第9話 決死の脱出と祖父の覚悟
「ふん。それでいい」
鉄心は意外にもあっさり頷いた。
「目立つな。俺たちは影でいい」
その言葉には、どこか重く湿った響きがあった。ただの説教ではなく、何か恐ろしい過去の亡霊を警戒しているかのような。
「じいさん……?」
「何でもない。作業を続けろ」
煌は首を傾げながらも、手を動かし続けた。
*
取材陣がようやく諦めて引き上げた後、煌はテンを肩に乗せ、店の裏手にある非常階段からトタン屋根の上に登った。
錆びたトタン屋根の上。ここは昔から煌の秘密の特等席だ。
ここからは下町の商店街を一望できる。古びた瓦屋根がどこまでも連なり、風になびく洗濯物、八百屋の色褪せた看板、閉まったままの金物屋のシャッター、そして電線に羽を休める雀型の観測ドローン。
その遥か向こうには、スマートシティの白い高層ビル群が屹立していた。ガラスと流線型チタンのタワーが午後の強い陽光を反射し、まるで別世界のように眩しく輝いている。AI配送ドローンの編隊が、寸分の狂いもなくビルの合間を飛んでいく。
あちら側には光り輝く未来がある。
だが、こちら側には取り残された時間が静かに漂っていた。
テンが煌の膝の上に丸くなり、前足で顔を撫でるように丁寧な毛づくろいを始める。ふさふさの尾がゆらゆらと揺れた。
煌はぼんやりとその背中を撫でた。柔らかく温かい人工毛皮の下で、小さな駆動部がトクトクと規則正しいビートを刻んでいる。テンの心臓の音だ。
「なあ、テン」
テンが毛づくろいを止め、くりくりとした琥珀色の瞳を見上げた。
「俺たちのこの生活、いつまで続くのかな」
テンが小さく首を傾げる。大きな瞳に、どこまでも澄んだ青空が映り込んでいた。
「……わかんねえよな。お前に言っても」
初夏の風が心地よく吹き抜ける。どこかで風鈴がチリンと涼やかな音を立てた。
穏やかな午後。煌はこの町が好きだった。油臭い作業場も、この日当たりのいい屋根も、じいさんの作るご飯も、テンが膝の上にいるこの時間も。
だが、胸の奥には小さな影が落ちていた。
じいさんの言った「目立つな」という重い一言が、どうしても心に引っかかっている。
「ピィ……」
テンが煌の指先に冷たい鼻先を押し当ててきた。心配してくれているのだ。
「ん。大丈夫だ」
煌は立ち上がり、テンを肩へ戻した。
「さ、午後の仕事に取りかかるか」
屋根を降りる煌の背中に、スマートシティのビル群が冷たい光を投げかけていた。
*
その日の夕方、予期せぬ来客があった。
煌が作業場で灰猫のパーツを磨いていると、表通りから聞き慣れない靴音が近づいてきた。
硬質な革靴の足音。サンダルやスニーカーが主流の下町商店街では、滅多に聞かない音だ。
テンがピクッと耳を立て、瞳をわずかに鋭くさせた。強い警戒のサインだ。
シャッターの開口部から現れたのは、仕立ての良い高級スーツを着た二人組の男だった。
男たちの背後には、漆黒の自動運転セダンが静かに横付けされている。車体側面には、うっすらとゴールドのエンブレムが刻まれていた。日本最大の軍需企業——「ミカド重工」のマークだ。
「突然の訪問をお許しください。大企業『ミカド重工』スカウト部の者です」
先頭の男が慇懃無礼な態度で金箔押しの名刺を差し出してきた。
「用件だけ言ってくれ」
煌は工具を握ったまま、手を止めずに言い放つ。
「単刀直入に申し上げます。藤堂煌さん、あなたを我が社の特別技術顧問としてスカウトしたい」
煌の手がピタリと止まった。
「スカウト……?」
「ええ。条件は破格のものをご用意しています。契約金だけでも提示いたしましょう」
男が手元のタブレットに表示させた数値を一瞬見せた。ゼロが幾つも並んでいる。煌が一生かかっても稼げないような、途からもない金額だった。
「最新の研究施設、潤沢な開発予算、最高級の資材をすべて提供します。あなたの才能を、日の目を見る場所で正当に評価したいのです」
テンが煌の服の中で全身のフレームを硬直させた。
「……で、俺に何を作らせたいわけ?」
「次世代軍事用メカノイドの自律駆動アルゴリズムと、フレーム構造の最適化です。あなたの技術があれば、我が国の防衛力は劇的に——」
「軍事用」
その言葉を聞いた瞬間、煌の胸の中で温かいものが一気に冷えていくのが分かった。
脳裏に祖父の顔が浮かぶ。
かつて「鋼鉄の老匠」とまで謳われながら、なぜすべてを捨ててこの寂れた下町に身を潜めたのか。じいさんが「軍事」や「戦争」という言葉を極度に忌み嫌っている理由は、嫌というほど知っていた。
「断る」
煌の声は、氷のように冷たく平坦だった。
「か、考え直してください! あなたほどの才能が、こんなゴミ溜めのような店で埋もれるのは人類の損失です!」
「俺は、じいさんと一緒にこの店を守るって決めてんだ。話は終わりだ。とっとと失せろ」
「しかし——!」
「失せろって言ってんだろ」
低く抑え込まれた声。その奥にある譲れない強い意志に気圧され、男たちは顔を見合わせると、捨て台詞を残して漆黒の車へと引き上げていった。
「大丈夫だ、テン」
息を吐きながらテンの頭を撫でる。
しかし煌は気づいていなかった。店の向かいにある雑居ビルの屋上から、高倍率の望遠カメラを向け、一部始終を撮影していた黒づくめの男たちの存在に。
*
その夜の夕食。
食卓には、鉄心が作った熱々の肉じゃがと焼き魚、自家製の味噌汁が並んでいた。
世の中のほとんどの家庭ではAI調理器が完璧な栄養管理のもとで無味乾燥な料理を作る時代に、この食卓には温かい人間の匂いが満ちていた。
「煌、今日のミカド重工の連中……何と言ってきた?」
鉄心がぽつりと尋ねてきた。
「スカウトだそうだ。軍事用ロボットを開発しろってさ。当然断ったよ」
鉄心は静かに箸を置くと、深くため息をついた。
「あいつらは表向きは連邦の企業だが、裏では独裁国家『帝国』の軍部と裏で繋がっている。手段を選ばん連中だ」
「帝国……?」
「技術はな、煌。人を傷つけるためじゃなく、人を守るためにあるんだ。俺は昔、その当り前のことを忘れかけたことがある」
鉄心の目が遠くを見つめていた。まるで過去の血と鉄の記憶を思い出しているかのように。
「お前には、絶対に同じ道を歩ませたくない。自分の技術が誰のためにあるのか……決して忘れるなよ」
「……わかわってるよ、じいさん」
鉄心は味噌汁を飲み干すと、立ち上がりかけた。そして一瞬だけ何かを言いかけたように口を開き、すぐにそれを飲み込んだ。
「煌」
「ん?」
「いや……何でもない。食器洗いはお前の当番だぞ」
そう言って背を向けた鉄心の肩は、どこか寂しげで、重い覚悟を背負っているように煌の目には映っていた。




