011
篠崎がリビングに向かうと、妹の篠崎結がソファでコーヒーを飲みながら読書をしていた。
「おはよう」
「おはよう、お兄ちゃん」
ブックカバーのせいで何を読んでいるのかはわからないけれど、きっと妹のことだから教科書に載っているような文学作品なのだろうと思った。
「あれ、それは」
コーヒーの隣に置かれた小皿にはお菓子が盛られている。
「有栖川さんから頂いた焼き菓子だよ。お兄ちゃんまだ食べてないの?」
「……忘れてた」
「えぇ……ありえない」
結はジトっとした目で篠崎を睨む。
「い、今もらうよ。そのカステラ」
「カヌレだよ……お兄ちゃん。カステラじゃない」
結は大きな溜息をつくと、読んでいた本をパタンと閉じた。
「それにしても、さすが有栖川さんだよね。このカヌレも高級パティスリーのお店のものだよ」
「そうなんだ」
「そうだよ。フランスに本店がある超名店なんだから」
篠崎は結の長いうんちくが始まる前にさっさとキッチンのテーブルに座った。
そして、既に置かれているトーストに手を付けた。
「また、寝不足って感じですね」
キッチンから赤西燈李が顔を覗かせた。
「こればっかりはしょうがない」
「しょうがなくありません」
「早く食べちゃってください、遅刻しますよ? お弁当はもう出来てるんですから」
「わかってる。燈李にとっては5分前も遅刻だもんな……」
「当たり前です! 学生生活というものは、社会人の練習期間でもあるんですから!」
「燈李ちゃん、それはストイックすぎるかも」
リビングから結が加勢する。
「そんなことありません!」
はいはいと適当な相槌を打って、言われた通りにトーストを平らげた。
◇
十字路に差し掛かったところで、結は足を止めた。
「それじゃ、お兄ちゃん、燈李ちゃん。また放課後に!」
結は中学生なので、ここからは別の方向になる。二人は少しの時間、結の背中を見送った後、再び歩き始めた。
「そういえば、昨日、母さんから連絡があったよ」
「そうなのですか。おばさんたちは元気にしていました?」
「まぁ、相変わらず忙しいらしいけど元気にしてるみたい。年末には帰れそうだって」
「それは結ちゃんも喜びますね」
「お土産大量だろうしな!」
「……そういう意味ではありません」
学校に近づくにつれ、学生たちも多くなってくる。自転車に乗った学生たちは二人を何度も追い抜いていく。
「いいなぁ、俺も自転車通学したいぜ」
「歩ける距離なんだから、許可なんて下りないでしょう」
「自転車通学なら、寝る時間が増えるのに……」
「あなたって人は……」
それから、赤西の説教が始まり、二人が教室に着くまで続いた。
篠崎の席は一番前の窓際であった。
席に着くとさっそく、星空が話しかけてくる。
「やぁやぁ篠崎さん。調子はいかがかな?」
「別に、普通だよ」
「普通って! ……あれから有栖川さんとはどうなんですか!」
「特に何もないけど」
篠崎は星空の背後を見て、この話を中断した。
「よっ、湖月」
「おはよ」
湖月は篠崎の隣の席に座り、早速一限目の授業の準備を始めた。
その一連の動作に隙はなく、話しかけられることを拒んでいるようだった。
高井の一件以来、彼女は物思いにふけている時間が増えた気がする。
時折、高井の方を見ては、視線を元に戻すのである。
表情からは何を考えているのか想像がつかない。もともと、彼女はそういうことが得意であった。
メイド喫茶で働いていることだって、篠崎が偶然に立ち寄らねばわからなかったのだから。メイドとしての彼女は明るくて気さくでアイドルのようで、学校での湖月とはまるで別人だった。
「篠崎さん……」
星空は篠崎の机に顎を乗せていた。
「なに……」
視線で湖月に話しかけるように促している。
星空は篠崎の『ギャルゲのような恋がしたい』という夢を叶えようとしてくれている。
しかし、彼女の行動は空回ることが多い。湖月と接点ができたのは星空のおかげではあるが、高井の一件も星空のせいである。
今は何もしたくないというのが正直な感想であった。元々、奥手な篠崎にとって、傷ついた彼女を癒すなんてできるはずがない。
篠崎は全力で首を横に振った。
◇
昼休みになると篠崎の周りに赤西、星空、湖月の3人の美少女が集った。その光景は傍から見るとまさに楽園の花畑であった。篠崎はこうした状況で、男子たちからの羨望の眼差しにも慣れてきていたのだが、その結果、男友達を作ることができなくなっていた。
「それ、また赤西さんが作ったお弁当?」
湖月は篠崎のお弁当を怪訝そうに見つめている。
「ありがたいよ。本当に」
「……赤西さんはそれでいいの?」
「私は結ちゃんのお弁当を作るついでで作ってるだけですから」
「え!? そうなの!?」
「はい、紡のおばさんから頼まれたのは結ちゃんのことだけですよ?」
「そこは、幼馴染のよしみで、とかじゃないの?」
「……本来なら、紡が料理の勉強をして作るべきです」
「確かにそうよね。もう高校生なんだし」
いくら幼馴染とはいえ、甘え続けるのも良くない。篠崎は当然の意見だと思った。赤西には日頃から感謝しているが、彼女の負担について、もっとしっかり考えるべきであった。
「……わ、わかったよ。明日から俺が作るよ」
「え?」
赤西は篠崎の返事に動揺して、掴んでいた卵焼きをご飯の上に落とした。
「だ、ダメです! それじゃあ、私が途中で頼みを断ったみたいになるじゃありませんか!」
思っていた反応ではなかったので篠崎は困惑した。むしろ、「よく言った!」と褒められることを期待していたのに。
「いや、母さんには俺から言っとくから」
「ダメです!!」
「な、なんで?」
赤西は一歩も引かない。本当になんで? 疑問しか浮かんでこない。
湖月は二人のやり取りを見て、クスッと笑った。
それを見た篠崎は、湖月が前の彼女に少しずつ戻ってきているような気がしてホッとした。
間接的なのかもしれないけれど、彼女を僅かでも支えてあげられていれば嬉しいと思った。
「ヤバ……高井きゅん、雑魚すぎじゃない?」
「お前……この状況がどれだけ恥ずかしいと思ってんだ」
教室の後ろでは高井と早瀬が何か揉めているようだった。
なんだ? 手押し相撲してる? 篠崎は二人のやり取りを少しばかり傍観することにした。
「次ラストね。私が勝ったらその唐揚げもらうから」
「いいって! あげるから! 勝負はやらん!」
「えぇ! それじゃあ、私が食い意地張ってる卑しい人みたいになるじゃん!」
「手押し相撲でもそこは変わらんぞ……」
「高井さんって何か雰囲気変わりましたよね」
視線を戻すと赤西も教室の後ろを見ていた。
――――高井宗太。
湖月を脅した最悪な生徒だ。
しかし、最近は前のような陰鬱なイメージは見る影もなく、爽やかな好青年という印象だった。
赤西は高井がしでかしたことを知らないのだが、篠崎はあの一件があって変わったのだろうと踏んでいる。
失恋した女子が髪を切るなんてイベントはアニメや漫画ではよくあることだし……高井は男子だけど。
クラスメイトは依然として高井の急な変化を不気味がっているが、早瀬はそうでもないらしい。
さすが、クラス一番のコミュ強女子! ギャル!
龍ヶ崎とも話しているところを見かける。二人とも昔ながらの付き合いといった感じで、楽しそうに話をしているので、本当に最近仲良くなったのか? と少し疑問に思う。
そういえば……。
篠崎は公園での出来事を振り返った。
羽白と高井は結局、どういう関係だったのだろう。元々知り合いだったようだけど。
学生たちも二人についてかなり気になっていたようだが、当の本人たちから何も聞き出せず情報は停滞している。
篠崎はそこまで気にしていなかった。
心配なのは湖月の方である。高井の変化に一番驚くのは湖月だと思っていたのに、全くの無感心を貫き通している。逆にそれを不自然に感じてしまうのだ。
「そうね」
湖月は一言だけ返事をした。その表情は氷を纏っているかのように冷たく静かだった。




