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アナは、幸せな夢を見ていた。


夢の中の彼女は、ずっと昔から愛されていた。


母は優しかった。


朝になれば「おはよう」と笑ってくれて、髪を撫でてくれた。寒い夜には毛布を掛けてくれて、熱を出せば一晩中そばにいてくれた。


貧しい暮らしだったけれど、それでも母と二人で笑って暮らせていた。


だから、アナは知らなかった。


自分が母親に殴られたことも。


食事を与えられず、母の嬌声を聞きながら育ったことも。


母の恋人が自分を穢したにも関わらず、その現場を見た母から、子供なのになんて淫乱なのかと怒鳴られ捨てられたことも。



それらはすべて、最初から存在しなかったことになっていた。


夢の中のアナには、愛されて育った記憶しかなかった。


そして、そんな彼女の隣には――いつもレオンがいた。


「アナ」


振り返れば、そこに彼がいる。


輝く金髪。優しい青い瞳。


魔王を討ち果たした勇者。


そして隣国の第三王子。


レオンは魔王討伐の功績を認められ、公爵位を授けられていた。


「レオン」


「どうした?」


「……ううん。呼んでみただけ」


「そうか」


レオンは笑った。


その笑顔を見るだけで、胸がいっぱいになる。


アナは、レオンの妻だった。


二人は大きな屋敷で暮らしていた。


公爵夫人となったアナには、たくさんの侍女がつき、毎日のように舞踏会や茶会への招待状が届いた。


けれど、そんなものよりもアナにとって大切なものがある。


「お母様、今日も来てくださったのね」


「ええ。レオン様が呼んでくださったから」


「良かった……」


母は、穏やかに笑っている。


アナが大好きだった母。


自分を産んでくれた、世界でたった一人の人。


その母を、レオンは公爵邸へ呼び寄せてくれた。


「アナが大切にしている人なら、僕にとっても大切な人だから」


そう言って。


母にも惜しみない愛情を与えてくれた。


三人で食卓を囲む。


母が笑う。


レオンが笑う。


アナも笑う。


――なんて幸せなのだろう。


これが自分の本当の人生だったのだ。


アナはそう信じていた。


「アナ」


「なあに?」


「愛しているよ」


「……私も」


頬を赤くしながら答えると、レオンが優しく笑う。


そのまま抱きしめられる。


温かい。


幸せ。


ずっと、こうしていたい。


この幸せが永遠に続けばいい。


そう思った、その瞬間だった。


――ドンッ。


何かが壊れる音がした。


「……え?」


景色が揺らぐ。


レオンの姿が霞む。


母の笑顔が消える。


屋敷も、庭も、豪華な食卓も。


すべてが黒く塗り潰されていく。


「待って……」


手を伸ばす。


けれど、レオンの手は届かない。


「レオン……!」


その瞬間、世界が反転した。


「――起きろ!」


怒鳴り声。


頬に走る激痛。


幼いアナは床に転がっていた。


「何度言ったら分かるんだ、この役立たず!」


母親が怒鳴っている。


酒の臭いがした。


アナは震えながら母を見上げた。


「ご、ごめんなさい……」


「謝れば済むと思ってるのか!」


また殴られる。


痛い。怖い。寒い。


お腹が空いている。


でも、泣いてはいけない。


泣けばもっと殴られる。


だから、ただ小さく身体を丸めて耐える。


――そうだった。


これが、本当の自分だった。


愛されてなんていなかった。


母親は自分を愛してなどいなかった。


やがて母は、母の恋人に性的虐待をされていた被害者でしかないアナを捨てた。


一人になったアナは、生きるために盗みを働いた。


食べ物を盗み、服を盗み、時には財布を盗んだ。


捕まれば殴られた。


逃げれば追われた。


それでも、生きるしかなかった。


そして、ある日。


行き場を失ったアナは、高級娼館へ辿り着く。


そこで初めて、自分の身体に値段が付いていることを知った。


笑わなければならなかった。


客の前では、嫌でも笑わなければならなかった。


どれほど心が壊れても。


どれほど吐き気がしても。


泣くことは許されなかった。


そんな生活の中で、アナを救ったのが前侯爵だった。


侯爵はアナを身請けした。


そして妻にした。


豪華な屋敷。


美しいドレス。


食べ物に困らない生活。


何不自由ない暮らし。


けれど、アナの心にはずっと消えないものがあった。


――私は穢れている。


そう思っていた。


そして、魔王討伐の旅に出た。


そこで出会ったのが、レオンだった。


彼は優しかった。


身分など関係なくアナに接してくれた。


アナが盗みの技術を使えば、「すごいな」と笑ってくれた。


夜、眠れずに一人でいると、隣に座ってくれた。


危険な場所では、必ずアナを守ってくれた。


だから。


アナは、レオンを好きになった。


けれど、その想いを口にすることはできなかった。


自分には、そんな資格がないと思っていたから。


そして今。


夢の中でだけ、アナはレオンと結ばれていた。


愛されて育った、綺麗な自分として。


母親から愛され、身体を売ることもなく。前侯爵に身請けされることもなく、何の罪もない少女として、レオンの隣に立っていた。


――でも。


それは偽物だった。


本当の自分は、虐待され、捨てられ、盗みを働き、娼婦として生き、そして、誰かに買われた女。


そんな自分が、あんなに優しいレオンと結ばれるなんて許されるはずがない。


「……嫌」


アナは自分の身体を抱きしめた。


「私なんか……」


涙が溢れる。


「私なんかが、レオンの隣にいていいはずがない……」


夢の中の幸せな光景が、次々と蘇る。


レオンの笑顔。


母の笑顔。


温かな食卓。


優しい声。


愛される幸せ。


それらすべてが、アナには眩しすぎた。


「……もう、嫌」


胸が痛い。


息が苦しい。


夢なんて見たくなかった。


幸せなんて知らなければよかった。


知らなければ、こんなにも苦しくなかった。


「レオン……」


名前を呼ぶ。


けれど、返事はない。


「ごめんなさい……」


涙が頬を伝う。


「私、あなたの隣にいる資格なんてない」


指先が震える。


「だから……」


声が途切れた。


「もう、死にたい……」


その言葉を口にした瞬間。


「その願い、叶えてやろう」


魔王が一瞬でアナを肉塊へと変えた。


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