第10話 夜叉王の咆哮
台所に立った鉄心は、無言のまま蛇口をひねった。
冷たい水が食器に当たり、静かな水音を立てる。居間からの物音はすでに止んでいた。
手を動かしながら、鉄心はふと遠い日の記憶を辿っていた。
肉じゃが。今日の味つけは、我ながらまあまあの出来だった。
亡くなった息子——煌の父親が子供の頃、肉じゃがが大好物だった。何度作っても「もっと甘くして」とせがんだものだ。その味つけのコツを仕込んでくれたのは、息子の嫁だった。
『お義父さん、醤油をほんの少し減らして、みりんを多めに足すんです。それだけで劇的に変わりますよ』
そう言って笑っていた嫁は、軍の元高度分析官だった。料理一つをとっても栄養素や配合を理論数値で組み立てるような女で、感覚で突っ走る息子とは正反対だった。だが二人が揃うと、不思議と最高の味が生まれた。
『醤油を減らし、みりんを多めに……』
その約束を、鉄心は息子夫婦が逝った今も守り続けている。
息子たちが愛した味を、残された忘れ形見である煌に食べさせる。それが生き残った老人の務めだった。旨いとも不味いとも言わない煌が毎晩きれいに平らげてくれる、それだけで十分だった。
洗った皿を布巾で拭き、居間を振り返る。
食卓に突っ伏して、煌がすやすやと心地よさそうな寝息を立てていた。片づけの途中で力尽きたのだろう。その背中の上で、テンが自分の長いふさふさの尾を丸めて眠っている。
鉄心は静かに押し入れから毛布を取り出し、を起こさぬよう肩にかけてやった。
テンがうっすらと瞳を開け、鉄心を見つめると、一度だけ静かに瞬いて再び丸くなった。警戒もせず、ただ全幅の信頼を寄せるように。
「……頼むぞ、テン。あいつを守ってやってくれ」
鉄心は静かに囁き、照明を消して暗い廊下へと出た。
*
夜。
煌は明日の作業に必要な消耗品を買い揃えるため、夜の商店街を歩いていた。
昼間の賑わいは消え去り、ぽつぽつと灯る橙色の街灯が古びた街並みを照らしている。
だが、商店街の東端に差し掛かった時、煌の足がピタリと止まった。
交差点の角に、二体の国家管理型清掃アンドロイドが立っていた。しかし普段と様子が違う。胸部のバーコードを青く発光させ、通行人を一人ずつ呼び止めて厳重な身分照会を行っているのだ。
(検問か……最近、急増してるな)
煌は服の中にテンをそっと押し込んだ。テンが「ミュ……」と短く抗議の声を上げる。
「しっ、静かにしてろ」
国家未登録の個体であるテンが見つかれば、最悪の場合は押収・解体処分されてしまう。
煌は裏路地へ回るため、暗い横道へと折れた。古いブロック塀に挟まれた狭い路地。足元には濡れた苔の匂いが漂っている。
だが、路地に入った瞬間、煌の背筋に冷たい戦慄が走った。
(誰かが追ってきている……!)
足音は殺されている。だが、気配が違う。
幼い頃から鉄心に叩き込まれた野生的な勘が、警鐘を乱打していた。
何食わぬ顔で角を曲がり、ゴミ箱の陰に身を隠して息を殺す。
直後、静かな足音が二つ、暗闇を通り過ぎて行った。
黒いロングコート。軍人特有の隙のない歩行動作。そして腰のあたりに覗く大型拳銃のシルエット。
すれ違いざま、男の襟元に小さな金属バッジが鈍く光るのが見えた。
——双頭の鷲を模した、軍事独裁国家「帝国」の軍用章。
(帝国軍の工作員……!? なんでこんな下町に……!)
心臓の鼓動が早鐘のように打ち鳴らされる。
テンが服の中で小さな身体を硬く震わせ、煌の胸にぴったりと寄り添った。その温もりが、恐怖を静かな覚悟へと変えていく。
煌は下町の複雑な入り組みを知り尽くしていた。屋根の隙間を跳び越え、廃屋の狭い裏路地をすり抜け、追手たちの死角を突いて一気に気配を撒いた。
*
呼吸を荒らげながら、煌は藤堂機械店の裏口へ駆け込んだ。
「じいさん!」
作業場で一人、古い設計図を眺めていた鉄心がゆっくりと顔を上げた。
「……尾けられてた。帝国の工作員だ。街のあちこちに検問が敷かれてる!」
息を切らして叫ぶ煌に対し、鉄心の顔から一切の感情が消え去った。
「来たか……思ったより早かったな」
「え……?」
その時だった。
重厚な地響きとともに、劇烈な爆発音が夜の静寂を粉砕した!
——ドゴォォォンッ!!
衝撃波で作業場のガラス窓が一斉に吹き飛ぶ。ガラガラと爆風が吹き荒れ、黒煙とともに作業場の頑丈な鉄扉が内側へ吹き飛ばされた。
「ゴホッ! な、なんだ!?」
煙の中から現れたのは、黒いタクティカルスーツに身を包んだ十数名の武装兵士たちだった。手に握られているのは、軍用のサブマシンガンと電撃警棒。
「ターゲットの少年とアンドロイドを確認! 抵抗する者は抹殺せよ!」
冷酷な命令が飛ぶ。兵士たちの銃口が一斉に煌とテンに向けられた。
死の直感。煌が身構えたその瞬間——
「俺の店で好き勝手やってくれたな……小童共が!!」
腹の底から響くような老匠の咆哮が、爆音を吹き飛ばした!
鉄心が作業場の奥にある巨大な耐火壁のレバーを一気に引き下ろす。
重厚なアコーディオン扉が開き、その奥の暗闇から、巨大な漆黒の巨躯が圧倒的な存在感を放って姿を現した。
全高四メートル。洗練された流線型とは真逆の、極厚の重装甲に覆われた伝説の機体。
両肩には巨大な突起装甲、胸部には怨霊の面を模した装甲プレート。
——藤堂鉄心の元愛機、旧大戦の遺物「夜叉王」。
ゴウッ……と胸部動力炉が目覚めの咆哮を上げ、単眼の赤光が闇の中で凶凶しく輝きを解き放つ!
「夜叉王……起動!! 我が孫に手を出す愚か者どもめ……命があると思うなよ!!」
老いてなお盛んな鉄心がコックピットへ躍り込み、夜叉王の巨大な鉄拳が暗闇を切り裂いて振り下ろされた!




