第13話 夜叉王、再始動
「お前を起こす時が来た」
鉄心は静かに言った。
「——夜叉王」
*
動力炉に火を入れる前に、やらねばならないことがあった。
鉄心は地下室の片隅に設置された古い通信端末を起動した。暗号化された回線。三十年間、一度も使われることのなかった回線。
コールサインを入力する。応答を待つ。
繋がった。
「先生」
通信の向こうから、懐かしい声が聞こえてきた。精悍な男の声。だがそこには、隠しきれない驚きと喜びが滲んでいる。
「ご無事でしたか」
「ヴィクトル」
鉄心は静かに答えた。
ヴィクトル・ドラグノフ。かつて鉄心に弟子入りを許された、唯一の男。今は東亜連邦軍「特殊作戦局」の局長を務めている。
「煌が攫われた」
「存じております」
ヴィクトルの声が沈んだ。
「帝国の特殊部隊です。昨夜の作戦は、我々も把握していました」
「把握していたのに、止められなかったか」
「申し訳ありません。事前情報が得られた時には、既に——」
「いい。責めているわけではない」
鉄心は通信端末を見つめた。
「ヴィクトル。お前の立場で動けないことはわかっている。俺一人で行く」
沈黙が落ちた。
「先生、それは自殺行為です。帝国の中心部に単身で——」
「わかっている」
「先生は72歳です。いくら『鋼鉄の老匠』でも——」
「わかっている」
鉄心は繰り返した。
「だが煌は、俺の孫だ。息子夫婦は守れなかった。だがこの子だけは俺が守る」
長い沈黙の後、ヴィクトルは静かに言った。
「何かできることはありますか」
「ない。お前は国に仕えろ。国を守ることに専念しろ。それが師匠としての最後の命令だ」
「先生」
「だがもし俺に何かあったら、煌のことを頼む」
「必ず」
ヴィクトルの声が、かすかに震えていた。
「それとテンも取り戻さねばならん」
「テン?」
「東海リーグで煌の試合を観察していたな。お前のことだ、気づいていただろう」
「面白いペットロボットだと思いました。あの動き、通常のAIでは出せない」
「あれは煌の家族なんだ」
鉄心の声に、特別な重みがあった。
「先生。もしかして、以前お聞きした『人に寄り添うAI』の——」
「その話は、いずれする。今は時間がない。ただ、覚えておけ。テンを取り戻すことは煌を取り戻すことと同じだ」
「はい」
「ありがとう」
鉄心は通信を切った。
だが、すぐにもう一つの回線を開いた。ヴィクトルとは別の暗号周波数。かつて戦場で命を預け合った、もう一人の「古い友人」への回線だ。
「エリザベス。久しいな」
通信の向こうから、驚いた女の声が聞こえた。
「あなたは……まさか、『鋼鉄の老匠』?」
「煌が帝国領内に落ちる。拾ってくれ」
沈黙。そして、短い返答。
「わかった。必ず保護する」
鉄心は通信を切った。これで二つの布石を打った。
*
同時刻。東亜連邦軍「特殊作戦局」研究棟。
ヴィクトルは通信を切った後も立ち尽くしていた。師匠の言葉が頭の中で繰り返される。
テンを取り戻すことは、煌を取り戻すことと同じだ。
壁のモニターを起動し、東海リーグの録画映像を再生した。灰猫の肩に乗る、小さなムササビ。
自律的に判断し、状況に応じて支援を行う。そして何より「感情」がある。喜びの時は目が明るくなり、危機の時は必死に助けようとする。ただのプログラムでは説明できない。
「先生、あなたは、実現していたのですね。『人に寄り添うAI』を」
だが今、師匠は一人で帝国に向かおうとしている。ヴィクトルは拳を握りしめた。立場上、動けない。それがどこまでも歯がゆかった。
「待っていてください、先生。いつか必ず煌くんとテンを、お守りします」
ヴィクトルは窓に映る自分の顔を見つめた。四十五歳。精悍な顔つきだが、目の下には疲労の影が滲んでいる。
二十年前、まだ若かったヴィクトルは、ある噂を聞いて鉄心の工房を訪ねた。「鋼鉄の老匠」が弟子を取るかもしれない、と。
工房の前で三日間座り込んだ。雨が降っても動かなかった。三日目の朝、鉄心が扉を開けて言った。
『何が欲しい』
『先生の技術を学びたいのです』
『技術だけなら、本を読め。それでも俺のところに来るなら、覚悟を見せろ』
それから三年間、文字通り死に物狂いで学んだ。掃除から始まり、工具の手入れ、パーツの選別、設計理論。鉄心は厳しかったが、教えることに手を抜かなかった。
ある夜、二人で酒を飲んだ。珍しく鉄心が語った。
『技術者には二種類いる。自分のために作る者と、誰かのために作る者だ。俺は長いこと、自分のためだけに作っていた。その代償を、今も払い続けている』
あの時の鉄心の目を、ヴィクトルは忘れられない。深い後悔と、それでも折れない意志が同居した目。
師匠は今、その「代償」の最たるものに立ち向かおうとしている。
ヴィクトルは姿勢を正した。軍服の襟を整え、表情を引き締める。感傷に浸っている暇はない。自分にできることを、自分の立場でやる。それが、師匠から学んだ最も大切な教えだ。
*
夜叉王の胸部ハッチに手動でアクセスする。緊急開放レバーを引くと、油圧の抜けた音と共にハッチが軋みながら開いた。三十年間、一度も開かれなかった扉。
中は三十年前のままだった。座席の革は乾いてひび割れているが、計器類に破損はない。密閉構造が埃の侵入を防いでいた。
鉄心はコックピットに乗り込み、シートに腰を下ろした。
体が覚えていた。背中のフィット感。腰を支えるフレームの角度。自分の体格に合わせて削り出した操縦席が、三十年経っても寸分の狂いもなく体を受け止める。
操縦桿を握る。掌に吸い付くような太さ。足元のペダルに爪先を乗せると、その位置もまた完璧だった。古い友人と再会したような、奇妙な安心感がある。
「老いた体だが、お前のことだけは忘れていない」
起動シークエンスを開始する。
メインジェネレーターの点火。
深い唸りが腹の底に響いた。動力炉が目覚める。三十年間眠っていたとは思えない力強い鼓動が、機体全体を震わせる。金属の骨格に熱が通り、冷え切っていた装甲が微かに温もりを帯びていく。
鉄心の胸の奥でも、何かが点火された。十二年間、いや三十年間、静かに燃え続けていた怒りの炎が、今、本当の火になる。
駆動系の初期化。左腕、右腕、左脚、右脚。一つずつ丁寧に確認する。関節が動き、指が握られ、脚部が大地を踏みしめる準備を整える。全て問題なし。
操縦桿を通じて夜叉王の脈動が伝わってくる。血が巡るように、全身が熱くなった。若い頃の戦場を体が思い出している。あの頃の自分に、一瞬だけ戻ったような錯覚。
武装システムの確認。ブレードアーム、起動。チェーンソーテイル、起動。高出力レーザー、起動。全て待機状態。
刃が目覚めるたびに、覚悟が固まっていく。これから先、もう引き返せない。連邦市民としての穏やかな余生も、ジャンク屋の老店主という仮面も、全て捨てることになる。
構わない。そんなものは、煌の命に比べれば塵に等しい。
「さあ、狩りの時間だ」
三十年の封印を解かれた夜叉王の目が、深紅の光を放って闇夜を睨みつけた。




