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20

戦士は、リュシーを抱き抱えていた。


「……もう少しだ」


何度目になるか分からない言葉を呟きながら、戦士は重い足を引きずる。


リュシーは意識を失っていた。


両手足を失い、顔の半分まで焼け落ちた彼女の身体は、あまりにも軽かった。


それが、戦士には恐ろしかった。


人間の身体から四肢が失われれば、それだけ重量も減る。


頭では分かっている。


けれど、腕の中のリュシーがあまりにも軽いせいで、まるで命そのものが少しずつ抜け落ちているように感じられた。


「……死ぬなよ、リュシー」


返事はない。


レオンは前を歩いていた。


その隣にはアナ。


少し後ろには、虚ろな目をしたディア。


五人の中で、まともに歩ける者はもうほとんど残っていなかった。


それでも、魔王城は目の前だった。


長かった旅の終着点。


幾多の犠牲を払い、ようやく辿り着いた場所。


巨大な城門を抜けたとき、レオンは聖剣を握り直した。


「……来るぞ」


しかし、何も起こらなかった。


「……?」


レオンは眉をひそめる。


魔王城の内部には、確かに魔物がいた。


廊下の奥。


階段の影。


柱の陰。


こちらを覗いている。


だが、誰一人として襲ってこない。


それどころか、魔物たちは勇者一行の姿を見た瞬間、怯えたように道を開けていく。


中には逃げ出すものまでいた。


「……何?」


アナが周囲を見回す。


戦士も困惑した表情を浮かべた。


「罠、じゃねぇのか?」


「分からない」


レオンは剣を構えたまま、ゆっくり進んでいく。


それでも襲撃はない。


誰も止めない。


まるで。


――ここまで来ることを許されているかのようだった。


やがて一行は、玉座の間へ辿り着いた。


巨大な扉が開く。


その先。


玉座に、一人の男が座っていた。


黒い角。


漆黒の髪。


人間とは思えないほど整った顔立ち。


そして、深い疲労を滲ませた瞳。


「お前達が……人間側の勇者か」


レオンは即座に聖剣を抜いた。


「魔王……!」


だが、魔王は攻撃してこなかった。


むしろ、疲れきったように笑った。


「そうか」


そして、小さく息を吐く。


「やはり、人間はお前たちに何も教えなかったのだな」


「……何?」


レオンが眉をひそめる。


そのとき、戦士に抱えられていたリュシーが、僅かに目を開いた。


「……待って」


「リュシー?」


「何か……おかしい」


ぼんやりと天井を見上げながら、リュシーは記憶を辿った。


魔王城へ近づくにつれて、魔物との戦闘は減っていった。


最初は、単純に魔王城の守りが薄いのだと思っていた。


だが。


違う。


知能の低い魔物は、こちらを見ると襲いかかってきた。


しかし。


言葉を理解できるほどの知能を持った魔物たちは、違った。


逃げた。


こちらを見て怯え、戦うことを避けた。


そして――。


ディアを攫った魔物たち。


彼らもそうだった。


もし本当に人間を殺すことが目的だったなら、ディアを殺すことなど簡単だったはずだ。


だが、彼らは殺さなかった。


強力な麻薬を与え


戦闘能力を奪い


ただ、生きたまま無力化していた。


「……私たちは……」


リュシーの顔から血の気が引いていく。


「魔王城に近づいてから……罠にかかった魔物を……食べていた」


レオンの表情が凍った。


「……あれが?」


「魔物たちは……私たちを襲わなかった」


アナも気づいた。


「じゃあ……」


誰も、その先を口にしたくなかった。


「私たちは……」


戦士が呟く。


「何もしてない奴らを……」


「食べた」


リュシーが答えた。


玉座に座る魔王は、静かに彼らを見ていた。


「気がついたか」


その声に、責めるような響きはなかった。


だからこそ。


四人の胸に、より深く突き刺さった。


「はい……」


リュシーが震える声で答える。


「私たちは……なんということを……」


魔王は目を伏せた。


「魔王も、勇者も、神託も」


静かな声だった。


「全ては神々の盤上遊びに過ぎない」


「……盤上遊び?」


「我が死ねば、また次の魔王が生まれる。そして新たな勇者が生まれる」


魔王は自嘲するように笑った。


「魔王と勇者。


どちらが勝つか。


ただ、それだけを楽しむ遊びだ」


レオンは剣を握ったまま、何も言えなかった。


「だからこそ、我は我が眷属たちに命じていた」


魔王の声が低くなる。


「人間を殺すな、と」


「……!」


「我々は、このくだらぬ遊戯に付き合わされているだけだ」


魔王の瞳が、四人を射抜く。


「だがな」


その声から、初めて怒気が滲んだ。


「お前たちは違う」


玉座の間の空気が変わる。


「なんの害も成していない魔物を殺した」


「……」


「それも、一匹や二匹ではない」


魔王が立ち上がった。


「生きたままの肉を食らったな?」


レオンの顔が青ざめる。


「それを――」


魔王の魔力が膨れ上がる。


「我が王として、黙って見過ごすわけにはいかぬ」


リュシーが叫んだ。


「防御魔法を――!」


咄嗟に魔法陣を展開する。


仲間を包み込むように、防御壁を作る。


だが。


四肢を失った身体では、これまでのように魔法を扱うことはできない。


それでも必死だった。


レオン。


アナ。


戦士。


ディア。


全員を守らなければ。


防御壁が完成する。


しかし――。


「……っ!」


自分の周囲だけが間に合わなかった。


凄まじい衝撃。


リュシーの頭部を魔力の奔流が直撃した。


「リュシー!」


レオンが叫ぶ。


リュシーの身体が大きく痙攣した。


「ポーションだ!」


戦士は急いでポーションを取り出し、リュシーの口元へ流し込む。


だが。


「……効きが……悪い」


ここまで来るまで、リュシーは大量のポーションを飲み続けていた。


四肢を失ったことによる幻肢痛。


その激痛に耐えるために。


身体はもう、ポーションに慣れすぎていた。


「痛い……!」


リュシーが呻く。


「痛い、痛い……!」


身体を失っているはずなのに、存在しない手足まで燃えるように痛む。


地面の上で、リュシーは苦痛に身をよじった。


魔王はそれを見下ろしていた。


そして。


静かに告げる。


「お前たちに絶望を与えてやろう」


魔王の瞳が紫色に輝いた。


次の瞬間、世界が歪んだ。


「――っ!」


レオンが聖剣を振るう。


だが、何も斬れない。


足元が消える。


天井が消える。


仲間の姿も消える。


「アナ!」


手を伸ばす。


しかし、その指先は何も掴めなかった。


「レオン!」


アナの声も遠ざかっていく。


五人の意識は、深い闇へと沈んでいった。



戦士が目を開ける。


そこには、見慣れた宿屋の一室があった。


窓の外は夜。


静かな月明かりが部屋を照らしている。


「おかえりなさい」


振り返る。


そこにはディアがいた。


笑っている。


「今日も一日、お疲れ様!」


「……ディア?」


戦士は呆然と彼女を見つめた。


「どうしたの?」


「いや……」


胸が熱くなる。


何故だろう。


何か、とても大切なものを失っていた気がする。


けれど、今目の前にディアがいる。


それだけでよかった。


二人は結婚していた。


王都の片隅で小さな宿屋を営み、毎日を穏やかに過ごしている。


戦士は笑った。


「ディアも疲れただろ。今日は早く寝よう」


「え……?」


ディアが頬を赤らめる。


そして、戦士の首へ両腕を回した。


「早く寝ちゃうの……?」


上目遣いで見つめてくる。


戦士の顔が赤くなる。


「……いや、その……」


幸せだった。


あまりにも幸せだった。


これが自分の望んでいた人生。


誰かに愛される人生。


誰かを愛する人生。


そう思った。


その瞬間。


世界が変わった。


壁が消えた。


床が消えた。


光が消える。


「……え?」


戦士の足元から、全てが黒く染まっていく。


気がつけば、そこは完全な暗闇だった。


何もない。


誰もいない。


ただ一人。


ディアだけが、そこに立っていた。


だが。


先ほどまでの笑顔は消えていた。


冷たい目。


蔑むような表情。


「……ディア?」


彼女は答えない。


やがて。


ゆっくりと口を開いた。


「私がお前みたいな穢れた男を好きになるわけないでしょ?」


「……え?」


声の温度が、一段下がった。


「一体、何人の男に抱かれたのかしら?」


「やめろ……」


「物好きなマダムに飼われていた間に、何をされていたのか」


ディアが笑う。


「自分の胸に手を当てて考えてみたら?」


「違う……」


「私が、あなたなんかを好きになると思う?」


「違う!」


戦士は叫んだ。


けれど。


ディアは止まらない。


「あなたは穢れている」


その一言が、胸に突き刺さった。


「誰からも愛されることなんてない」


「……やめてくれ」


「私だって、あなたなんか――」


「やめろ!」


幸せだったはずの世界が砕けていく。


戦士は理解していた。


夢だった。


最初から。


自分が欲しかったものを見せられていただけだった。


愛される未来。


ディアと結ばれる未来。


小さな宿屋で、二人で穏やかに暮らす未来。


それが、自分には決して手に入らないものだと。


「俺は……」


膝をつく。


「穢れてる……」


これまで、どうにか耐えてきた。


ポーションの副作用。


終わりの見えない旅。


仲間たちの変貌。


理不尽な扱い。


それでも、いつか、誰かに愛してもらえるかもしれない。


そう思っていた。


その最後の希望まで、今、砕かれた。


「もう……生きていても仕方ないんだ」


戦士は暗闇の中で呟いた。


「俺は一生、穢れた身として……誰にも愛されずに生きるんだ」


涙が頬を伝う。


「だったら……」


戦士は目を閉じた。


「もう、このまま死んでしまいたい……」


暗闇の奥から。


声がした。


「その願い」


低く、静かな声。


「叶えてやろう」


次の瞬間、世界そのものが歪んだ。


戦士の身体が、一瞬で闇に呑み込まれる。


抵抗する暇すらなかった。


叫び声すら、残らなかった。


そこに残されたのは。


ほんの一瞬前まで人間だったものの残骸だけ。


魔王の力は。


あまりにも圧倒的だった。


勇者一行がこれまで戦ってきたどんな魔物とも、比較にすらならない。


これが――魔王。


これが、人間たちが恐れ続けてきた存在。


そして。


戦士は知らない。


今の自分が見た絶望が、魔王の幻惑によって作られたものなのか。


それとも。


心の奥底に本当に存在していた、最も恐ろしい願いだったのか。


ただ一つ確かなことは。


彼の夢は、永遠に終わったということだけだった。

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