第20話 エリザベスの過去と深まる絆
「私たち、似てるね」
「……かもな」
不思議と、嫌な気持ちはしなかった。
「俺は、お前の家族にはなれないかもしれないけど、仲間にはなれると思う」
ナターシャの目が、わずかに潤んだ。
「……ありがとう」
テンが二人の間に飛び乗り、嬉しそうに体を揺らした。ナターシャの膝に頭を擦りつけ、煌の手に鼻を寄せる。
「この子、本当にあんたが好きなのね」
「まあな」
「私も、好きになってきたかも」
煌は言葉に詰まり、視線を逸らした。耳の先まで熱い。
「テンのことよ。変な勘違いしないで」
「し、してねえよ!」
ナターシャが笑った。煌も、つられて笑った。
夜風が心地よかった。
*
その夜。
煌はトイレに起きて、薄暗い通路を歩いていた。
地下施設の夜は静かだ。換気扇の低い唸りと、遠くの配管を水が流れる音だけが響いている。テンは部屋で眠っている。珍しく、煌が動いても起きなかった。
通路の角を曲がった時、足が止まった。
エリザベスの部屋から、灯りが漏れている。ドアが数センチ開いていた。
覗くつもりはなかった。だが、視界の端に映ったものが、煌の足を縫い止めた。
エリザベスが机に向かって、手紙を書いていた。
いつもの厳しい表情ではない。ペンを持つ手は穏やかで、時折、書いた文字を指でなぞるように触れている。誰かに語りかけるように。
壁には写真が一枚、画鋲で留められていた。若い頃のエリザベスと、軍服を着た男性。二人とも笑っている。エリザベスの笑顔は、今の彼女からは想像できないほど柔らかかった。
「眠れないの?」
気づかれた。煌は慌てて一歩下がった。
「す、すいません。たまたま通りかかっただけで——」
「いいのよ」
エリザベスが振り返った。珍しく、柔らかい表情をしていた。蛍光灯の代わりに小さなランプが灯る部屋の中で、彼女の白髪交じりの髪が淡く光っている。
「お茶でもいかが。眠れない夜は、話し相手がいた方がいいわ」
断る理由もなく、煌はおずおずと部屋に入った。
エリザベスが棚から缶を取り出し、小さな電気ポットで湯を沸かした。ハーブティーの香りが広がる。
二人で向かい合い、お茶を飲んだ。沈黙が流れたが、不思議と居心地は悪くなかった。
「あの写真の人は——」
煌が壁を見て、口を閉じた。訊いていいことではない気がした。
「夫よ」
エリザベスが、自分から言った。
「帝国軍時代の。私が命令を拒んだ時——民間人を盾にしろという命令を——一緒に逃げてくれた人よ。地位も名誉も捨てて」
「……」
「三年前に、病気で逝ったわ。長い逃亡生活で、体を壊していたの」
「すいません」
「謝らないで」
エリザベスはカップを両手で包み、微かに笑った。
「あの人のおかげで、私はここにいる。この組織も、この仲間たちも、あの人がいなければ存在しなかった」
煌は黙ってお茶を啜った。苦い。でも、飲み込むと体の芯が少しだけ温まる。
「エリザベスさんは、強いですね」
「強いんじゃないわ」
エリザベスは写真を見つめた。
「弱い自分を知っているだけよ。弱さを知っている人間は、他人の弱さにも気づける。それだけのこと」
煌は言葉を返せなかった。この人は、自分が思っていたよりもずっと、深い場所で戦っている。
部屋を出る時、エリザベスが言った。
「あなたのお祖父さんと、あなたの関係を見ていると——私も少し、救われるのよ」
「……え?」
「誰かを守りたいと思えること。それ自体が、希望なの」
煌は軽く頭を下げて、通路に出た。
部屋に戻る足取りは、来た時より少しだけ軽かった。
*
その翌日。煌はアジトの訓練場にいた。
訓練場といっても、地下倉庫の一角にコックピットの模擬フレームを組んだだけの簡素な設備だ。実機を動かすわけではない。操縦桿の入力パターンを体に叩き込む、地道な反復練習。モニターもセンサーもない。頼れるのは自分の感覚だけだった。
煌は操縦桿を握り、灰犬の動きをイメージしながらシミュレーションを繰り返していた。
マルコが横で腕を組み、その動きをじっと見ている。しばらく黙っていたが、不意に口を開いた。
「お前の操縦は丁寧すぎる」
「丁寧で何が悪い」
「闘技場じゃもっと荒っぽくていい。相手はお前の正確な操作を待っちゃくれねえんだ」
「荒っぽくって——雑にやれってことか」
「違う」
マルコが操縦桿を指差した。
「精密さを捨てるんじゃない。精密さの上に荒さを乗せるんだ。基礎がしっかりしてる奴にしかできない芸当だ」
煌は戸惑った。祖父に教わったのは、一つ一つの操作を正確に、無駄なく繋ぐ技術だ。入力の順序、タイミング、力加減——全てに意味がある。それを速さのために崩せというのか。
「やってみろ。入力速度を三割上げて、補正は後から体で合わせる。考えるな、感じろ」
煌は試した。操縦桿を速く動かす。だが手がぶれて、入力がバラバラになった。二度目も同じだ。歯を食いしばり、三度目——少しだけ、感覚が変わった。速さの中に精密さの芯を残す。荒い動きの奥に、祖父から受け継いだ基礎が確かに息づいている。
「——そうだ。その感覚だ」
マルコが満足げに頷いた。
その時、煌のゴーグルの隅に微かな光が走った。テンが服の中から顔を覗かせ、小さな瞳をゴーグルのレンズに向けている。レンズの端に、操作タイミングを示す薄い光の点が投影されていた。
煌の手が止まった。
「テン……お前——」
AI補助だ。闘技場ではAI・アンドロイドの使用は一切禁止されている。発覚すれば失格どころでは済まない。
「……ありがとな。助かる。でも——バレないようにしろよ」
テンがキュルッと小さく鳴いて頷いた。わかってる、とでも言うように尻尾を一振りする。煌はゴーグルを外し、テンの頭を指先で軽く撫でた。
訓練を終えた煌が額の汗を拭っていると、背後から水筒が差し出された。
「はい」
ナターシャだった。壁に背を預けて立っている。いつからいたのか、作業着姿で腕を組んでいた。
「……サンキュー」
受け取って一口飲む。冷たい水が乾いた喉に染み渡った。
「あんた、マルコの言うこと素直に聞くのね。私の言うことは聞かないくせに」
「うるせえ。マルコさんは整備の先輩だからだ」
ナターシャが意味ありげに口角を上げた。
「ふうん」
「何だよ、その顔」
「別に。素直な煌も悪くないなって思っただけ」
煌は水筒を押し返し、ぷいと横を向いた。耳が赤い。
テンが二人の足元を駆け回り、ピィッと陽気な声を上げた。訓練場の薄暗い天井に、束の間の笑い声が響いた。
だが、安息の時間は長くは続かない。
次なる死闘の足音が、確かな響きを持って地下闘技場に近づいていた。




