第8話 帝国の影と突然の襲撃
あれから数週間が経った。
激闘を繰り広げた東海リーグが終わり、季節は初夏を迎えている。藤堂機械店の前には、朝から蝉の声が響き渡っていた。
*
朝。
煌はゆっくりと目を覚ました。
首元で丸くなっていたテンが、眠そうに琥珀色の瞳を開ける。
「くぅ——」
「おはよう、テン」
煌はテンの小さな頭を優しく撫でながら、体を起こした。
二階の自室。狭く乱雑だが、煌にとっては一番心が安らぐ場所だ。
壁には自作の複雑な設計図がびっしりと貼られ、棚には使い込まれた工具や分厚い技術書が整然と並んでいる。窓からは初夏の眩しい朝日が差し込み、空気中の微小な埃が金色に光っていた。
いつもと変わらない、平和な朝。
煌は階段を降り、居間へと向かった。
居間では、祖父の鉄心がすでに食卓についていた。香ばしい出汁と味噌汁の匂いが漂っている。
「遅いぞ、煌」
「悪い。夜遅くまでパーツの整理をしてたんだ」
煌が席につくと、テンが膝の上にふわりと飛び乗ってきた。
朝食は質素そのものだ。炊き立てのご飯に味噌汁、塩焼きの魚と漬物。
だが、美味い。鉄心の作る料理は、いつも素朴だが温かい味がした。
「今日の予定は?」
鉄心が湯気を立てるお茶を啜りながら尋ねてくる。
「午前中は灰猫の微調整。午後も……まあ、同じだな」
「ふん。相変わらずの仕事人間だな」
「じいさんに言われたくねえよ」
煌が言い返すと、鉄心の目元に深い皺が寄った。声には出さないが、笑っているのだ。
膝の上のテンも、嬉しそうにふさふさの尻尾を揺らした。
穏やかで、幸福な朝。
この日常が当たり前であり、永遠に続いていくものだと、煌は疑いもしなかった。
*
食器を洗い終えると、テンを肩に乗せて店先に出た。
木製のガラガラと音を立てる引き戸を開けると、爽やかな初夏の風が通り抜けていく。古びた商店街はまだ静けさに包まれており、隣の八百屋のおばさんが店先を丁寧に掃いていた。
「おはよう、煌ちゃん」
「おはようございます」
「リーグ優勝、本当におめでとうねぇ。街の自慢だよ」
「……どうも」
照れくささに頭をかきながら、煌は作業場のシャッターを上げた。
ガタガタという音とともに、使い込まれた油と金属の匂いが鼻を突く。薄暗い工房の奥に、激戦を潜り抜けてきた愛機「灰猫」の無骨な輪郭が浮かび上がっていた。
「さて、今日もやるか」
「ピピッ!」
テンが耳をぴくりと動かし、元気よく応える。
煌のいつもの一日が始まった。
作業場の蛍光灯が、白い光を機体に落とす。
煌は作業ゴーグルを目元に下ろし、灰猫の右膝関節に向き合った。
まずは外装パネルの取り外しだ。六角ボルト四本、ワッシャー付き。回す順番も締め付ける力加減も、すべて指先と体に染みついている。
パネルを慎重に傾けて持ち上げると、複雑に組み合わされた内部の関節機構が露わになった。
駆動軸、精密ベアリング、緩衝ダンパー、電磁クラッチ。一つひとつの部品が生き物のように噛み合い、灰猫のしなやかな動きを支えている。
「テン、詳細データを出してくれ」
「ピィ」
テンが短い電子音を発すると、煌のゴーグルレンズ内側に鮮やかなホログラフィックデータが浮かび上がった。
駆動系の温度分布がサーモグラフィーでリアルタイム表示される。右膝関節周辺に、わずかな熱溜まり。続いて最新のトルク曲線。直近の試合データが重ね合わされ、右旋回時に〇・三パーセントの微妙な出力ロスが生じていることが示されていた。
(やっぱりベアリングの摩耗か……)
煌は精密ピンセットを使い、問題のベアリングを慎重に取り外した。
指先で転がしてみる。微かな引っ掛かり。目では見えない極小の傷が、指の腹を通して正確に伝わってくる。〇・〇一ミリ単位の歪み。普通の機械なら誤差の範囲だが、ギリギリの戦闘をこなす灰猫にとっては見過ごせない違和感だった。
新品と交換できれば一番いい。だが、ジャンクパーツの在庫に同サイズの新品はない。
煌は研磨ペーストを薄く塗り伸ばし、指先で細かく回しながら金属表面を丁寧に均していった。
回して、感触を確かめ、磨き、また回す。地味で根気のいる作業だ。
高度なAIならすべて数値で自動管理するだろう。だが、煌の指は数値以上の「金属の叫び」を感じ取っていた。
『金属の声を聴け、煌。機械は嘘をつかん』
幼い頃、鉄心に叩き込まれた言葉が脳裏をよぎる。
「テン、トルクの再シミュレーション」
「クルルル」
テンが背中の滑空膜を小さく震わせ、ゴーグルに新たな予測データを送信する。
修正後のベアリングで関節を可動させた場合のシミュレーション。グラフの描く線が、理想的な曲線に見事重なり合った。
「よし。完璧だ」
煌がベアリングを組み戻し、可動テストに入ろうとしたその時、店の入り口のドアベルが軽やかに鳴った。
「すみませーん!」
甲高い子供の声。振り向くと、見慣れた顔があった。近所に住むミナだ。おかっぱ頭にそばかすが散った九歳の女の子で、両手に抱えているのは見るからにくたびれた旧式のロボット掃除機だった。
「ねえ、煌お兄ちゃん! うちのロボット掃除機、また動かなくなっちゃったの」
「またかよ……」
煌はゴーグルを額に押し上げ、ぶっきらぼうに呟いた。
「そこに置いてけ」
「直してくれる?」
「見るだけだ」
ミナが作業台の端に掃除機を置くと、煌は手際よくドライバーで裏蓋を開けた。中を覗き込む。
メインモーターは健全。制御基板も生きている。フィルターユニットを引き抜いた瞬間、圧縮された埃とゴミの灰色の塊がぽろりと落ちた。
「フィルターの目詰まりだ。こいつが排気口を塞いで、安全装置が働いてオーバーヒートしてる」
「ふぃるたー?」
「ゴミを越す布だよ。掃除機だってな、自分自身の掃除まではできねえんだ」
煌はエアブローでフィルターの埃を一気に吹き飛ばし、ついでに内部の回転ローラーに絡まっていた長い髪の毛を手作業で丁寧に取り除いた。軸受けのグリスが完全に切れていたため、工業用オイルをほんの数滴注油する。
「掃除機の掃除くらい、最新のAIがやってくれねえのか?」
「ママが言ってたもん。『最新のAI家電を買うより、煌お兄ちゃんに直してもらった方がずっと長持ちする』って!」
煌の手が一瞬止まった。
「……そうかよ」
ぶっきらぼうに返しつつ、裏蓋を閉めて電源スイッチを入れる。
掃除機は先ほどまでの不快な異音が嘘のように、軽やかな駆動音を立ててスムーズに走り出した。ミナの瞳がパッと輝く。
「わあ、動いた! すごい! ありがとう、煌お兄ちゃん!」
「礼はいい。フィルターは月に一回は掃除しろって、母親に言っておけよ」
「はーい!」
ミナは嬉しそうに掃除機を抱え直し、出口へと向かった。そしてふと足を止めて振り返る。
「テンちゃん、バイバイ!」
テンが煌の肩からひょいと顔を出し、琥珀色の瞳をぱちくりとさせた。そして背中の滑空膜をふわりと広げて見せる。まるで愛嬌たっぷりに手を振り返すかのように。
「キュウ!」
ミナが楽しそうに笑いながら走り去っていく。
その小さな背中を見送りながら、煌の口元が自然と緩んでいた。
「うるせえ。何も言うな」
肩の上のテンがすり寄ってきたのを小突きつつ、煌は呟いた。
その時、店の前の通りを、美しく磨かれた銀色の清掃アンドロイドが無音で通過していった。
全長一・五メートルほどの人型で、胸部には整然とした識別番号が刻まれている。AI管理局が街に配備している最新の国家管理型だ。決められたルートを、決められた時間に、寸分の狂いもなく正確に巡回する。
表情はない。声もない。ただ与えられた機能だけが存在する機械。
膝の上で甘えるように鳴くテンとは、何もかもが違っていた。
同じ「機械」でありながら、まるで質の異なる存在。
「さて……続きをやるか」
「ピピッ」
煌が再びゴーグルを下ろすと, テンが短く応え、データを再投影した。
*
だが、そんな静かな日常に、少しずつ異変が忍び寄っていた。
東海リーグでの優勝以降、藤堂機械店の周りには見慣れない人間が増えていたのだ。
「また来てやがるな……」
煌は作業場のシャッターをほんの少し開け、隙間から外を窺って苦々しく舌打ちした。
店の前にはカメラを抱えた記者が三人、執拗に店構えや看板を撮影している。通り沿いには、大手テレビ局のロゴが入った中継車まで停まっていた。
『全勝優勝! 謎の天才整備士、その正体は!?』
『ジャンク機で億越え最新鋭機を粉砕した少年!』
そんな見出しが、ここ数日ネットニュースのトップを賑わせていた。
全身ゴミの山から拾い集めたような機体が、大企業の資金力で作られた高級ロボットを次々と撃破していくストーリー。メディアが飛びつくには格好の素材だった。
「煌」
奥の暖簾をくぐり、鉄心が顔を出した。
「また取材陣か?」
「ああ。今日だけでもう三社目だ」
煌はうんざりした様子で作業台に向き直る。
「表に出てコメントでもしてやったらどうだ?」
「冗談じゃない。俺は目立つのが大嫌いなんだよ」
テンが心配そうに煌の顔を見上げ、小さな鼻を鳴らした。
「大丈夫だ、テン。相手にしなきゃそのうち諦めていなくなるさ」
煌は自分に言い聞かせるように呟いた。
しかし、カメラを構える記者たちの群れのさらに後方——路地裏の影に、身仕立ての良い黒いスーツを着た二人組の男が佇み、冷酷な視線を店へと注いでいることに、煌はまだ気づいていなかった。




