26
魔王は討たれた。
世界を覆っていた魔力の奔流が消え、魔王城には静寂が訪れていた。
その玉座の前で、勇者レオンは一人立っていた。
聖剣を握る手には、もうほとんど力が入らない。
全身は傷だらけだった。
右肩は砕け、左脚には深い裂傷が走り、胸には魔王の爪によって抉られた傷が残っている。
そして――。
「……みんな」
レオンの視線の先には、四つの肉塊が転がっていた。
魔王との戦いで、仲間たちは人間としての形を失った。
肉を裂かれ。
骨を砕かれ。
それでも、レオンは彼らを置いて帰ることができなかった。
震える手で転移の巻物を広げる。
「帰ろう」
誰に向かって言ったのか、自分でも分からなかった。
「……一緒に帰ろう」
巻物が光る。
次の瞬間。
五人の勇者一行は、王城の大広間へ転移した。
――魔王討伐の瞬間だった。
歓声が上がった。
神官たちが泣きながら祈りを捧げる。
誰もが勝利を喜んでいた。
「勇者様! 無事魔王を討伐なさったと聞きました! おめでとうございます!」
「……それにしても、なんですの?この凄まじく臭い肉片は。」
「どうか王族専用の大浴場で湯浴みをなさって、旅と戦の疲れをお癒し下さいませ」
この国の第三王女が、何の悪意もなくそう話しかけてきた。
けれど、レオンにはその声が遠く聞こえていた。
視線を落とす。
そこには、四人の仲間だった肉塊がある。
「……治せるのか?」
レオンが尋ねると、神官たちは顔を見合わせた。
「蘇生魔法を使えば……可能性はあります」
「やってくれ」
「ですが――」
「やってくれ!」
レオンは叫んだ。
「絶対に諦めるな!」
「すぐに蘇生を!」
神官たちは慌ただしく動き始めた。
それから三ヶ月。
レオン自身もまた、ほとんど動くことができなかった。
ベッドから起き上がることすら難しい。
傷は塞がり始めている。
だが、魔王との戦いで負った傷はあまりにも深かった。
それでも、レオンは毎日尋ねた。
「……あいつらは?」
「まだ蘇生処置の途中です」
「そうか……」
それだけを確認して、眠る。
そんな日々が続いた。
自国で魔王を倒した功績が認められ、公爵位を授かったことを聞いたが、そんなものはどうでもよかった。
そして、ある朝。
「勇者様」
神官が部屋へ入ってきた。
「仲間の皆様の蘇生が成功しました」
「……本当か?」
「はい」
レオンの顔に、初めて笑みが浮かんだ。
「良かった……」
しかし。
「ですが……」
神官の顔は暗かった。
「何かあったのか?」
「皆様が……」
言葉を選ぶように沈黙する。
「昼夜を問わず、叫び続けておられます」
「……何を?」
「なぜ生き返らせたのか、と」
レオンの表情が固まった。
「……」
「なぜ死なせてくれないのか、と」
神官は続けた。
「皆様、蘇生されたことを喜んでおられません」
レオンは何も言わなかった。
ただ、天井を見つめる。
あの四人が、魔王城でどれほど苦しんだのか。
自分は彼らを救ったつもりだった。
置いて帰ることなどできなかった。
生き返らせるべきだと思った。
けれど。
「……死なせてほしかったのか」
誰も答えない。
レオンは目を閉じた。
「……僕は、正しかったのかな」
初めて、その問いが胸に浮かんだ。
それからさらに時間が経った。
ようやく身体が動くようになった頃。
レオンが最初に考えたのは、母のことだった。
「母上に会いたい」
魔王を討った。
無事に帰還した。
それを、一番に伝えたかった。
母はきっと喜んでくれる。
幼い頃から離宮で二人きりで暮らしてきた。
世界でただ一人、レオンを無条件に愛してくれた母。
「ただいま」と言えば、笑って迎えてくれる。
そう思っていた。
自国へ戻る。
離宮へと向かう。
けれど、母の姿はどこにもなかった。
「……母上は?」
誰も答えない。
「母上はどこにいる?」
兵士の顔が青ざめる。
嫌な予感がした。
「答えろ!」
レオンが怒鳴る。
やがて、一人の侍女が震えながら口を開いた。
「……王妃様が」
「王妃?」
「はい……」
「母上は?」
侍女は涙を流した。
「……お亡くなりになりました」
「……」
レオンの思考が止まった。
「いつ?」
「三ヶ月ほど前です」
「どうして?」
侍女は俯いた。
「王妃様が……命じられました」
「何を?」
「……王子殿下が魔王を討伐すれば、国で絶大な支持を得ることになる、と」
レオンの指が震えた。
「だから……」
侍女は泣きながら続けた。
「力を持つことを恐れられて……」
母は殺された。
自分が魔王を討った、その直後に。
レオンは何も言わなかった。
「……そうか」
ただ、それだけだった。
母の部屋へ向かう。
そこには、母が大切にしていたものが残されていた。
古い本。
小さな花瓶。
そして、幼い頃のレオンが描いた、下手な絵。
母はそれを大切に飾っていた。
「……母上」
レオンはその絵を手に取った。
指が震える。
「僕、帰ってきたよ」
返事はない。
「魔王を倒したんだ」
返事はない。
「約束通り……帰ってきた」
返事はない。
レオンの目から涙が落ちた。
「……なのに、どうして」
胸の奥で、何かが切れた。
「どうして……」
レオンは王妃の部屋を出た。
向かう先は、王城の中心。
王と王妃がいる玉座の間だった。
止める者はいなかった。
止められる者など、いなかった。
魔王を倒した勇者。
世界最強の戦士。
その男が、怒りに身を任せて剣を抜いた。
「レオン……?」
王妃が怯えた顔をする。
「待て、話を――」
王も立ち上がる。
けれど。
「母上を殺したのは、あなたたちか」
「違う! 私は――」
「答えろ」
「レオン!」
「答えろ!」
王妃は震えながら言った。
「……そうよ」
その一言で。
何かが完全に切れた。
レオンは剣を振った。
王妃が倒れる。
「レオン、やめろ!」
父王が叫ぶ。
「お前は王族だぞ!」
「……だから何だ」
レオンは冷たく呟いた。
「母上を殺した王族に、何の価値がある?」
兄たちが剣を抜く。
けれど、魔王と戦い、生還した勇者を止められる者などいなかった。
一人。
また一人。
王が倒れる。
兄たちが倒れる。
そして。
最後に残った王族へ、レオンは剣を向けた。
「……」
そこに立っていたのは、第四王子セルジュだった。
セルジュは剣を抜いていなかった。
ただ、静かにレオンを見ていた。
「殺せ」
セルジュが言った。
「俺も王族だ」
レオンの剣先が僅かに震える。
その瞬間。
脳裏に、焼けただれた少女の姿が浮かんだ。
両手足を失い。
顔の半分を失い。
それでも魔王と戦うために極大魔法を完成させた少女。
リュシー。
そして。
「……セルジュ」
レオンの口から、その名が漏れた。
そうだ。
この男は。
リュシーの婚約者だった。
魔王城で最後まで戦った仲間。
自分たちのために、身体を失った仲間。
そのリュシーが、唯一愛していた男。
そして何より。
「お前は……母上の殺害に関わっていないな」
セルジュは静かに首を横に振った。
「知らなかった」
その答えを聞いて、レオンは目を閉じた。
もしセルジュが母の殺害に関わっていたのなら。
きっと、今ここで殺していた。
だが。
関係のない人間まで殺すことはできなかった。
ましてや。
リュシーが帰ってきたとき、婚約者であるセルジュまで失っていたら。
自分は彼女に何と言えばいい。
「……そうか」
レオンは剣を下ろした。
セルジュが僅かに目を見開く。
「お前だけは殺さない」
「……」
「母上を殺したことに関わっていないなら、お前に俺の復讐を向ける理由はない」
そして。
「それに――」
レオンは一瞬だけ、目を伏せた。
「お前は、リュシーの婚約者だからな」
その言葉に、セルジュの顔が僅かに歪んだ。
「……リュシーは」
「生きている」
「……!」
「だが、無事ではない」
レオンは苦しげに続けた。
「魔王城で、両手足を失った」
セルジュの顔から血の気が引く。
「そんな……」
「それでも、あいつは生きている」
レオンは剣を収めた。
「だから、お前も生きろ」
「……」
「リュシーが帰ってきたとき、迎えてやれるようにな」
セルジュは何も答えられなかった。
ただ、拳を強く握りしめた。
そして。
玉座の間には、レオンとセルジュだけが残った。
王も。
王妃も。
兄たちも。
もういない。
けれど、レオンはセルジュまで殺さなかった。
彼が善人だからでも。
王族への情が残っていたからでもない。
ただ。
自分が最後に残った仲間の一人まで奪うことだけは、どうしてもできなかった。
レオンは血に濡れた剣を見つめる。
「……終わった」
王族への復讐は終わった。
母を奪った者たちは死んだ。
けれど。
胸の中にあった怒りは、どこにも消えていなかった。
「……なのに」
胸が、空っぽだった。
怒りは消えていた。
憎しみも消えていた。
残ったのは、底なしの虚しさだけ。
「……母上は、帰ってこない」
分かっていた。
最初から分かっていた。
それでも殺した。
殺せば少しは楽になると思った。
母を奪った者たちを消せば、この胸の痛みも消えると思った。
けれど。
「……何もない」
玉座の間に、一人立つ。
世界を救った英雄。
魔王を倒した勇者。
そして今や、一国の王族を皆殺しにした男。
ただ一人、殺さずに残した弟を除いて。
何もかも手に入れたはずだった。
なのに。
「……母上」
呼んでも、もう返事はない。
レオンはゆっくりと床に座り込んだ。
剣を手放す。
金属音が、広い玉座の間に響いた。
「……帰ってきたよ」
誰もいない場所へ向かって呟く。
「約束、守ったよ」
涙が落ちる。
「魔王を倒して……ちゃんと帰ってきた」
それでも、母はいない。
レオンは顔を伏せた。
魔王を倒したときよりも。
仲間たちが肉塊になったときよりも。
どんな戦いよりも。
今が一番、苦しかった。
「……母上」
返事のない玉座の間で。
勇者レオンは、ただ一人。
誰にも褒められることのない勝利を噛み締めながら、いつまでも泣き続けていた。




