第12話 鋼鉄の老匠の決意
夜が明けた。
藤堂機械店の前には、朝焼けが差し込んでいた。だがその光は、荒らされた店内を無情に照らすだけだった。
割れた窓ガラス。倒れた棚。散乱する工具とパーツ。壁には弾痕が残り、床には血痕が点々と続いている。
その中心に、藤堂鉄心は立っていた。
白髪が乱れ、服には土埃がついている。頬には殴られた痕が残り、体のあちこちが痛む。
だが老匠は微動だにせず、静かに周囲を見回していた。
煌が、いない。
その事実が、鉄心の胸を鋭く抉った。
*
あの夜のことを、鉄心は克明に覚えている。
武装した兵士たちが押し入ってきた時、鉄心は居間で茶を飲んでいた。
ガラスが砕け散る音。それが合図だったかのように、四方から影が躍り込んできた。
鉄心は72歳だ。だが、体は錆びついていなかった。
最初の一人を一本背負いで投げ飛ばし、二人目の銃を払い落とし肘で顎を打ち抜いた。三人目の腕を極め、四人目の膝を蹴って踵を叩き込む。
若い頃の訓練が、体に染み付いている。
「鋼鉄の老匠」の名は、伊達ではなかった。
しかし数が多すぎた。
電撃棒が脇腹に押し当てられた。全身に激痛が走る。
その時、二階から叫び声が聞こえた。
「じいさあぁん!!」
煌の声だった。
振り返る。階段の上で、煌が兵士に押さえつけられている。
「煌! 逃げろ!」
立ち上がろうとした。だが体が言うことを聞かない。
「対象確保。撤収」
煌は意識を失ったまま、兵士に担がれていく。その小さな体が、闇の中に消えていく。
「煌ぁっ——!!」
叫び声は、虚しく夜に吸い込まれた。
*
そして今。
鉄心は一人、廃墟となった自分の店に立っていた。
煌は攫われた。帝国の仕業だろう。連中が自分を狙っていたことは、とうに気づいていた。
息子を殺した時から。
あの日、息子夫婦を失った日から、鉄心は覚悟していた。
いつか帝国が自分を狙ってくると。いつか大切なものを奪いに来ると。
鉄心の脳裏に、過去の記憶が蘇った。
*
十二年前。
煌の両親、鉄心の息子夫婦が命を落とした日。
表向きは交通事故だった。だが鉄心には真実がわかっていた。あれは暗殺だった。
藤堂鉄心、通称「鋼鉄の老匠」。
東亜連邦「国家防衛技術局」の最高責任者として、多くの兵器を開発してきた男だ。
30年前の「ユーラシア統合戦争」。大陸は東西に分裂し、西のヴァルハイム帝国は軍事力による「秩序」を、東の東亜連邦は技術力による「自由」を掲げて七年間戦った。数千万人の死者を出した末に停戦協定が結ばれたが、冷戦状態は今も続いている。
この戦争を終わらせたのは鉄心だった。
彼が設計した防衛システム「天壁」が帝国の大規模侵攻を食い止め、その名は敵国にも轟いた。
だからこそ、狙われた。
帝国は懐柔、脅迫、誘拐、あらゆる手段で鉄心を手に入れようとした。それが叶わないと知ると家族を狙った。
息子夫婦は、帝国の工作員に殺された。残されたのは、五歳の孫、煌だけだった。
鉄心は全てを捨てた。地位も、名声も、復讐心も。
孫を守ることだけを考え、身分を偽り、辺境の町でジャンク屋の看板を掲げた。
「この子だけは守る」
幼い煌を抱きしめながら、そう誓った。
*
だが今、その誓いは——
「煌」
鉄心は拳を握りしめた。
息子を失った時と同じだ。また、守れなかった。
——いや。違う。
まだ終わっていない。煌は生きている。攫われただけだ。まだ、取り返せる。
鉄心の目に、炎が宿った。
煌を育てながら、ずっと体を鍛え続けてきた。技術を磨き続けてきた。いつか来る「この日」のために。
そしてもう一つ——
鉄心はテンのことを思い出した。
あの小さなムササビには、息子夫婦の、煌の両親の魂が宿っている。
自分が開発した「生体学習型AI」。死の間際まで、二人から学習データを取り続けた。
『お父さん、煌を——頼みます』
嫁の最期の言葉。その声は、今もテンの中で生きている。
煌にとって、テンは「家族」だ。だが鉄心にとってもテンは「息子たち」なのだ。
「行くか」
一人呟き、鉄心は地下室へ向かった。
*
鉄心は店の奥へ進んだ。壁に並んだ古い工具棚の一つに手をかけ、三番目の棚を引き出す。棚の裏側、誰にも気づかれない位置に、触覚式の暗号錠が埋め込まれている。
鉄心自身が設計した仕掛けだった。五本の指で特定の圧力パターンを入力する。指紋でも暗証番号でもない。指先の微かな震え、押し込む深さ、離すタイミング。三十年前の自分だけが知る「手の記憶」だ。
錠が応答し、壁の一部が音もなくスライドした。冷たい空気が吹き上がる。下へ続く狭い階段が、闇の中に消えていた。
一段ごとに、過去が蘇った。
三十年前、この階段を最後に降りた日のことを鉄心は覚えている。ユーラシア統合戦争の停戦協定が結ばれた翌月。七年間の戦争がようやく終わり、世界が疲弊した静寂に包まれていた頃だ。
あの日、鉄心は夜叉王を秘密裏にここへ運び、自らの手で封印した。布をかける前、最後にコックピットに座り、計器類を一つずつ手動で落としていった。
——休め。もう、お前の出番はない。
そう言って、覆いをかけた。戦争は終わった。もう二度と、この力を振るう日は来ないと信じていた。
あの時の自分は五十歳手前だった。腕にも脚にも、まだ十分に力があった。髪もまだ黒かった。背筋も真っ直ぐだった。
今は七十二歳。白髪に皺だらけの体。膝が軋み、階段を降りるだけで息が上がる。
だが拳を握ると、骨が軋むほどの力が出た。怒りが、老いた体に火を入れていた。孫を奪った者たちへの、静かな、しかし灼熱の怒りが。
階段の底に、重い鉄扉があった。鉄心はハンドルに手をかけ、全体重をかけて回す。錆びた金属が悲鳴を上げ、三十年ぶりに扉が開いた。
闇の中に、巨大な影が横たわっていた。
高さ十メートル。漆黒の装甲。鋭角的なフォルム。封じられた牙。
三十年間、布に覆われたまま眠り続けてきた機体。
鉄心は布に手をかけた。
指先が震えている。恐怖ではない。覚悟だ。
覆いを、取り払う。
埃が舞い上がる。地下室の空気が揺れる。
現れたのは、漆黒の巨人だった。
翼を持つ機体。刃のように鋭い四肢。頭部には般若を思わせる鬼面が刻まれている。
三十年の眠りを経てなお、その威圧感は凄まじかった。
「夜叉王」。
鉄心が「国家防衛技術局」の最高責任者だった時代に、己の全てを注ぎ込んで作り上げた最後の作品。
公式記録からは抹消され、存在しないことになっている幻の機体。
鉄心は右手を伸ばし、夜叉王の脚部装甲に触れた。
冷たい金属の感触。だが不思議と、その奥に温もりがあるように感じた。三十年の歳月を経てなお、この装甲の一枚一枚を自ら設計し、自ら組み上げた記憶が、掌から蘇ってくる。
「お前も待っていたのか」
低く呟いた。返事はない。だが沈黙の中に、確かな肯定があるように思えた。
三十年の眠りを経て、今、伝説の漆黒の巨人が再び目覚めようとしていた。




