21
魔王城の最深部には、静寂があった。
いや、静寂という言葉すら、生温い。何千年もの間、魔族の王が棲みついたその場所には、音そのものが死んでいた。
床に広がる黒い血溜まり。
砕けた魔法杖。
焼け焦げた鎧。
そして、その中央に。
人間だったものが、ひとつだけ転がっていた。
「……リュシー……」
アナが、震える声でその名を呼んだ。
返事はない。当然だった。
かつて、グラシア魔法学院を首席で卒業した天才魔法使い。美しいアイスブロンドと真っ赤な瞳を持ち、王国でも五本の指に入る魔力を誇った少女。
その姿は、もはや人間のものではなかった。
四肢は焼き切られ、顔の半分はブレイドドラゴンの炎によって焼けただれ、そして側頭部には、本来ならば存在するはずの頭蓋骨すら残っていなかった。
ただ、鉄の隙間から覗く唯一の瞳だけが、虚ろに魔王を見つめていた。
――もう、いい。
そう思った。
もう魔王を倒すどころか、まともに生きることすらできない。
だから、せめて死なせてほしかった。
「殺して……」
かすかな声が漏れた。
魔王が笑った。
その指が、リュシーの額に触れる。
「お前らに絶望を与えてやろう」
瞬間。
世界が白く染まった。
◆
「リュシー」
優しい声だった。
「リュシー、起きて」
瞼を開ける。そこにあったのは、青空だった。
暖かな陽射し。
風に揺れる花。
そして――自分の手。
「……え?」
リュシーは自分の手を見つめた。
白く、細い。そして傷ひとつない。
恐る恐る顔に触れる。
焼けていない。皮膚がある。髪もある。指もある。脚もある。
「……私……」
「どうしたの?」
振り返る。
そこに、彼がいた。
セルジュ。
隣国の第二王子。
そして、もうすぐ正式に婚約するはずだった人。
「セルジュ……様?」
「様、なんて付けなくていいだろう?」
彼は笑った。リュシーが何度も夢見た笑顔だった。
「もう夫婦になるんだから」
「……夫婦?」
「そうだよ」
セルジュは手を差し出した。
「僕たち、結婚したんだ」
リュシーは震える手を重ねた。
温かかった。
その瞬間、胸の奥に忘れていた何かが溢れた。
「……本当に?」
「ああ」
「私が……?」
「君が」
「セルジュ様が……私を?」
「愛しているよ」
その言葉だけで、リュシーの目から涙がこぼれた。
生きていてよかった。そう思った。
あの日、魔王城で死ねばよかったと思った自分が嘘のようだった。
幸せだった。
夢の中のリュシーは、何も失っていなかった。
朝になればセルジュが起こしてくれる。
「おはよう、リュシー」
「おはようございます、セルジュ」
二人で朝食を食べる。
仕事から帰れば、セルジュが笑って言う。
「ただいま」
「おかえりなさい」
休日には二人で街へ出かけた。
小さな喫茶店で紅茶を飲み、くだらない話をして笑った。
時には喧嘩もした。けれど最後には、必ず仲直りした。
夜。
寝台の中で、セルジュがリュシーの髪を撫でる。
「幸せだね」
「はい」
「ずっとこうしていよう」
「はい……」
リュシーは彼の胸に顔を埋める。
温かい。
幸せ。
夢だと気づくことすらできないほど、完璧な幸福だった。
だから、ある朝。
何かがおかしいことに気づいた時、リュシーはそれを受け入れられなかった。
「……セルジュ?」
彼がこちらを見ていた。
笑っていない。
「何?」
「どうして……そんな顔をするの?」
「別に」
セルジュは視線を逸らした。
その日から、少しずつ彼は変わっていった。
会話が減った。
触れてくれなくなった。
一緒に食事をしなくなった。
そしてある夜。
リュシーは聞いてしまった。
「……僕は、もう君と一緒にいるのが嫌なんだ」
「え?」
心臓が止まったようだった。
「どうして……?」
「分からないの?」
セルジュが振り返る。
その目には、嫌悪があった。
「君を見ていると、吐き気がする」
「……え?」
「醜いんだよ」
リュシーは凍りついた。
「そんな……」
「どうして僕が、君なんかと結婚したと思う?」
「だって……愛しているって……」
「あんなの嘘だ」
世界が崩れた。
「君の顔を見るだけで嫌になる」
「……やめて」
「君みたいな醜い女を、妻として隣に置きたくない」
「やめて……」
「君なんか、死んでしまえばいい」
リュシーは震えた。
何かがおかしい。
さっきまで幸せだったのに。
どうして。
どうしてこんなことになったの。
「……私……」
涙が頬を伝う。
「私、頑張ったのに……」
セルジュは何も言わない。
「魔王を倒すために……頑張ったのに……」
自分でも意味の分からない言葉だった。
それでも止まらなかった。
「あなたと一緒にいたくて……」
胸が痛い。
「あなたに、愛してほしくて……」
そして、最後の言葉が、口から零れた。
「……もう、死にたい」
その瞬間。
セルジュの顔が崩れた。
「――そうか」
声が変わった。
低く、濁った声。
「ならば、死ね」
世界が赤く染まった。




