表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/31

21

魔王城の最深部には、静寂があった。

いや、静寂という言葉すら、生温い。何千年もの間、魔族の王が棲みついたその場所には、音そのものが死んでいた。


床に広がる黒い血溜まり。


砕けた魔法杖。


焼け焦げた鎧。


そして、その中央に。


人間だったものが、ひとつだけ転がっていた。


「……リュシー……」


アナが、震える声でその名を呼んだ。


返事はない。当然だった。


かつて、グラシア魔法学院を首席で卒業した天才魔法使い。美しいアイスブロンドと真っ赤な瞳を持ち、王国でも五本の指に入る魔力を誇った少女。


その姿は、もはや人間のものではなかった。


四肢は焼き切られ、顔の半分はブレイドドラゴンの炎によって焼けただれ、そして側頭部には、本来ならば存在するはずの頭蓋骨すら残っていなかった。



 ただ、鉄の隙間から覗く唯一の瞳だけが、虚ろに魔王を見つめていた。


――もう、いい。


そう思った。


もう魔王を倒すどころか、まともに生きることすらできない。


だから、せめて死なせてほしかった。


「殺して……」


かすかな声が漏れた。


魔王が笑った。


その指が、リュシーの額に触れる。



「お前らに絶望を与えてやろう」


瞬間。


世界が白く染まった。





「リュシー」


優しい声だった。


「リュシー、起きて」


瞼を開ける。そこにあったのは、青空だった。


暖かな陽射し。


風に揺れる花。


そして――自分の手。


「……え?」


リュシーは自分の手を見つめた。


白く、細い。そして傷ひとつない。


恐る恐る顔に触れる。


焼けていない。皮膚がある。髪もある。指もある。脚もある。


「……私……」


「どうしたの?」


振り返る。


そこに、彼がいた。


セルジュ。


隣国の第二王子。


そして、もうすぐ正式に婚約するはずだった人。


「セルジュ……様?」


「様、なんて付けなくていいだろう?」


彼は笑った。リュシーが何度も夢見た笑顔だった。


「もう夫婦になるんだから」


「……夫婦?」


「そうだよ」


セルジュは手を差し出した。


「僕たち、結婚したんだ」


リュシーは震える手を重ねた。


温かかった。


その瞬間、胸の奥に忘れていた何かが溢れた。


「……本当に?」


「ああ」


「私が……?」


「君が」


「セルジュ様が……私を?」


「愛しているよ」


その言葉だけで、リュシーの目から涙がこぼれた。


生きていてよかった。そう思った。


あの日、魔王城で死ねばよかったと思った自分が嘘のようだった。


幸せだった。


夢の中のリュシーは、何も失っていなかった。


朝になればセルジュが起こしてくれる。


「おはよう、リュシー」


「おはようございます、セルジュ」


二人で朝食を食べる。


仕事から帰れば、セルジュが笑って言う。


「ただいま」


「おかえりなさい」


休日には二人で街へ出かけた。


小さな喫茶店で紅茶を飲み、くだらない話をして笑った。


時には喧嘩もした。けれど最後には、必ず仲直りした。


夜。


寝台の中で、セルジュがリュシーの髪を撫でる。


「幸せだね」


「はい」


「ずっとこうしていよう」


「はい……」


リュシーは彼の胸に顔を埋める。


温かい。


幸せ。


夢だと気づくことすらできないほど、完璧な幸福だった。


だから、ある朝。


何かがおかしいことに気づいた時、リュシーはそれを受け入れられなかった。


「……セルジュ?」


彼がこちらを見ていた。


笑っていない。


「何?」


「どうして……そんな顔をするの?」


「別に」


セルジュは視線を逸らした。


その日から、少しずつ彼は変わっていった。


会話が減った。


触れてくれなくなった。


一緒に食事をしなくなった。


そしてある夜。


リュシーは聞いてしまった。


「……僕は、もう君と一緒にいるのが嫌なんだ」


「え?」


心臓が止まったようだった。


「どうして……?」


「分からないの?」


セルジュが振り返る。

その目には、嫌悪があった。


「君を見ていると、吐き気がする」


「……え?」


「醜いんだよ」


リュシーは凍りついた。


「そんな……」


「どうして僕が、君なんかと結婚したと思う?」


「だって……愛しているって……」


「あんなの嘘だ」


世界が崩れた。


「君の顔を見るだけで嫌になる」


「……やめて」


「君みたいな醜い女を、妻として隣に置きたくない」


「やめて……」


「君なんか、死んでしまえばいい」


リュシーは震えた。


何かがおかしい。


さっきまで幸せだったのに。


どうして。


どうしてこんなことになったの。


「……私……」


涙が頬を伝う。


「私、頑張ったのに……」


セルジュは何も言わない。


「魔王を倒すために……頑張ったのに……」


自分でも意味の分からない言葉だった。


それでも止まらなかった。


「あなたと一緒にいたくて……」


胸が痛い。


「あなたに、愛してほしくて……」


そして、最後の言葉が、口から零れた。


「……もう、死にたい」


 その瞬間。


 セルジュの顔が崩れた。


「――そうか」


 声が変わった。


 低く、濁った声。


「ならば、死ね」


 世界が赤く染まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ