第19話 夜の静寂とナターシャのペンダント
その時、テンがマルコの工具箱に飛び乗った。蓋の隙間から中を覗き込み、キュルルと興味深そうに鳴く。小さな前足で、ピカピカに磨かれたソケットレンチを転がした。
「おいおい、こいつ好奇心旺盛だな」
マルコが笑って、テンの背中を太い指で撫でた。テンは最初だけ身を固くしたが、すぐに気を許して尻尾を振った。
「テン、人の工具で遊ぶな」
「いいよいいよ。こういう奴は嫌いじゃねえ」
マルコの目が、少しだけ遠くなった。
「昔、俺にも犬がいたんだ。軍にいた頃、基地で拾った野良犬。除隊する時に、一緒に連れ出した。——五年前に死んだがな」
「……そうか」
「だからまあ、こいつのことは可愛がらせてくれ」
マルコがテンの顎を掻くと、テンはピィと甘えた声を上げた。煌は少しだけ、口元を緩めた。
祖父とは違う師匠ができた。そう思った。
*
その夜、煌はふと目を覚ました。
トイレに立ち、薄暗い通路を歩く。地下施設の夜は深い。自分の足音と、配管を流れる水の音だけが反響している。テンは部屋で丸くなったまま、珍しく起きなかった。
戻ろうとした時、整備ピットの方から灯りが漏れているのに気づいた。
こんな時間に誰が——。
足音を殺して近づき、入口の陰から覗く。
マルコだった。
灰犬の前にしゃがみ込み、一人で作業している。煌には「もう寝ろ、明日も早いぞ」と言ったくせに、自分は夜通し機体を整備しているのだ。
大きな背中が丸まって、関節部のボルトを一本ずつ丁寧に締め直していた。その手つきは、昼間とは違う。荒っぽさの奥に、繊細な配慮がある。ボルトに指を添え、わずかな緩みも見逃さないように確かめてから、静かにトルクをかけている。パイロットの命を預かる整備士の手だった。
煌は息を止めた。
その背中が——じいさんの背中と重なった。
体格も年齢も違う。やり方も、性格も正反対だ。なのに、同じ匂いがする。機械油と、誠実さの匂い。大切なものを守るために、黙って手を動かし続ける人間の匂い。
声はかけなかった。かけたら、マルコは照れ隠しに「なんだ、小便か」と笑うだろう。それでこの静かな時間が壊れてしまう気がした。
煌は足音を忍ばせて部屋に戻った。
ベッドに潜り込むと、テンが寝ぼけ眼で顔を上げた。クゥ、と小さく鳴く。
「……いい人たちだな、ここの連中は」
テンが同意するように耳をぴくりと動かし、煌の胸元にもぐり込んだ。小さな体の温もりが、じわりと広がる。
煌は目を閉じた。まだ全てを信じたわけじゃない。でも——悪くない。ここは、悪くない場所だ。
*
夕方。
アジトの食堂で、煌は一人で食事を取っていた。
テンが膝の上で丸くなっている。
「隣、いい?」
ナターシャがトレイを持って、煌の前に座った。
「……勝手にしろ」
ぶっきらぼうに答えながら、目は合わせられない。
しばらく無言で食事が続いた。
「女の子と話すの、苦手でしょ」
煌の顔が赤くなった。
「う、うるせえ」
「図星ね」
ナターシャがくすりと笑った。
テンが嬉しそうに尻尾を振り、ナターシャの手に鼻を寄せた。
「あら、可愛い」
ナターシャがテンの頭を撫でた。テンは気持ちよさそうに目を細める。
「……裏切り者」
煌がぼそりと呟く。
「なに、焼きもち?」
「ち、違う!」
その時、煌は気づいた。
自分も、少しだけ笑っていることに。
*
それから毎日、ナターシャは整備ピットに通うようになった。
「手伝いに来たの。一人で全部やる必要ないでしょ」
「いらねえ」
煌は素っ気なく答えた。他人に機体を触られたくない。じいさんにしか許したことがない。
「じゃあ、見てるだけでいい」
ナターシャは気にせず、煌の隣に座った。
しばらく経って、ナターシャが言った。「……そこ、ボルトが緩んでる」
煌が見落としていた場所だった。「……悪くない。目は悪くない」
「……教えてやろうか。整備。お前の手つきは雑だ」
「雑って失礼ね」
「事実だ。ネジの締め方が甘い。こうだ。最初は軽く、最後に力を入れる。一気に締めると歪む」ナターシャが感心したように目を丸くした。「じいさんに教わった。基本中の基本だ」
「あんたのじいさん、本当に凄い人なのね」
「……ああ。最高の——整備士だ」煌の声が少しだけ柔らかくなっていた。
*
ある夜。
アジトの屋上で、煌は一人で夜空を見上げていた。
テンが肩に乗り、星を見つめている。
「こんなところにいたの」
振り返ると、ナターシャが立っていた。毛布を二枚持っている。
「風邪引くわよ」
彼女は煌の隣に座り、毛布を渡した。
「……サンキュー」
二人でしばらく、無言で星を見つめていた。
「……なんで俺を助けたんだ」
煌がぽつりと言った。
「俺は所詮、よそ者だろ。黒い翼の利害のために使われてるだけで」
「馬鹿ね」
ナターシャが煌を睨んだ。
「あんたはもう仲間なの。エリザベスも、マルコも、みんな認めてる」
沈黙が流れた。夜風が二人の髪を揺らす。
「あんたは、なんで整備士になったの?」
「じいさんの背中を見てたら、自然と」
「そう」
ナターシャは夜空を見上げた。
「私ね、父親を知らないの」
煌は黙って聞いていた。
「物心ついた時には、母と二人だった。母が死んだ時、七歳。それからはずっと一人」
ナターシャは首元のペンダントを握りしめた。
古びた銀のペンダント。月の形をしている。表面には細かな彫刻が施されていた。三日月を模したフレームの中に、小さなロケットが組み込まれている。開閉式になっているのだろう、継ぎ目の部分に繊細な銀細工が施されている。量産品ではない。職人が一つ一つ手で彫った、世界に二つとない品だった。
「これ、母の形見。『お父さんからの贈り物よ。二人だけのお揃い』って、それだけ言って、死んだ」
煌はそのペンダントを見つめた。精密な彫金は、どことなく機械設計の図面を思わせた。技術者の仕事だ。
どこかで、見たことがある気がする。いや、気のせいか。
「たぶんね、私の中に、まだ希望があるの。いつかこのペンダントをくれた人に——会えるかもしれないって」
「俺も、両親を知らねえ」
気づいたら、口が動いていた。
「五歳の時に死んだ。帝国に殺された。だから、じいさんだけが家族だ。テンと、じいさんだけ」
「そっか」
ナターシャは煌を見つめた。その真っ直ぐな目には、深い理解があった。
夜の静寂が二人を包み込む。過酷な運命を背負う者同士の心が、ほんの少しだけ寄り添った瞬間だった。




