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魔王は討たれた。


世界を覆っていた魔力の奔流が消え、魔王城には静寂が訪れていた。


その玉座の前で、勇者レオンは一人立っていた。


聖剣を握る手には、もうほとんど力が入らない。


全身は傷だらけだった。


右肩は砕け、左脚には深い裂傷が走り、胸には魔王の爪によって抉られた傷が残っている。


そして――。


「……みんな」


レオンの視線の先には、四つの肉塊が転がっていた。


魔王との戦いで、仲間たちは人間としての形を失った。


肉を裂かれ。


骨を砕かれ。


それでも、レオンは彼らを置いて帰ることができなかった。


震える手で転移の巻物を広げる。


「帰ろう」


誰に向かって言ったのか、自分でも分からなかった。


「……一緒に帰ろう」


巻物が光る。


次の瞬間。


五人の勇者一行は、王城の大広間へ転移した。


――魔王討伐の瞬間だった。


歓声が上がった。


神官たちが泣きながら祈りを捧げる。


誰もが勝利を喜んでいた。


「勇者様! 無事魔王を討伐なさったと聞きました! おめでとうございます!」 


「……それにしても、なんですの?この凄まじく臭い肉片は。」


「どうか王族専用の大浴場で湯浴みをなさって、旅と戦の疲れをお癒し下さいませ」


この国の第三王女が、何の悪意もなくそう話しかけてきた。


けれど、レオンにはその声が遠く聞こえていた。


視線を落とす。


そこには、四人の仲間だった肉塊がある。


「……治せるのか?」


レオンが尋ねると、神官たちは顔を見合わせた。


「蘇生魔法を使えば……可能性はあります」


「やってくれ」


「ですが――」


「やってくれ!」


レオンは叫んだ。


「絶対に諦めるな!」


「すぐに蘇生を!」


神官たちは慌ただしく動き始めた。


それから三ヶ月。


レオン自身もまた、ほとんど動くことができなかった。


ベッドから起き上がることすら難しい。


傷は塞がり始めている。


だが、魔王との戦いで負った傷はあまりにも深かった。


それでも、レオンは毎日尋ねた。


「……あいつらは?」


「まだ蘇生処置の途中です」


「そうか……」


それだけを確認して、眠る。


そんな日々が続いた。


自国で魔王を倒した功績が認められ、公爵位を授かったことを聞いたが、そんなものはどうでもよかった。


そして、ある朝。


「勇者様」


神官が部屋へ入ってきた。


「仲間の皆様の蘇生が成功しました」


「……本当か?」


「はい」


レオンの顔に、初めて笑みが浮かんだ。


「良かった……」


しかし。


「ですが……」


神官の顔は暗かった。


「何かあったのか?」


「皆様が……」


言葉を選ぶように沈黙する。


「昼夜を問わず、叫び続けておられます」


「……何を?」


「なぜ生き返らせたのか、と」


レオンの表情が固まった。


「……」


「なぜ死なせてくれないのか、と」


神官は続けた。


「皆様、蘇生されたことを喜んでおられません」


レオンは何も言わなかった。


ただ、天井を見つめる。


あの四人が、魔王城でどれほど苦しんだのか。


自分は彼らを救ったつもりだった。


置いて帰ることなどできなかった。


生き返らせるべきだと思った。


けれど。


「……死なせてほしかったのか」


誰も答えない。


レオンは目を閉じた。


「……僕は、正しかったのかな」


初めて、その問いが胸に浮かんだ。


それからさらに時間が経った。


ようやく身体が動くようになった頃。


レオンが最初に考えたのは、母のことだった。


「母上に会いたい」


魔王を討った。


無事に帰還した。


それを、一番に伝えたかった。


母はきっと喜んでくれる。


幼い頃から離宮で二人きりで暮らしてきた。


世界でただ一人、レオンを無条件に愛してくれた母。


「ただいま」と言えば、笑って迎えてくれる。


そう思っていた。


自国へ戻る。


離宮へと向かう。


けれど、母の姿はどこにもなかった。


「……母上は?」


誰も答えない。


「母上はどこにいる?」


兵士の顔が青ざめる。


嫌な予感がした。


「答えろ!」


レオンが怒鳴る。


やがて、一人の侍女が震えながら口を開いた。


「……王妃様が」


「王妃?」


「はい……」


「母上は?」


侍女は涙を流した。


「……お亡くなりになりました」


「……」


レオンの思考が止まった。


「いつ?」


「三ヶ月ほど前です」


「どうして?」


侍女は俯いた。


「王妃様が……命じられました」


「何を?」


「……王子殿下が魔王を討伐すれば、国で絶大な支持を得ることになる、と」


レオンの指が震えた。


「だから……」


侍女は泣きながら続けた。


「力を持つことを恐れられて……」


母は殺された。


自分が魔王を討った、その直後に。


レオンは何も言わなかった。


「……そうか」


ただ、それだけだった。


母の部屋へ向かう。


そこには、母が大切にしていたものが残されていた。


古い本。


小さな花瓶。


そして、幼い頃のレオンが描いた、下手な絵。


母はそれを大切に飾っていた。


「……母上」


レオンはその絵を手に取った。


指が震える。


「僕、帰ってきたよ」


返事はない。


「魔王を倒したんだ」


返事はない。


「約束通り……帰ってきた」


返事はない。


レオンの目から涙が落ちた。


「……なのに、どうして」


胸の奥で、何かが切れた。


「どうして……」


レオンは王妃の部屋を出た。


向かう先は、王城の中心。


王と王妃がいる玉座の間だった。


止める者はいなかった。


止められる者など、いなかった。


魔王を倒した勇者。


世界最強の戦士。


その男が、怒りに身を任せて剣を抜いた。


「レオン……?」


王妃が怯えた顔をする。


「待て、話を――」


王も立ち上がる。


けれど。


「母上を殺したのは、あなたたちか」


「違う! 私は――」


「答えろ」


「レオン!」


「答えろ!」


王妃は震えながら言った。


「……そうよ」


その一言で。


何かが完全に切れた。


レオンは剣を振った。


王妃が倒れる。


「レオン、やめろ!」


父王が叫ぶ。


「お前は王族だぞ!」


「……だから何だ」


レオンは冷たく呟いた。


「母上を殺した王族に、何の価値がある?」


兄たちが剣を抜く。


けれど、魔王と戦い、生還した勇者を止められる者などいなかった。


一人。


また一人。


王が倒れる。


兄たちが倒れる。


そして。


最後に残った王族へ、レオンは剣を向けた。


「……」


そこに立っていたのは、第四王子セルジュだった。


セルジュは剣を抜いていなかった。


ただ、静かにレオンを見ていた。


「殺せ」


セルジュが言った。


「俺も王族だ」


レオンの剣先が僅かに震える。


その瞬間。


脳裏に、焼けただれた少女の姿が浮かんだ。


両手足を失い。


顔の半分を失い。


それでも魔王と戦うために極大魔法を完成させた少女。


リュシー。


そして。


「……セルジュ」


レオンの口から、その名が漏れた。


そうだ。


この男は。


リュシーの婚約者だった。


魔王城で最後まで戦った仲間。


自分たちのために、身体を失った仲間。


そのリュシーが、唯一愛していた男。


そして何より。


「お前は……母上の殺害に関わっていないな」


セルジュは静かに首を横に振った。


「知らなかった」


その答えを聞いて、レオンは目を閉じた。


もしセルジュが母の殺害に関わっていたのなら。


きっと、今ここで殺していた。


だが。


関係のない人間まで殺すことはできなかった。


ましてや。


リュシーが帰ってきたとき、婚約者であるセルジュまで失っていたら。


自分は彼女に何と言えばいい。


「……そうか」


レオンは剣を下ろした。


セルジュが僅かに目を見開く。


「お前だけは殺さない」


「……」


「母上を殺したことに関わっていないなら、お前に俺の復讐を向ける理由はない」


そして。


「それに――」


レオンは一瞬だけ、目を伏せた。


「お前は、リュシーの婚約者だからな」


その言葉に、セルジュの顔が僅かに歪んだ。


「……リュシーは」


「生きている」


「……!」


「だが、無事ではない」


レオンは苦しげに続けた。


「魔王城で、両手足を失った」


セルジュの顔から血の気が引く。


「そんな……」


「それでも、あいつは生きている」


レオンは剣を収めた。


「だから、お前も生きろ」


「……」


「リュシーが帰ってきたとき、迎えてやれるようにな」


セルジュは何も答えられなかった。


ただ、拳を強く握りしめた。


そして。


玉座の間には、レオンとセルジュだけが残った。


王も。


王妃も。


兄たちも。


もういない。


けれど、レオンはセルジュまで殺さなかった。


彼が善人だからでも。


王族への情が残っていたからでもない。


ただ。


自分が最後に残った仲間の一人まで奪うことだけは、どうしてもできなかった。


レオンは血に濡れた剣を見つめる。


「……終わった」


王族への復讐は終わった。


母を奪った者たちは死んだ。


けれど。


胸の中にあった怒りは、どこにも消えていなかった。


「……なのに」


胸が、空っぽだった。


怒りは消えていた。


憎しみも消えていた。


残ったのは、底なしの虚しさだけ。


「……母上は、帰ってこない」


分かっていた。


最初から分かっていた。


それでも殺した。


殺せば少しは楽になると思った。


母を奪った者たちを消せば、この胸の痛みも消えると思った。


けれど。


「……何もない」


玉座の間に、一人立つ。


世界を救った英雄。


魔王を倒した勇者。


そして今や、一国の王族を皆殺しにした男。


ただ一人、殺さずに残した弟を除いて。


何もかも手に入れたはずだった。


なのに。


「……母上」


呼んでも、もう返事はない。


レオンはゆっくりと床に座り込んだ。


剣を手放す。


金属音が、広い玉座の間に響いた。


「……帰ってきたよ」


誰もいない場所へ向かって呟く。


「約束、守ったよ」


涙が落ちる。


「魔王を倒して……ちゃんと帰ってきた」


それでも、母はいない。


レオンは顔を伏せた。


魔王を倒したときよりも。


仲間たちが肉塊になったときよりも。


どんな戦いよりも。


今が一番、苦しかった。


「……母上」


返事のない玉座の間で。


勇者レオンは、ただ一人。


誰にも褒められることのない勝利を噛み締めながら、いつまでも泣き続けていた。

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