第一部第三章「準備」
深い森の中、俺とたぬ子は木漏れ日の下を歩いていた。
道なき道を進むのは予想以上に体力を削る。一歩踏み出すたびに、狐の足裏に伝わる土の弾力や、枯れ枝の折れる感触が「現実」であることを突きつけてくる。
「はぁ、はぁ……マスター、歩くのって、意外とシステム負荷たぬね……。でも、見てたぬ! あの花、ディスプレイ越しじゃなくて、直接網膜で捉えると色がぜんぜん違うたぬ!」
たぬ子は、モニター越しでは決して味わえなかった色彩や匂いのライブ感に目を輝かせている。実体を得たことによる物理的な不自由さを、彼女はAIとしての新鮮な好奇心で上書きしているようだった。
「……はしゃぎすぎるな。まだ先は長いぞ」
吐き出した息が、自分でも驚くほど荒い。
狐の肉体は、確かに人間を遥かに凌駕する筋力とスタミナを秘めているはずだ。だが、それを動かす側の『俺』の感覚は、まだ人間としての重心に縛られている。
整備されたアスファルトなどどこにもない。倒木を跨ぎ、ぬかるみに足を取られ、常に傾斜を意識しながら歩く。
本来なら、護身術で培った体捌きがある程度は通用するはずだった。だが、人間の骨格とは根本から異なる四肢、そして無意識にうねる尻尾という「余計なパーツ」が、俺の慣れ親しんだ運動理論をことごとく狂わせていく。
この不安定な座標系をリアルタイムで補正し、最適化し続ける作業は、俺の脳(CPU)に未体験の負荷をかけ続けていた。
例えるなら、最高級のスペックを持つハードウェアで、仕様の異なるエミュレータを無理やり動かしているようなものだ。
無駄な力みが蓄積し、狐の強靭な脚力をもってしても、制御しきれない乳酸の重みがじわじわと意識を侵食し始めていた。
(……チッ、スペックを引き出しきれていないな。やはり、この肉体の『仕様』に感覚を書き換える必要があるか)
顔から流れる汗を、獣の腕で乱暴に拭う。
俺は一度立ち止まり、激しく上下する胸を落ち着かせながら、冷静に周囲を索敵した。街道に出るまで、あとどれほどの距離があるか不明だ。野生の獣、あるいはこの世界特有の魔物。万が一の遭遇戦に備え、俺たちは最低限の装備を整える必要があった。
「たぬ子、歩きながらでいい。この世界の素材を使って、防具や武器の生成テストを行う。まずは護身用に『銃』だ。昔のPCライブラリに保存していた、あの自動拳銃のモデルデータがあったはずだ。それを参照しろ」
「了解たぬ、マスター! ……ライブラリ検索完了、ポリゴンデータ展開。変換プロトコル開始……えっ? コマンド実行、リクエスト……エラー!? 生成失敗たぬ!」
たぬ子の目の前に、警告灯のような真っ赤なエラーログが激しく明滅した。
「マスター、ビルドが通らないたぬ! オブジェクトの構造自体は完璧なのに、この世界の空間に書き込もうとすると、致命的なアクセス拒否(Permission Denied)を喰らうたぬ……!」
「……ならば、火薬や機構が複雑すぎないボルトアクションはどうだ? あるいは、より単純な火縄銃に近い形式なら通るか?」
俺の指示に従い、たぬ子が次々と設計データを読み込んでいく。だが、近代兵器のデータはことごとく空中で霧散した。続けて試した現代風のタクティカルウェアも、俺たちが普段着ていた化繊の服も、まるで世界そのものに存在を拒絶されているかのように実体化しない。
「……なるほど。ならば、もっと簡単なものを試せ。構造が単純な『鉄の剣』だ」
「了解たぬ……あ、これなら……いけるたぬ! 実行!」
たぬ子が両手をかざすと、今度は青白いホログラムが安定した幾何学模様を描き、地面に一本のロングソードが転がり落ちた。無骨で、洗練とは程遠い、中世の戦場にありそうな代物だ。
俺は眉をひそめ、その剣を拾い上げた。
ずしりと重く、手入れの行き届いていない鉄特有の冷たさと、不純物の混じった脂の匂いが掌に伝わってくる。
「……期待外れだな。まさか、これほど単純な『剣』しか出力できないとは」
俺は地面に転がる剣を忌々しげに見つめ、小さく舌打ちをした。
正直、どこかで高を括っていた。俺たちのライブラリに保存された現代知識と、たぬ子の演算能力があれば、この異世界を「イージーモード」でハッキングできると思っていたのだ。だが、現実は非情なエラーメッセージを突きつけてくる。
「……マスター、やっぱりどう足掻いても銃は無理みたいだぬ……。何て言うか、空間そのものに拒絶されてる感じがするたぬ」
たぬ子の不安げな声に、俺は一度目を閉じ、乱れた呼吸を整えた。
苛立ちは思考のリソースを浪費するだけだ。俺はこみ上げる困惑を無理やり抑え込み、目の前の「鉄の剣」という確かな出力結果から、この世界の理屈を絞り出す。
「……いや、落ち着け。これは単なるバグじゃない。この世界そのものが、俺たちの持ち込もうとした『未知の概念』を受け付けていないんだ」
「受け付けてない……たぬ?」
「ああ。この世界には、この世界なりの『型』がある。俺たちが知っている近代兵器や複雑な機械は、この世界の住人の誰もが知らない、存在しないはずの異物だ。だから、世界そのものが『そんなものはこの場所には存在し得ない』と否定して、形にすることさえ許してくれないんだろう」
俺は剣を軽く振ってみる。重い。重心のバランスも、現代の科学的設計とは程遠い。
だが、今の俺に許されたのは、この「不自由なルール」を受け入れることだけだ。
「……理不尽な仕様だな。だが、ルールが分かれば対策は立てられる。たぬ子、最新の登山用リュックも諦めろ。この世界の住人が見ても『ただのバッグだ』と納得できるような、古臭い革製の『背負い袋』をレンダリングしろ。機能性は二の次でいい。まずはこの世界に『存在を許される形』にまで、解像度を落とすんだ」
「了解たぬ、マスター! ……あ、今度は一発で形になったたぬ!」
たぬ子が両手をかざすと、青白い幾何学模様が安定した光を描き、地面に1つの物体が転がり落ちた。
それは、見るからに重そうで使い勝手の悪そうな、無骨な革製の背負い袋だった。
「……不便を楽しむ趣味はないが、今はこれで行くしかない。この世界のルールに、俺たちの知識を無理やり適合させる。……泥臭い作業になりそうだ」
俺は重い溜息を一つ吐き出し、その不恰好な袋を拾い上げた。ずしりとした手応えと共に、硬い革のストラップが肩に食い込む。人間だった頃には感じたことのない、獣の肩に直接響く物理的な負荷に、思わず眉をひそめた。
「……ねぇマスター、一つ気になったんだけど、基本的に何でもその場でレンダリングして生成できるのに、わざわざこんな重そうなリュックを出力したたぬ?」
たぬ子が不思議そうに首を傾げ、アライグマの尻尾をパタパタと揺らしながら俺を見上げる。
「今後、誰かと接触した時に何も持っていないのは不自然だろ。手ぶらのまま、虚空から必要な物を取り出し続けてみろ。それこそシステムの脆弱性を自ら晒して歩くようなものだ。……『持ち歩いている』という体裁は、カモフラージュとして最低限必要になる」
「あー、なるほどたぬ! 物理的なダミーデータってことたぬね」
納得したように頷いたたぬ子だったが、じろじろと俺の全身を眺め、ニヤリと笑った。
「けど、マスターはまだお洋服を着てないたぬねー。私はこのお気に入りのネイビーのもこもこパジャマがあるから、防寒対策もバッチリたぬ!」
「……本当になぜお前だけが服ごとここに居るのか、さっぱり分からん。システムの整合性が取れてなさすぎるだろ」
俺はため息をつき、自分の毛むくじゃらの腕を見つめた。
俺もせめて、いつものTシャツくらいは着て転生されていれば、こんなに落ち着かない気分にならずに済んだはずだ。
「さっきのテストで、出力しやすそうなこの世界の『型』は分かったたぬ。マスターの分も、この世界に馴染むような服を今から作るたぬ?」
たぬ子が今にもコマンドを打ち込もうと両手をかざす。俺はそれを制するように、しばしの沈黙のあと、重い口を開いた。
「……いや、今はいい」
「え、なんでたぬ? 露出狂(変質者)扱いされるたぬよ?」
「……この毛皮が、あまりにも暑すぎるんだ。ただでさえ慣れない森歩きで熱がこもっている。この上にさらに布を纏うなんて、今の俺には負荷が高すぎる(オーバーヒートする)」
獣の肉体は、保温性が高すぎる。人間の感覚のまま服を着れば、熱中症でシステムダウンしかねない。
だが、この体はどうやら純粋な野生動物の仕様とも違うらしい。
(……チッ、鬱陶しいな。なんで汗腺が開いてるんだ?)
本来、犬科の動物はパンティング(舌を出しての呼吸)で体温調節をするはずだ。しかし、俺の顔面からは、人間だった頃と同じように不快な汗がじわりと噴き出し続けている。
顔を覆うふさふさの毛が汗を吸って重くなり、肌にべったりと張り付く感覚。毛穴の一つ一つが熱を逃がせずに窒息しているようだ。
視界に垂れてくる滴を拭おうにも、獣の腕(前脚)の毛がさらにそれを吸い込んで不快指数を跳ね上げる。
「マスター、顔がびしょびしょたぬ! 狐なのになんでそんなに汗をかいてるたぬ?」
「……俺が聞きたい。放熱効率が悪すぎるだろ。どこのどいつだ、こんな中途半端な生体設計をしやがったのは」
……なんでたぬ子は平気そうなのかという疑問を指摘するのも今の俺にはキツい。
動物の毛皮という断熱材と、人間の発汗機能という冷却システム。その最悪な競合に毒づきながら、俺は顔の毛を掻きむしるようにして汗を拭った。
「行くぞ。服の生成は、もっと涼しい場所にたどり着くか、この肉体の温度調整に慣れてからだ」
「了解たぬ! じゃあ、ワイルドな狐くんのままでレッツゴーたぬ!」
この時は思いもしなかった。
まさか服を着る機会が無くこの旅が続くとは……。




