を這うように伸びていた。
空気は重く、喉の奥に鉄のような匂いが絡みつく。血ではない。
だが、長く閉じ込められた人間の絶望が染みついた匂いだった。
そして、どこからか声が聞こえた。
「殺して……」
レオンの足が止まる。
「お願い……」
かすれた声は、石壁に吸い込まれながらも確かに響いていた。
「誰か……私を殺して……」
その声は、祈りではなかった。
救いを求める叫びでもなかった。
ただ、終わりを願うだけの音だった。
レオンの顔から血の気が引いた。
「……アナ?」
走った。
靴音が石の階段に鋭く跳ね返り、地下の闇に吸い込まれていく。
やがて鉄格子の並ぶ通路に出る。
そこは牢獄だった。
湿気が濃く、壁からは常に水が滲み落ちている。
鉄の匂いと、腐った藁の匂い。
そして、人の体が長く閉じ込められたときにだけ生まれる、言葉にできない重い臭気が満ちていた。
松明の火は弱く、揺れるたびに影が牢の中で蠢く。
その奥で、鎖の音がした。
じゃらり、と。
レオンは扉を開けた。
そこに――彼女はいた。
鎖に繋がれていた。
鉄は錆び、肌に食い込み、そこから滲んだ血が乾いて黒く固まっている。
床は湿り、冷たい水が足元に溜まっていた。
以前の面影はほとんど残っていなかった。
髪は乱れ、頬は痩せこけ、目の下には深い影が落ちている。
唇は乾き、呼吸は浅い。
そして何より、その瞳から、生きる意志が消えていた。
ただ、暗い穴のように空虚だった。
「……アナ」
彼女がゆっくりと顔を上げる。
鎖が引かれ、金属が床を擦る音が響く。
「……レオン?」
声はかすれていた。
それでも、その声を聞いた瞬間、レオンは胸を抉られたような痛みを感じた。
「何をしているんだ……」
「……見ての通り」
アナは笑った。
だがそれは、唇が形だけ動いただけの笑みだった。
「ここで、死ぬのを待ってるの」
「どうして……」
「お願いしてるの」
アナは鎖を軽く引いた。
金属が骨に擦れる鈍い音が、牢の中に響く。
「毎日、神官様にお願いしてる」
「何を?」
「殺してって」
その言葉は、湿った空気の中で異様に乾いて聞こえた。
レオンは言葉を失った。
ただ、目の前の現実を理解できずに立ち尽くす。
「どうして……」
ようやくそれだけを口にする。
アナは俯いた。
天井から落ちる水滴が、彼女の肩に当たり、小さな音を立てて弾ける。
「だって、私……穢れてるから」
「……」
「レオンは勇者様になった」
「……」
「魔王を倒して、公爵様になって……これから、誰よりも幸せになれる人」
アナは自嘲するように笑った。
その笑いは、湿った牢の空気に溶けてすぐに消えた。
「そんな人の隣に、私がいるわけにはいかないでしょう?」
「そんなこと――」
「あるよ」
即座に遮られた。
声は弱いのに、妙に鋭かった。
「私は前侯爵の妻」
その言葉に、レオンの胸が締め付けられる。
「今もそうだよ」
アナは静かに続けた。
「離縁もされていない。記録も残ってる」
「この鎖みたいに、ずっと繋がったまま」
「レオンと結ばれることなんてできない」
アナは淡々と言った。
「私には、その資格がない」
「資格なんて必要ない!」
レオンは叫んだ。
声が牢の壁に反響し、何重にも重なって返ってくる。
「僕が愛していると言っている!」
「……知ってる」
アナの瞳に、初めてわずかな光が揺れた。
それは涙だった。
「知ってるから、辛いの」
「……」
「私だって、レオンが好きだから」
その言葉に、レオンの息が止まる。
牢の中の水滴の音だけが、やけに大きく響いた。
「初めてだった」
アナは泣きながら笑った。
「誰かを好きになったのは、レオンが初めてだった」
「……アナ」
「それまでの私は、自分の身体に価値があると思ってなかった」
「ただ、売られるものだった」
「ただ、生きるための道具だった」
アナの声が震える。
湿った空気が、その震えを増幅させるように揺れた。
「でも、レオンに出会って初めて……誰かに愛されたいって思った」
涙が頬を伝い、鎖の上に落ちる。
「一緒に笑いたいって思った」
「……」
「一緒に生きたいって思った」
レオンは何も言えなかった。
ただ、目の前の彼女を見つめることしかできない。
「だから、あなたが私を見てくれたことが嬉しかった」
「なのに……私は、あなたと結ばれることができない」
「そんなことはない」
「できないよ」
「僕が望んでいる」
「それでも」
アナは首を振った。
その動きで、鎖が床に擦れ、乾いた金属音が響く。
「私は前侯爵の妻だった」
「今も、そう」
その一言が、牢の湿った空気よりも重く落ちた。
「それは変えられない」
「……」
「私の身体も、過去も、今の立場も、何もかも消せない」
レオンは鉄格子を掴んだ。
冷たさが掌に刺さる。
「なら、僕が全部受け止める」
「……どうして?」
「君を愛しているからだ」
アナは泣いた。
声を押し殺すように。
牢の中に、嗚咽だけが湿った音として広がる。
「……ずるいよ」
「アナ」
「そんなこと言われたら……」
肩が震える。
鎖が揺れ、金属が壁に当たって乾いた音を立てる。
「生きたくなっちゃうじゃない」
レオンの胸が締め付けられた。
「それでいい」
「……」
「生きてくれ」
「無理だよ」
「どうして」
「だって……」
アナは涙を拭った。
拭っても拭っても、すぐに溢れてくる。
「初めて恋をした人と結ばれないって……こんなに辛いんだね」
その声は、湿った牢の中でかすかに震えながら消えていった。
「だったら……」
アナはレオンを見つめた。
その瞳は、もう光を失いかけているのに、どこか必死だった。
「殺して」
「……」
「お願い」
鎖が小さく鳴る。
その音だけが、やけに現実的だった。
「レオンが私を殺して」
「……できない」
「お願い……」
「できない!」
レオンは叫んだ。
声が牢の天井にぶつかり、湿った空気を震わせる。
「僕には、君を殺すことなんてできない!」
「どうして……?」
「僕はもう、これ以上大切な人を失いたくない!」
母の顔が脳裏に浮かぶ。
血に濡れた玉座の間。
そして、何も残らなかった自分。
「母上を失った」
レオンは震える声で言った。
「仲間も壊れた」
「家族も、僕自身が壊した」
「もう嫌なんだ」
涙が落ちる。
それは牢の床に落ち、すぐに水に紛れて消えた。
「これ以上、僕の大切な人が消えるのは……嫌なんだ」
アナは黙っていた。
ただ、鎖の音だけが微かに揺れている。
「君までいなくなったら、僕には本当に何も残らない」
「……」
「だから、殺してなんて言わないでくれ」
「でも……私は……」
「穢れてなんかいない」
レオンははっきりと言った。
湿った空気の中でも、その声だけは揺れなかった。
「君は、何も悪くない」
「……」
「生きるためにしたことを、君の罪にはしない」
アナの唇が震えた。
涙が鎖の上に落ち、金属を濡らす。
「前侯爵の妻だったことも、今もそうであることも、僕が君を愛することを邪魔する理由にはならない」
「……本当に?」
「ああ」
「……私でも?」
「ああ」
「こんな私でも?」
「君だからだ」
アナの瞳から、涙が溢れた。
それはもう止まらなかった。
「……レオン」
「だから、僕と一緒に生きてくれ」
「……怖い」
「僕も怖い」
「辛いよ」
「僕も辛い」
「幸せになれるかな」
レオンは答えられなかった。
それでも。
「……分からない」
正直に答えた。
「僕にも、分からない」
アナが見つめる。
牢の中の闇の中で、その視線だけが確かにそこにあった。
「でも」
レオンは鉄格子の前で膝をついた。
冷たい水が膝を濡らす。
「分からないから、一緒に探したい」
「……」
「幸せになれるのか」
「……」
「生きていていいのか」
「……」
「僕たちに、明日があるのか」
レオンは手を差し出した。
その手は、血と戦いと喪失の記憶で震えていた。
「一緒に探そう」
アナは、その手を見つめた。
長い沈黙の後。
震える指を伸ばす。
鎖に繋がれた手が、鉄格子の隙間からレオンの手に触れた。
冷たい。
けれど、その奥に確かに人の温度があった。
「……温かい」
「うん」
「レオンの手……温かいね」
「ああ」
アナは泣きながら笑った。
その笑いは、初めて人間らしいものだった。
「……もう少しだけ」
「何?」
「もう少しだけ、生きてみてもいい?」
レオンは強く頷いた。
「もちろんだ」
その言葉を聞いた瞬間。
アナは初めて、声を上げて泣いた。
牢の湿った空気の中で、その泣き声だけが確かに生きていた。
レオンは鉄格子の中へ手を伸ばす。
そして、彼女の手を握り続けた。
冷たさと温かさが、ゆっくりと混ざっていく。
二人とも、幸せになる方法など知らなかった。
過去を消すこともできない。
傷をなかったことにすることもできない。
それでも。
死を選ぶのではなく。
明日を選ぶことだけはできる。
だから二人は、その日。
初めて恋をした相手と結ばれる未来を諦める代わりに――。
いつか、本当に互いを幸せにできる日まで生きることを選んだ。




