23
アナは、幸せな夢を見ていた。
夢の中の彼女は、ずっと昔から愛されていた。
母は優しかった。
朝になれば「おはよう」と笑ってくれて、髪を撫でてくれた。寒い夜には毛布を掛けてくれて、熱を出せば一晩中そばにいてくれた。
貧しい暮らしだったけれど、それでも母と二人で笑って暮らせていた。
だから、アナは知らなかった。
自分が母親に殴られたことも。
食事を与えられず、母の嬌声を聞きながら育ったことも。
母の恋人が自分を穢したにも関わらず、その現場を見た母から、子供なのになんて淫乱なのかと怒鳴られ捨てられたことも。
それらはすべて、最初から存在しなかったことになっていた。
夢の中のアナには、愛されて育った記憶しかなかった。
そして、そんな彼女の隣には――いつもレオンがいた。
「アナ」
振り返れば、そこに彼がいる。
輝く金髪。優しい青い瞳。
魔王を討ち果たした勇者。
そして隣国の第三王子。
レオンは魔王討伐の功績を認められ、公爵位を授けられていた。
「レオン」
「どうした?」
「……ううん。呼んでみただけ」
「そうか」
レオンは笑った。
その笑顔を見るだけで、胸がいっぱいになる。
アナは、レオンの妻だった。
二人は大きな屋敷で暮らしていた。
公爵夫人となったアナには、たくさんの侍女がつき、毎日のように舞踏会や茶会への招待状が届いた。
けれど、そんなものよりもアナにとって大切なものがある。
「お母様、今日も来てくださったのね」
「ええ。レオン様が呼んでくださったから」
「良かった……」
母は、穏やかに笑っている。
アナが大好きだった母。
自分を産んでくれた、世界でたった一人の人。
その母を、レオンは公爵邸へ呼び寄せてくれた。
「アナが大切にしている人なら、僕にとっても大切な人だから」
そう言って。
母にも惜しみない愛情を与えてくれた。
三人で食卓を囲む。
母が笑う。
レオンが笑う。
アナも笑う。
――なんて幸せなのだろう。
これが自分の本当の人生だったのだ。
アナはそう信じていた。
「アナ」
「なあに?」
「愛しているよ」
「……私も」
頬を赤くしながら答えると、レオンが優しく笑う。
そのまま抱きしめられる。
温かい。
幸せ。
ずっと、こうしていたい。
この幸せが永遠に続けばいい。
そう思った、その瞬間だった。
――ドンッ。
何かが壊れる音がした。
「……え?」
景色が揺らぐ。
レオンの姿が霞む。
母の笑顔が消える。
屋敷も、庭も、豪華な食卓も。
すべてが黒く塗り潰されていく。
「待って……」
手を伸ばす。
けれど、レオンの手は届かない。
「レオン……!」
その瞬間、世界が反転した。
「――起きろ!」
怒鳴り声。
頬に走る激痛。
幼いアナは床に転がっていた。
「何度言ったら分かるんだ、この役立たず!」
母親が怒鳴っている。
酒の臭いがした。
アナは震えながら母を見上げた。
「ご、ごめんなさい……」
「謝れば済むと思ってるのか!」
また殴られる。
痛い。怖い。寒い。
お腹が空いている。
でも、泣いてはいけない。
泣けばもっと殴られる。
だから、ただ小さく身体を丸めて耐える。
――そうだった。
これが、本当の自分だった。
愛されてなんていなかった。
母親は自分を愛してなどいなかった。
やがて母は、母の恋人に性的虐待をされていた被害者でしかないアナを捨てた。
一人になったアナは、生きるために盗みを働いた。
食べ物を盗み、服を盗み、時には財布を盗んだ。
捕まれば殴られた。
逃げれば追われた。
それでも、生きるしかなかった。
そして、ある日。
行き場を失ったアナは、高級娼館へ辿り着く。
そこで初めて、自分の身体に値段が付いていることを知った。
笑わなければならなかった。
客の前では、嫌でも笑わなければならなかった。
どれほど心が壊れても。
どれほど吐き気がしても。
泣くことは許されなかった。
そんな生活の中で、アナを救ったのが前侯爵だった。
侯爵はアナを身請けした。
そして妻にした。
豪華な屋敷。
美しいドレス。
食べ物に困らない生活。
何不自由ない暮らし。
けれど、アナの心にはずっと消えないものがあった。
――私は穢れている。
そう思っていた。
そして、魔王討伐の旅に出た。
そこで出会ったのが、レオンだった。
彼は優しかった。
身分など関係なくアナに接してくれた。
アナが盗みの技術を使えば、「すごいな」と笑ってくれた。
夜、眠れずに一人でいると、隣に座ってくれた。
危険な場所では、必ずアナを守ってくれた。
だから。
アナは、レオンを好きになった。
けれど、その想いを口にすることはできなかった。
自分には、そんな資格がないと思っていたから。
そして今。
夢の中でだけ、アナはレオンと結ばれていた。
愛されて育った、綺麗な自分として。
母親から愛され、身体を売ることもなく。前侯爵に身請けされることもなく、何の罪もない少女として、レオンの隣に立っていた。
――でも。
それは偽物だった。
本当の自分は、虐待され、捨てられ、盗みを働き、娼婦として生き、そして、誰かに買われた女。
そんな自分が、あんなに優しいレオンと結ばれるなんて許されるはずがない。
「……嫌」
アナは自分の身体を抱きしめた。
「私なんか……」
涙が溢れる。
「私なんかが、レオンの隣にいていいはずがない……」
夢の中の幸せな光景が、次々と蘇る。
レオンの笑顔。
母の笑顔。
温かな食卓。
優しい声。
愛される幸せ。
それらすべてが、アナには眩しすぎた。
「……もう、嫌」
胸が痛い。
息が苦しい。
夢なんて見たくなかった。
幸せなんて知らなければよかった。
知らなければ、こんなにも苦しくなかった。
「レオン……」
名前を呼ぶ。
けれど、返事はない。
「ごめんなさい……」
涙が頬を伝う。
「私、あなたの隣にいる資格なんてない」
指先が震える。
「だから……」
声が途切れた。
「もう、死にたい……」
その言葉を口にした瞬間。
「その願い、叶えてやろう」
魔王が一瞬でアナを肉塊へと変えた。




