第15話 孤独な降下と『黒い翼』
「嫌だ! じいさんも一緒に——!」
鉄心が煌の肩を掴んだ。強い力で、だが優しく。
「煌。お前に教えたこと、全部覚えてるな?」
声が震える。視界が滲む。
「技術は人を守るためにある。金がないなら知恵を使え。働くことは生きることだ」
「やめろよ、遺言みたいなこと」
「遺言じゃない。——約束だ」
鉄心は煌を脱出ポッドに押し込んだ。
「お前は俺の技術を継いでいる。俺の全てが、お前の中に生きている。だから生き延びろ。そして、また会おう」
「待て! じいさん——!」
手を伸ばした。だが届かない。ポッドのハッチが——閉じていく。
「じいさん!!」
厚いガラス越しに、祖父の顔が見える。皺だらけの顔。白い髭。そして穏やかな笑み。
煌はガラスを叩いた。何度も。何度も。
「開けろ! 俺を出せ!!」
「お前を——信じている」
その言葉が最後だった。
射出装置が起動する。凄まじい加速が全身を押しつぶした。
ポッドの中は狭く、暗い。体を丸めることしかできない。加速のGが胸を圧迫し、肺から空気が絞り出される。
小さな窓から外が見えた。
夜叉王がどんどん小さくなっていく。敵機に囲まれながらも、まだ剣を振るっている。ブレードアームが閃き、一機が火を噴く。だが敵は次から次へと群がってくる。漆黒の巨人は傷だらけで、左腕の装甲が剥がれ落ちていた。それでもなお、剣を振るい続けている。
「じいさん、死ぬな……死ぬなよ……」
声が震えた。ガラスに額を押し当て、遠ざかる戦場を見つめる。
テンが煌の胸元で、小さく、しかし力強く鳴いた。まるで「大丈夫」と言うように。煌の服を小さな爪でしっかりと掴み、離すまいとしている。
ポッドが大気圏に突入した。窓の外が赤く染まる。機体が激しく振動し、何度も何度も体が揺さぶられた。金属が軋む悲鳴。断熱材が焼ける焦げた匂い。警告灯が明滅し、耳障りなアラームが鳴り止まない。
煌は歯を食いしばり、テンを胸に抱きしめた。この小さな命だけは守る。何があっても。
振動が、止まらない。
意識が遠のいていく。赤い光の明滅が瞼の裏にまで染み込み、現実と記憶の境界が溶けていった。
——手。
大きくて、節くれだった手。爪の間に油が染みついた、無骨な手。
じいさんの手だ。
あの手に、何度助けられただろう。工具の握り方を教えてくれた手。頭を小突いて叱った手。不器用に味噌汁をよそってくれた手。
あの手が最後に自分の肩を掴んだ時の感触を、煌は覚えている。強くて、でも優しかった。震えていた。あの鉄みたいなじいさんの手が、あの時だけは震えていた。
そしてあの手が操縦桿を握り直し、最後まで剣を振るっていた。煌を逃がすために。たった一人で。
記憶が揺れる。もっと遠い記憶。
——温かい腕。柔らかな匂い。
五歳の断片。母の記憶だ。
顔はもう思い出せない。声も、ほとんど忘れた。でも腕の温もりだけは覚えている。眠れない夜に抱きしめてくれた腕。耳元で小さく歌ってくれた子守唄。旋律だけが、記憶の底にかすかに残っている。
——大丈夫よ、煌。
その声が、振動の中で聞こえた気がした。
胸の上で、テンが震えていた。
小さな体が、断続的に痙攣するように揺れている。恐怖だ。テンも怖いのだ。機械の体でも、この子には心がある。
だがその震えが、煌を現実に繋ぎ止めていた。温かい。生きている。ここにいる。
「お前だけは……失くさない。絶対に」
声が掠れた。喉が渇いて、唇が割れている。それでも言葉にした。テンに聞かせるためではない。自分自身に刻みつけるために。
テンが小さな爪で煌の服を掴み直した。ぎゅっと、握り込むように。離さない——その意志が、小さな爪先から伝わってくる。
「キュッ……」
テンの鳴き声は震えていた。だが確かに、煌に応えていた。ここにいる、と。どこにも行かない、と。
意識が薄れていく。視界が狭まる。赤い光も、アラームの音も、遠くなっていく。
その中で、煌は一つだけ決めた。
生きる。
じいさんを助ける。
そのために——生きる。
やがて窓の向こうで、最後の光が見えた。爆発の光。だがどんどん遠くなる。光が点になり、やがて消えた。
「じいさぁぁぁん!!!」
煌の絶叫が、虚空に消えていった。
気を失いかけながらも、煌はテンを抱きしめ続けた。震える手で、強く。
涙が止まらなかった。
*
脱出ポッドは帝国内の僻地に墜落した。
森の中に突っ込み、木々をなぎ倒しながら地面を滑走した。枝が砕け、土が抉れ、凄まじい衝撃が何度も体を叩きつける。最後に露出した岩盤にぶつかり、金属が悲鳴を上げて停止した。
機体は大破していた。だが煌は生きていた。擦り傷と打撲だけで済んだのは、ポッドの耐衝撃構造のおかげだ。じいさんの設計だ、と煌は思った。
テンも無事だった。ショックで全身を震わせているが、怪我はない。煌の胸元にしがみついたまま、大きな目を見開いている。
煌はハッチを蹴った。一度では開かない。歪んだ金属を二度、三度と蹴りつけ、ようやく外れた。
夜の空気が肺に流れ込んだ。草と土の匂い。木の樹液の青い香り。冷たい風が、汗と涙でぐしゃぐしゃの顔を撫でていく。生きている。それだけが確かだった。
テンが先に外へ飛び出した。着地すると同時に耳をぴんと立て、あちこちに向けて周囲の気配を探る。尻尾を大きく膨らませ、鼻をひくひくと動かし、安全を確認していた。
煌が這い出して空を見上げた。満天の星空が広がっている。そしてその片隅で、遠くの閃光が断続的に瞬いていた。小さな光の明滅。爆発の光。戦闘の光。
鉄心がまだ戦っている証だった。
「じいさん」
煌は拳を握りしめた。涙が頬を伝う。
茫然と空を見つめていると——
「生存者発見」
声がした。
振り返ると、武装した人影が近づいてきた。帝国軍ではない。装備が違う。
銀髪の少女が、煌を見下ろしていた。
「反政府組織『黒い翼』だ。君を保護する」
煌は抵抗する力もなく、意識を手放した。
*
一方、その頃。
夜叉王は力尽きていた。
無数の敵機との戦闘で、装甲は剥がれ、左腕は失われ、動力炉も限界を迎えていた。
鉄心は捕らえられ、帝国の最高機密施設へと連行された。
*
豪華な執務室。
拘束された鉄心の前に、一人の男が立っていた。
プラチナブロンドの長髪。端正な顔立ち。貴族的な物腰。常に白い手袋を着用している。
アルベルト・フォン・ヴァイス。
ヴァルハイム帝国「兵器開発省」長官。帝国最高の頭脳と称される男。
「ようこそ、『鋼鉄の老匠』殿」
ヴァイスは優雅に一礼した。
「貴方をお迎えできて光栄です」
鉄心は血塗れの顔で、冷たく見返した。
「何のつもりだ」
「単刀直入に申しましょう」
ヴァイスの目が、冷たく光った。
「我が帝国のために働いていただきます」
白手袋に包まれたヴァイスの手が、静かに差し出される。
捕らわれの老匠と、帝国最高の頭脳。二人の交差が、世界を揺るがす巨大な歯車を回し始めていた。
一方、見知らぬ地で目覚めた煌の前には、新たな運命の扉が開かれようとしていた——。




