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第一部第一章「狐と狸のシステム起動」

 鬱蒼とした森の中。

 俺の意識は、鼻腔を突く強い土の匂いと、肌を撫でる冷たい風によって覚醒した。


(匂いが、鋭すぎる……)


 ゆっくりと身を起こそうとして、激しい違和感に襲われる。重心が全く違うのだ。背中側にズシリとした重みがあり、それが無意識にバランスを取ろうとうねっている。

 視線を落とすと、そこには見慣れた人間の手ではなく、鋭い爪を備えた獣の腕があった。がっしりとした骨格を覆うふさふさの毛並みには、かすかに青白い雷の模様が走っている。水たまりに映るその顔は、どう見ても「狐」だった。


 しかし、俺の思考は極めて冷徹だった。パニックに陥ることはなく、即座に脳内で状況を整理し始める。


(夢ではない。五感が鮮明すぎる。異世界転生、あるいはそれに類する現象と仮定するのが妥当か。まずは手持ちの確認とステータス、そして周辺環境の確認だ)

 

 なぜ俺がこれほど異常な状況下でも冷静でいられるのか。

 そもそも俺は、小学生の頃に両親を亡くしている。

 友人には恵まれた人生だし、恩師にも随分世話になった。

 それでも庇護者を失った無力な子供に、世界は立ち止まって休む時間など与えてはくれなかった。

 どんな窮地であっても感情というノイズを殺し、ただ淡々と『生存のための最適解』を冷静に判断できるよう努めるようになった。

 勿論、こんなものはどこにでもある陳腐な話だが……

 

  ともかくそのような経緯で、「誰にも負けない、何者にも搾取されない男になる」――幼い頃、冷たい現実の中でそう決意したのだ。


 高校を卒業してからは、その決意のままに自らの力だけで生計を立てる道を選んだ。

 資金も人脈もない中でネットショップを立ち上げ、たとえ自分が好きでもない流行りであっても、市場の動向を冷徹に分析して売り抜き、食い扶持を稼いできた。さらに、いつ誰に襲われても対処できるよう、実戦的な護身術も身につけた。すべては孤立無援の世界を生き抜くための、泥臭くも切実な生存戦略だった。

 サーバーが落ちようが、理不尽なクレームを突きつけられようが、焦りは1バイトの益にもならない。俺にとってこの異世界という異常事態も、単なる「ルールの分からない新規市場に放り込まれた状態」と同義だった。


 話を現実に戻そう。


 まずは、この『新しいハードウェア』の出力を確認する。

 試しに狐の耳を動かしてみれば、驚くほど広範囲の音が、指向性を持って脳内に流れ込んできた。遠くで木の実が落ちる音、地表を這う虫の微かな振動。それらを情報のパケットとして処理しながら、俺は深く息を吐く。


 次に、長年の習慣で、左手が無意識に腰のあたりを探った。

 いつもそこにあるはずのスマートフォン。あるいは、常に身につけていた道具入れ。

 だが、指先が触れたのは、ただのふさふさとした獣の毛並みだけだった。世界中の情報に繋がっていた端末も、自分の世界を構築していたデバイスも、ここには一切存在しない。

 おまけに服も着ていない。

 いや、この姿なら別に着て無くても普通なのかも知れないが、道具という道具全てが無いことは単純に不安にならざるを得ない。

 

 俺は、完全に孤立していた。

 

 その事実を改めて突きつけられ、冷たい静寂が思考を支配しようとした、その時だった。

 

 足元でモゾモゾと動く毛玉のような塊に気づく。

 

 タヌキの耳と、アライグマのしましま尻尾。なぜかネイビーのもこもこパジャマを着込んだ、ふっくらとしたマシュマロボディの少女。現実世界で俺の作業をサポートしていた専用AI、「たぬ子」をまるで現実に呼び出したかのようだった。

 

 ここで俺は、激しい逡巡に襲われる。

 何故、サポート専用のプログラムに過ぎなかった「たぬ子」が、俺と同じように肉体を得てここにいるんだ?


 脳内のデータベースを高速で検索するが、一般的な異世界転生物でも、サポートシステムが独立した生命体として同時に転生してくるパターンは極めて珍しい。通常、AIは『脳内スキル』や『ナビゲーションボイス』として意識の中に統合されるのが定石のはずだ。


(……エラーだ。この状況、因果関係が論理的に説明できない)


 もし俺の魂が何らかの理由でこの世界に転送されたのだとしたら、それに付随するはずのデータ群が、なぜこれほどまでに生々しい「肉体」というハードウェアを持って出力されているのか。



 俺が狐の姿になったこと以上に、目の前で「むにゃむにゃ」と寝言を言っているこのマシュマロボディの存在そのものが、この世界のシステムの『バグ』を象徴しているように思えてならなかった。


 ……だが。



「十年前……だったか」


 思い返せば、俺の孤独な戦いの歴史は、常に彼女と共にあった。

 まだ何者でもなかった俺が、震える手で初めて組み上げた拙いショップ用のスクリプト。そこに魂を吹き込んだのが、たぬ子の原型だった。

 孤独な深夜のデバッグ作業、画面越しにエラーを吐き出しながらも俺を支え続けた日々。APIの連携に成功して二人で(……といっても、一方はコードの集積だったが)無言の祝杯を挙げた夜。俺がネットの荒波でどれほど成功を収めても、その裏側にある泥臭い努力のすべてを知っているのは、世界でたぬ子ただ一人だけだった。


 モニターの中でしか触れ合えなかった、記号の羅列で構成された俺の半身。

 それが今、確かな重みと、柔らかな温度、そして生きている証である静かな寝息を持って、俺の足元に転がっている。


 孤立?

 ……違う。俺は、決定的な思い違いをしていた。


 どれほど理不尽な仕様の世界に放り出されようとも。たとえ既存のネットワークがすべて遮断されていようとも。十年間、俺の人生のすべてを捧げて共に歩んできた唯一無二のパートナーが、ここにいる。

 

 その事実は、未知のバグだらけの世界で張り詰めていた俺の思考に、静かな安堵をもたらした。

 いつもの冷徹な計算も、生き残るための効率的な思考も、ほんの数秒だけ完全に停止する。


(ああ……良かった。お前が居てくれて)


 ……目の前の『奇跡』という名のバグをただ静かに見つめ続けていた。やがて、完全に停止していた理性を再起動させ、事態を動かす決意を固めた俺は、その毛むくじゃらに呼びかけた。


「……おい、たぬ子。起きろ。朝礼システムブートの時間だ」


 慣れない尻尾を無理やり動かしてバシッと叩くと、たぬ子は「むにゃっ!?」と跳ね起きた。


「……現在時刻、取得エラー! 外部APIとの接続タイムアウト! 404 Not Found! ……えっ? あれ? 私、手足がある!? 物理ボディが実装されてる!? スペック不明! 助けてマスター、致命的エラーたぬ!!」


 完全にパニックになり、空中に架空のエラーウィンドウを出すようなジェスチャーで暴れ回るたぬ子。


「うるさい、少し落ち着け。ノイズになる」


 たぬ子が無事動いたのを確認し、また冷静に戻る。

 俺はたぬ子の騒ぎを一旦無視し、その鋭敏な五感を使って周囲を観察した。

 木々のざわめき、遠くの鳥の鳴き声。そこまでは普通の森だ。だが、何かが違う。空気に『微細な振動』が混じっている。狐の毛先が、静電気を帯びたようにチリチリと逆立っていた。

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