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それからのディアの行動は早かった。


聖女という肩書きは、この旅において何より強い影響力を持っていた。


「アナさんは……勇者様を誘惑して、旅の秩序を乱しているのです」


神殿を訪れるたび、ディアは悲しげにそう告げた。


「私が何を言っても辞めてもらえなくて……勇者様も困っているんです」


涙を浮かべる聖女の言葉を疑う者はほとんどいない。


ましてアナには元娼婦という経歴がある。


「あの女ならやりかねない」


噂は一気に広がった。


最初は小さな火種だったものが、町を越えるたびに確信へと変わっていく。


やがて旅そのものが、目に見えて歪み始めた。


「申し訳ありませんが、女性一名分の部屋はありません」


宿屋の主人はそう言い、アナだけを追い返した。


「でも、まだ空き部屋が――」


「ありません」


視線は合わない。そこにあるのは嫌悪というより、“聖女の言葉が正しいという前提”だった。


結局アナは、町外れの物置小屋を借りるしかなかった。


夜、遠くの灯りはやけに眩しく見えた。


その光の中に、自分の居場所はどこにもなかった。


翌朝、町へ戻れば子供たちに石を投げられた。


「淫売!」


「勇者様を誘惑したんだろ!」


「汚い女!」


小石が肩に当たり、頬を掠める。


それでもアナは怒らない。


ただ、いつものように微笑んだ。


「……当然よね」


その言葉を聞いたレオンは胸を痛めた。


同時に、その“当然”という響きが現実味を帯びていく。


(本当に、そうなのか……?)


アナの笑顔は優しいのに、どこか遠い。


最初から誰にも触れさせない場所にいるようだった。


「アナ……」


「何?」


「本当に、何も言い返さないのか?」


「何を言えばいいの?」


アナは困ったように笑う。


「私は元娼婦よ。今は夫もいるのに、あなたに近づいた。嫌われて当然でしょう?」


「そんな……」


否定しようとして、レオンは言葉を失う。


否定すればするほど、自分の中の疑いが形になる気がした。


「大丈夫よ、レオン」


アナは微笑む。


「慣れてるから」


その笑顔が、レオンには痛かった。


アナは何も否定しない。


だからこそ疑いは静かに育っていく。


もしかすると本当に、彼女は自分を誘惑していたのではないか。


優しささえも、繋ぎ止めるためのものだったのではないか。


その思考は夜ごとに濃くなった。


同時にレオンは、“誰に見られているか”を意識し始める。


ディアの視線は常に自分へ向いている。


だがその視線の中には、レオン自身への関心と同じくらい、「自分がどう見られているか」への意識が混ざっていた。


一方でアナの視線は、いつもどこか遠くへ逸れている。


その差が、妙に残酷だった。


ディアは当然のようにレオンの隣に立つようになった。


夜は同じ天幕、朝は並んで出てくる。


誰も止めない。止める理由もなかった。


「……一体、どちらが秩序を乱しているのやら」


リュシーは小さく呟くが、その声は届かない。


そして戦士だけが、明確に“外側”へ追いやられていった。


会話は減り、視線は交わらず、役割だけが残る。


守るために必要とされているのに、人としては見られていない。


夜の見張りでも、誰も戦士に話しかけない。


「そこにいる」ことだけが前提で、存在そのものは意識されていなかった。


(俺は……ここにいるのに)


その孤立は静かに沈殿していく。


そしてある夜、見張りはレオンとディアだった。


だがディアの意識は、ほとんどレオンに向いていた。


火の揺らめきに照らされながら、彼の横顔を見ている時間の方が長い。


その思考の中で、周囲の森は“背景”に変わっていた。


風の音も、草の揺れも、危険の兆しも、意識の外側へ押し出されていく。


レオンが何かを言えば、それに返す。


その繰り返しの中で、ディアの注意は完全に“二人の空間”へ閉じていた。


魔物の気配に気付いた時には、すでに群れは目前だった。


「――奇襲だ!!」


レオンの叫びで全員が飛び起きる。


「魔物!?」


「数は!?」


「多い!」


混乱の中、ディアは一瞬遅れて周囲を見た。


その“遅れ”は恐怖というより、現実への切り替えの遅さだった。


(え……? いつの間に……)


視界に入ったのは、すぐそこまで迫る影。


その瞬間、身体が固まる。


「ディア!」


戦士が飛び込む。


爪が振り下ろされる。


戦士はディアを突き飛ばし、代わりに攻撃を受けた。


鈍い音。


「――ぐっ……!」


吹き飛び、地面を転がる。


腕は裂け、腹から血が溢れる。


顔の半分も損傷し、立つことすら困難だった。


それでも戦士は立つ。


剣を握る。


「……まだ、終わってねぇ」


それは誰に向けた言葉でもない。


ただ、自分がここにいる証明だった。


踏み込み、斬る。


一撃、二撃、そして最後の一閃。


魔物は崩れ落ちた。


静寂。


戦士も膝をつく。


「……はぁ……はぁ……」


それでも笑った。


「ディア……怪我はないか?」


その声は、確かにディアへ向けられていた。


だがディアの視線は、すでに別の方向へ動いていた。


「レオン!」


彼女の足は、迷いなくレオンへ向かう。


その動きには一切の躊躇がない。


まるで“確認すべき優先順位”が最初から決まっているかのように。


「レオン、大丈夫!?」


無傷のレオンの身体を必死に確かめる。


「どこも怪我してない!?」


「俺は大丈夫だ。それより――」


レオンが振り返る。


その視線の先に、ようやく“異常”が映る。


そこにいたのは血まみれの戦士だった。


「……戦士!」


ようやく気付く。


だがその“気付き”は遅れて接続された情報のように、感情を伴っていなかった。


ディアの表情は“心配”ではなく“理解の遅れ”だった。


(え……戦士……? いつの間に……そんな……)


目の前の現実を処理しきれず、視線が泳ぐ。


どこから見ればいいのか分からない。


何を優先していいのか分からない。


その結果として、最も強く意識を引く存在――レオンへと視線が戻ってしまう。


戦士はそれを見ていた。


血も痛みも、遠くなる。


「……そっか」


小さく呟く。


「俺は……ただの盾なんだ」


守る。傷つく。壊れる。


それでもいいと思っていた。


それだけで価値があると信じていた。


だが違った。


ディアの視線は、自分の“結果”ではなく、レオンの“無事”にしか向いていない。


自分がどれほど命を削っても、その優先順位は一度も揺らがない。


(俺は……最初から見られてすらいなかったのか)


その確信だけが残る。


「……はは」


乾いた笑い。


「馬鹿みたいだな」


その夜、戦士は眠れなかった。


痛みよりも、認識の方が深く刺さっていた。


一方アナは焚き火を見つめていた。


「……馬鹿ね」


誰に向けた言葉か分からない。


戦士か、レオンか、自分か。


火の音だけが響く。


アナはかつて、自分には価値がないと思っていた。


売られ、使われ、捨てられることに慣れていた。


だからレオンのためなら命も惜しくなかった。


それは恋ではないと思っていた。


だが最近、レオンがディアと笑うたび胸が痛む。


「……これが、恋なのかしら」


すぐに首を振る。


「馬鹿ね。私なんかが……」


夫がいる。元娼婦だ。汚れている。


そんな自分が望んではいけない。


「……諦めなきゃ」


その時、背後に気配。


振り返ると戦士が立っていた。


「眠れないの?」


「ああ」


隣に座る。


沈黙。


「……なあ、アナ」


「何?」


「俺たち、似てるな」


「どうして?」


「大切な奴にとって、一番じゃない」


アナは答えない。


戦士も続けない。


ただ焚き火の向こうを見ている。


そこにはもう、消えた天幕の残光だけがあった。


「……私ね」


アナが言う。


「レオンが誰かと笑ってると、少し嫌なの」


戦士は黙って聞く。


「でも、それでいいのよ」


「……どうして?」


「私には資格がないから」


その言葉は焚き火より冷たい。


戦士は拳を握る。


「……俺は、そうは思わない」


「アナがどう思ってても、俺は違う」


「……ありがとう」


だがその笑顔は、拒絶に近かった。


戦士はそれ以上言えない。


言えば壊れると分かっていた。


守りたい。


だがそれは同時に、自分の居場所を削ることでもあった。


「……俺は、盾でいい」


その言葉は祈りではなく、諦めだった。

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