006
玄関の扉を開けると、夕飯の匂いが鼻をくすぐった。
「ただいま」
返事を待たず、俺は靴を脱ぐ。そのまま二階の自室へ向かおうとしたところで、奥のリビングの扉が開いた。
「宗太。おかえり」
エプロン姿の母が、心底ほっとしたような顔で立っていた。
「今日は遅かったのね。お母さん心配したんだから」
まだ日も沈みきっていない。普通なら、心配されるような時間じゃない。
けれど、高井はいつも学校が終われば真っ直ぐ帰宅していた。だから少し帰りが遅くなるだけで、母はすぐ不安そうな顔をする。
「ちょっと、友達と話し込んじゃって」
「変なお友達じゃないでしょうね」
「大丈夫だから」
「お風呂沸いてるから、先に入っちゃってね。晩御飯はもうすぐできるから」
「うん」
風呂から上がると、食卓にはすでに父が座っていた。テレビのニュースを眺めながら、湯気の立つ味噌汁にまだ手をつけず待っている。
高井家では、夕食は必ず家族そろって食べる。
「今日は、宗太の大好物のオムライスよ」
母はどこか嬉しそうに皿を並べていく。
「いただきます」
手を合わせ、俺はオムライスを口へ運んだ。
「宗太、いきなり髪を切るのもびっくりしたし、帰りも遅いしで、何かあったの?」
やっぱり来た。
母は夕食の間も、ずっと切り出すタイミングをうかがっていたのだろう。
「父さんも、心配だ。まさか、いじめられてるんじゃ」
「いや、そんなことはないって。髪は前から切ろうと思ってただけだし」
「学校休んでまで切ることはないだろう」
「……それは、ごめん」
「今度から、少しでも帰りが遅くなる時はちゃんと連絡してね」
突然、息子の様子が変わって心配するのは無理もない。しかし、高井の両親はそれを差し引いても心配性なところがある。
幼少期、高井は病気で死にかけたことがあった。それ以来、両親は高井に対して過剰に接するようになったのだ。勉強から友達付き合いまで、何もかも把握して制御しようとする。
あの子とは付き合っちゃダメだの、あの子と仲良くしなさいだの。それもあって、高井の交友関係はひどく狭く、仲の良い友達と呼ばれる相手など、誰一人、いなかった。
「でもね、お母さん。今の髪もとっても似合ってると思うわ。そうだ。今度、その髪型に似合ってる服も買ってくるわね」
「……あはは、ありがとう」
高井が望んで手に入れたものなどこの家にはない。すべて、母親かあるいは父親が選んで買い与えたものだ。
――そんなことだから、未だに高井の好物だって知らないのだ。
確かに昔はオムライスが好きだった。けれど、今はそうじゃない。両親にとって高井は幼く病弱な高井のままなのだ。
自室に戻ると、綺麗に敷き直されたベッドにダイブした。
部屋の周りを視線でなぞる。本棚に並ぶ漫画や小説は、すべて母親が内容を確認してから購入したものだ。
時折、父親のお気に入りだった作品も本棚に追加された。テレビに繋がれたゲームもそうだった。本当に高井がやりたかったソフトなんて一本もない。
高井はこの窮屈な環境を決して良いものだとは思っていなかった。けれども、自分の反発で両親が傷つくのを想像すると、どうしても、自分の意思を伝えられなかった。
長く伸ばした髪は高井の唯一の抵抗だった。
とてもささやかで、何の解決にもならない――――くだらない抵抗だった。
ったく! 自分の部屋だというのに息が詰まる!
……羽白家はどんな感じなのだろう。アイツ、うまくやってるのかな。
せっかく、生まれ変わったのだから、羽白の人生はマシなものであってほしい。
時計の針の音だけが流れる空間では、どうしても、考え込んでしまう。
榊のことや羽白のことを。
榊が死んだという現実。高井に生まれ変わったという現実。羽白が高井本人であったという現実。
嬉しいこともあった。また榊と学生生活を送れるなんて夢みたいだ。それに、何もしてやれないはずだった人間がすぐそばにいて、力になれるかもしれないということも俺にとって救いだった。
だけど、根底にある後悔がそれで覆るわけではない。
……思考が深くなる前にテレビの電源を入れて、バラエティー番組の雑音で気を紛らわすことにした。
◇
羽白詩織の世界は教室の窓際である。羽白は休み時間になると、いつも窓の外を眺めている。
その横顔からは、何を考えているのかまるで読み取れない。
その姿はクラスメイトたちにとって、どこか神秘的で美しい絵画のように映っていた。
「羽白さん、今日も綺麗だな……。挨拶がてら、世間話でもしてみようかな……少しだけなら」
「ダメに決まってんだろ。挨拶するだけで十分だ。あの神聖な領域に俺たちみたいなのが、足を踏み入れていいわけねぇだろ」
入学当初、クラスの男子はこぞって羽白に興味を示していた。しかし、その独特の儚げな雰囲気を目の当たりにして、自分たちが触れてはいけない存在なのだと自然と思うようになっていった。
「はぁ……。また来たよ、アイツら」
少女は教室の前でたむろする他クラスの男子たちを追い払った。そして、疲れた表情で扉にもたれかかる。
「ホント、男子って懲りないわよね。羽白さんは静かに過ごしたいのに。少しでもマシに見られたいのなら、ちゃんと羽白さんの意思をくみ取るべきね」
「お疲れ~。委員長がいなかったら、今ごろ教室パンクしてるって」
「俺たちはちゃんとわかってるぜ」
「アンタらも、入学当初は最悪だったじゃない」
「……反省してます」
そんなやり取りをしていると、クラスの女子が近づいてきた。
「委員長。また、別の生徒が見学に来てるみたい。そっちは私に任せて」
「ありがとう。青野さん」
「はぁ、ゴールデンウィーク明けでもまだ、収まらないわね」
委員長はため息をつくと、肩を誰かにつつかれた。振り返ると、羽白が困ったようにもじもじしていた。
「どうしたの? 羽白さん」
「あ、あの……。やっぱり、休み時間は、どこか別のところに隠れていようかなって……」
「前にも言ったでしょ。ここはあなたのクラスなんだから、そんなことは気にしなくていいのよ」
「でも……桐野さん、ちょっと、疲れているみたい……だし。私のせいで……」
「羽白さん……! 大丈夫、今ので疲れも吹っ飛んじゃった。さっ、私のことは気にしないで席に戻って」
「え、でも」
「はいはい、わかってるから」
委員長は半ば強引に羽白の背中を押した。
「くぅ~! 可愛い! 羽白さん! あんな可愛い表情で、私を気遣ってくれるなんて……学級委員長になって良かった~!」
周囲の生徒たちは、揃って聞こえないフリをしていた。




