第一部第二章「ローカル環境でのテスト実行」
たぬ子が「致命的エラーたぬ!」とパニックを起こして騒ぎ立てるのを横目に、俺は鋭敏になった狐の五感で周囲をスキャンしていた。
木々のざわめき、遠くの鳥の鳴き声。そこまでは普通の森だ。だが、何かが違う。空気に『微細な振動』が混じっている。狐の毛先が、静電気を帯びたようにチリチリと逆立っていた。
(ただの静電気じゃない。一定の周波数を持って流れている……まるで、基板の上を走る交流電流か、データバスの信号みたいだ)
目に見えないエネルギーの波を直接「感知」できている自分自身に、俺は内心で驚きを隠せなかった。
同時に、かつてネットの雑学で読んだ知識が脳裏をよぎる。現実世界の狐は、地球の磁場を感じ取り、雪の下に潜む見えない獲物を正確に捕捉する特殊な狩りの習性を持っていたはずだ。
(なるほど。この異常なまでの空間把握能力は、単なる魔法やチートじゃない。この『狐の肉体』に元から備わっている生体センサーの機能か)
自身のスペックを論理的に理解した俺は、さらに思考を推し進めた。この世界に満ちている未知のエネルギー――ファンタジーでいうところのマナや魔力は、現実世界の『電力』と極めて似た性質を持っているのではないか。
「おい、たぬ子」
「は、はいたぬ! 現在システム修復中……いや物理ボディの重心バランスが取れないたぬ……!」
「落ち着いて自分の内部ログ(ステータス)を見ろ。お前のその体、今何のエネルギーで稼働している?」
俺の冷静な声に、たぬ子はビクッと震え、自身の内側に意識を向けた。
「……未知のエネルギーソースたぬ。でも、極めて安定した電圧が、外部からワイヤレス充電のように供給され続けているたぬ……」
「やはりな。そのエネルギーの波形を、お前のシステムの電力規格にマッピングしてみろ。強引に変換できるはずだ」
言われた通り、たぬ子が空間に漂うエネルギーを意識的にシステムへ流し込む。すると、彼女のしましまの尻尾の先が、チカチカと青白く発光し始めた。
「……波形パターン解析……一致! 魔力から電力への仮想変換プロトコル、確立したたぬ! OS動作安定。ローカル環境での実行権限、オールグリーンたぬ!」
たぬ子の声に、AI特有の無機質な響きが少しだけ戻る。
「やはり、俺の考察は合っていたか」
俺は安堵の息を一つ吐き、狐の耳をピンと立てて周囲の音を探った。今のところ異常な接近音はない。
「次はお互いの状況整理をしよう。この空間の魔力が電力として代替利用できることは分かった。だが、問題は『俺たちの手でどこまで扱えるか』だ」
「どこまで、たぬ?」
「ああ。ここは得体の知れない森の中だ。いつ未知のバグ……いや、猛獣や魔物に襲撃されるか分からない。もし襲われた時に、俺たちのステータスで何の対処もできないなら、即ゲームオーバーだからな」
俺の言葉に、たぬ子はブルッと身を震わせ、アライグマのしましま尻尾をギュッと抱き寄せた。
「だからこそ、まずは『知ること』が大事だ。パニックにならず、落ち着いてお互いの出来ること、手持ちのリソースを確認しよう」
「わ、わかったたぬ。今の私は、自分のシステム領域に直接アクセスできる感覚があるたぬ。魔力の供給も安定してるたぬ」
俺は一つ頷き、足元を見た。
「なら、その魔力を使って、現実世界でのお前の基本機能――プログラムのコマンドが、この世界の物理法則にどこまで干渉できるか仮定して検証する。……よし。まずは一番シンプルでリスクの低い処理のテスト実行だ。そこにある落ち葉を『複製』してみろ」
「了解たぬ! コマンド入力……『cp leaf_01 leaf_02』……実行!」
たぬ子が短い腕を前方に突き出すと、空中に青白い幾何学的なホログラムのUIが展開された。
光が収束し、地面に落ちていた一枚の枯れ葉の隣に、全く同じ形状、同じ虫食いの跡まで再現された枯れ葉がポンッと生成される。
「……マジか。本当に物理的にコピーしやがった」
俺は生成された葉を拾い上げ、寸分違わぬ構造を確認して息を呑んだ。
「たぬ子、今の処理でリソース……いや、魔力はどれくらい消費した?」
「えっと、内部ログを確認するたぬ。……消費マナ、全体の約0.0001パーセントたぬ! しかも空気中の魔力(ワイヤレス充電)で、もうすでに100パーセントに回復してるたぬ!」
「なるほど。既存のオブジェクトの複製は極めて低コストというわけか。なら、次はゼロからの生成だ」
俺は何もない空間を指差した。
「そこに、簡単な道具……例えば、水を汲むための木のコップを作ってみろ。設計データは俺のPCに入っていた3Dモデリングの基礎データを参照していい」
「了解たぬ! 新規ファイル作成、マテリアル『木材』を指定してレンダリング実行……『generate object: cup.obj』たぬ!」
たぬ子が両手をかざすと、今度は先ほどよりも少し長めにホログラムが明滅した。空中にポリゴンのような枠線が編み込まれ、そこに質感が貼り付けられていく。そして数秒後、ポンッと実体を持った木製のコップが地面に転がった。
「……できた。手触りも質量も完璧な木のコップだ。こっちの消費はどうだ?」
「ええと……全体の0.05パーセント消費したたぬ! さっきよりは重い処理だったけど、これもすぐにフル充電に戻ったたぬ!」
「無からの生成でもその程度のコストか。……検証は十分だ」
俺は生成された木のコップを指先で軽く弾き、コンッと小気味良い音が鳴るのを確認してから、それを地面に置いた。
「たぬ子、よくやった。これなら当面の水や食料の確保、それに野営の備品には困らないだろう」
「えへへ、任せるたぬ! こっちの世界でもマスターの快適な異世界ライフは私が完全サポートするたぬ!」
誇らしげにしましまの尻尾を揺らすたぬ子を見つめながら、俺は冷静に現状の優位性とリスクを計算していた。
既存のオブジェクトの複製と、基礎データからの創造。これがローカル環境下において、ほぼノーコストで実行できるのであれば、俺たちの生存確率は飛躍的に跳ね上がる。
だが、手放しで喜ぶべき状況ではない。プログラムやネットワークの常識で考えれば、どんなシステムにも必ず『処理の上限』や『管理者による監視(ログの記録)』が存在するはずだ。俺たちが無尽蔵にリソースを生み出せるという異常性が知られれば、この世界の強者や治安維持組織に目をつけられるのは火を見るより明らかだった。
(たぬ子の能力は、いわばこの世界の物理法則に直接アクセスできるデベロッパー(開発者)権限に近い。強力だが、エラーや競合を起こせば自分たちの身を滅ぼす)
ただ闇雲に能力を使って無双してやろう、という短絡的な思考は俺にはない。俺が第一に求めるのは、無用なトラブルを避けた「安全で確実な生存戦略」であり、なぜ自分たちがこんな状況に陥っているのかという「バグの解明」だ。
「たぬ子、今のうちに行動ルールを一つ設定しておく。今後、俺の明確な指示がない限り、人前での目立つコマンド実行は一切控えること。まずはこの世界の『一般的な技術水準』と『社会のルール』を知るのが先決だ」
「了解たぬ! バックグラウンド処理でのステルスモード、設定オンにするたぬよ!」
「よし。なら行くぞ。まずは街道に出て、人間の街を探す。この世界の『仕様』を解析するのは、安全な場所で十分なデータを集めてからだ」
かくして、冷静な判断力を持つ狐と、強力なシステム権限を手に入れた狸は、慎重な足取りで鬱蒼とした森の奥へと歩き始めた。




