65.
ぼくが意識を取り戻したのは、五日後のことだった。
「自分は誰なのか?ここがどこか?分かりますか?」
起きるなり、草四郎に尋ねられた。
「……渋沢征、22歳。ここはアガミの本家だ」
ぼくはゆっくりとそれに答えた。
体が元に戻っている。
アリアの姿ではない、ぼく自身の体だ。
馴染みの部屋。
ぼくは畳に仰向けに倒れ、天井を見上げていた。
小母さんの煮物の匂いが、台所から漂って来る。
ここは現実だ。
ここは本家の客間だ。
生きている。
戻ってこれた。
その事実がじんわりと染み込んできた。
「おかえりなさい。五日ぶりです」
草四郎はぼくの無事を喜んでいた。
しかしその声には、微かな呆れが含まれている。
「……そんなに寝ていたのか?」
五日寝通しだった?
それにしては、おかしい。
トレーナーにジーパン。ぼくはしっかりと洋服を着ている。
そんなに空腹でもない。ヒゲも綺麗にあたられていた。
「のどが痛い……」
言った途端に咳き込んだ。
声がひどく掠れている。
すると草四郎が信じられないことを言い出す。
「声がかれるのも、当然ですよ。あなたは歌い通しだったんだ」
「歌?まさか?ぼくがか?」
一片たりとも、そんな記憶はない。
「あなたはずっと、ミカさんに憑かれていたんですよ」
あの世界で、ぼくは心臓を打ちぬかれた。
死ぬばかりのぼくを、生かしたのはミカさんだった。
あの場所に満ちていた水を、そしてミカさんの一部をぼくに注ぎ込んだ。
そして傷口は塞がれた。
ぼくとミカさんの境界は、曖昧になった。
現実に戻ったぼくは、ミカさんとして、ミカさんの意識で。
朝も昼も、歌い、笑い続けた。
「食べさせて、寝かしつけるのが一苦労でした。ミカさんは加減が分からないんです。人の体をもったことがないから」
草四郎が苦笑する。
知らぬ間にぼくは、過労死させられるところだったらしい。
そして混乱は拡大した。
ミカさんの歌は、ぼくひとりの器には収まり切らなかった。
津波のように押し寄せる、声、声、声……。
アガミの術士たちは、ミカさんの声の渦に飲み込まれた。
「一族あげての乱癡気騒ぎですよ。酒も飲まずに、夜通しみんなで歌って踊って……」
ずっとみんなの世話をしていたせいで、ヘトヘトだ。
草四郎がボヤく。
震源地であるぼくのすぐ横、いわば台風の目の中にいた草四郎は、ひとり正気を保っていたらしい。
興奮と喜び、今は亡き花たちに向けた嘆き。
喜怒哀楽のすべてを込めて、奔放に、切々と、ミカさんは歌った。
いくつもの旋律を織り交ぜて、大音量で。
普段のミカさんは、遠くから囁く。
ぼくらは、耳を澄まして聞きとらねばならない。
だが今回の歌は、こんこんと湧きいでて、大きく響いた。
ぼくもひとつの旋律だった。
大合唱は三日三晩続いた。
長い祝宴が終わって、みんなそれぞれの家に帰った。
そしてぼくは気絶するように眠り、いま目覚めた。
「それで?ミカさんは、何を伝えてくれた?」
草四郎に尋ねた。
音の奔流。
ミカさんの言葉は、書き留めることはできない。
耳にした術士から、口伝えに聞くしかないのだ。
「ただの歌ですよ。感傷的で、他愛もない」
こんな時でも、ミカさんは変わらない。
聞くものが欲しがる言葉など、与えてくれたためしがないのだ。
「意味のある言伝は一つだけ。あなたのことでした」
歌い続けて、最後にミカさんは、こう言い残して姿を消した。
『”この花”は水底で眠る。しばらくの間』
ミカさんは続けて言った。
『だからセイくんには、新しい花の名前をあげてね』
安堵と落胆。
ふたつの感情が同時に押し寄せた。
“この花”は散るはずだった。
ぼくは父から継いだその名を捨て、生き延びた。
「ぼくらは、終わらせることができたんだろうか?」
先代から続いた咎を断ち切ることが出来たのだろうか。
「きっと」
草四郎は晴れやかな顔で言った。
そして“この花”は眠る。
ミカさんは気が長い。ミカさんの言う”しばらくの間”は、永遠に等しい。
きっとこの世の終わりまで、花は眠り続けるだろう。
そしてぼくの胸には、見えない傷が残った。
打ち砕かれた”マ”の欠片は、まだぼくの中にある。
その欠片は、もう熱を失っていた。
コウガミの医師たちは、手を尽くしてそれを取り出そうとした。
だが、欠片はぼくと癒着し絡み合っている。引き離すことなどできなかった。
だが”マ”が力を取り戻し、宿主のぼくを内から食い破る……その可能性はゼロに等しかった。
欠片は、ぼくの心臓と共に脈打つ。
送り出された血液は、この体を巡る。
その血は何色をしているのだろう。
打ち砕かれたはずの命だ。
理を曲げて、ぼくはここにいる。
それでもミカさんはまだ、ぼくを花のひとつに数える。
ぼくは踊り続ける。
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そして二週間後。
ようやく谷さんの行方が知れた。
彼はとっくに現実世界へと戻ってきていた。
だが何故か無事を知らせてくれなかった。
谷さんの逃避行には同行者がいた。
義妹のカナだ。
彼女もまた、祭りの晩以降姿を消していた。
ほくは彼女の足跡を辿って、谷さんにたどり着いた。
そこは東京から遠く離れた、某県の田舎町だった。
「空に月が浮かんでいた。本物の月だ。俺は川の水に腰まで漬かっていた。真冬の川だ。激痛に等しいその寒さで、目が覚めた。現実の世界に戻ってきたと分かった」
谷さんはゆったりとコーヒーを啜りながら、煙草をふかす。
ここは彼らが滞在しているホテルのロビーだ。
カナはホテルの部屋に残ったまま、顔を見せなかった。
ここは、谷さんが小学生までの時を過ごした町だ。
お前たちのカミサマは、いちいち気に障ることをする。と谷さんは言った。
あの夢の世界も水が満ちていた。
ミカさんは谷さんの中の記憶を掬い上げ、故郷の川を選んで落とした。
だが彼の生家はもはやなく、縁者もなかった。
「この地に留まる理由は、何もなかった」
目覚めた時、なぜか谷さんは背広姿だった。
幸いにも、上着のポケットには財布が入っていた。
替えの服を手に入れて、駅まで行き、東京へと戻る切符を買うくらいの金はあった。
けれど、谷さんはその町に留まった。
「心配しましたよ。連絡が欲しかったです」
つい恨み言を言ってしまった。
「俺にも恥入る心はある。君らに合わせる顔がなかったのさ。大見得を切り、勇んだ挙句がみじめに敗北だ」
谷さんは、自分の頭に手をやった。
「そして印までつけられた」
白く長いウサギの耳がふたつ揺れている。
非現実的な姿だ。
しかし、ここは現実だった。
「コブ取り爺さんのコブと同じだ。君らのカミサマのバチのせいで、俺はこの先ずっと、ひげを剃ろうと鏡を見るたびウンザリすることになる」
「バチじゃなくてプレゼントですよ。ミカさんに気に入られた印です」
「最悪のセンスだ」
谷さんは、眉をしかめていった。
日常生活に支障はないだろう。
その耳は、アガミに連なるものしか見えない特別なものだ。
そして谷さんは、ぼくの肩口に向けられた。
「お前の予言は外れたのか?俺の背負った宿命は幻だったのか?」
尋ねる谷さんの視線は、ぼくに寄り添うミカさんをしっかり捉えている。
ミカさんの姿を見ることができるのだ。
これもミカさんが、谷さんを客分と認めた印だった。
「……やはり答えてくれないか」
谷さんは苦笑をこぼす。
切羽詰まった顔はしていない。
死線を越えたせいなのか、彼の内面には変化があったようだ。
「空も水も、目に映るものすべてはアガミの神だった」
ぼくらを見送り、谷さんはひとり黄昏の世界に残された。
あの世界は、ミカさんの胎内だ。
肉体すらも、与えられた仮初のものだ。
「俺にあるのは意思だけだ。だがそれも風前の灯だった」
望みはついえた。
しかし、ここで溶けて消えてしまう訳にはいかない。
偽の空を突き破り、ここから出るのだ。
世界を壊す。
あらん限りの力を籠めて。
谷さんは万本もの矢を天に向け、放った。
「それでも君たちの神は頑なだった」
森を焼き、水を巻き上げ、空を壊した。
鬼神の如く、破壊の限りを尽くす。
だが世界に果てはなかった。
流転、流転……場面は変わる。
壊しても、壊しても、いくつもの階層が現れる。
谷さんが、現実世界から消えていたのは三日。
しかし閉ざされたその世界では、万倍もの時間がすぎていた。
「水はある。だが飲むことはしなかった。これ以上、この世界と混じり合いたくはなかった」
飢えと渇きが極まっても、それで死ぬことはなかった。
だが耐えようのない孤独と焦燥に押し潰された。
「お前たちの神は沈黙を続けた。聞こえるのは風の音だけだ」
どれだけさ迷い歩いても、動くものの影ひとつ見つけることは出来なかった。
そして、唐突に終わりがやってきた。
「長耳という余計な土産をもらった。代わりに、自分の魂の欠片をあの場所に置いてきてしまった気がする……未だに寒さが抜けない」
滞在先のホテルに、金を送ってほしい。
谷さんから連絡を受け、カナは現地まで飛んでいった。
そして帰ろうとしなかった。
彼女は、谷さんの傍に寄り添っていた。
「ぴったり張り付けて監視しなくても、くびれて死んだりするものか」
谷さんは憎まれ口を叩く。
「カナさんは、元気なんですか?」
「ああ」
短く谷さんは答えた。
「親御さんも心配してらっしゃるでしょう。とにかく一度東京へ」
ぼくの顔が、少しばかり強張っていたのかもしれない。
谷さんは少し笑った。
「見当違いの心配だよ。家は、コウガミはなんでも承知さ。カナさんがここにいることも」
コウガミは兄妹にとっての、強固な檻だ。
カナは跡取り娘だ。
彼女は帰ってくる。
そして谷さんが軽はずみに、義妹を傷つけることもない。
それが彼らには分かっていた。
「カナさんの体は依然清い。いつでも、そちらにお嫁に出せる」
ピンと谷さんは、その長い耳を指先で弾いてみせた。
「カナさんも、アガミに連なる人だ。彼女にはこの耳が見える。そんな女を抱く気になれるか」
相変わらず、露悪的な物言いだ。
それでも谷さんは現実に戻って、カナに連絡を取った。
金を届けてもらう当てぐらい、他にもあったはずなのに。
プライドのかたまりのような人だ。しかし義妹には、ほんの少し弱さを見せた。
そしてカナも義兄に応え、献身し続ける。
ふたりにしか分からない、絆があるのだろう。
「宿の飯にも飽きたし、有給も使い果たした」
明日にはカナを連れて帰る。
そう谷さんは約束した。
ぼくはその日のうちに東京へ戻った。
二日後。ホスピタルにカナがひょっこりやってきた。
「はい、お土産のお饅頭。しょっぱい漬物も買ってきたから、甘いもの嫌いのアリアちゃんに出してあげてね」
記憶よりも少し横顔が大人びて見えた。
「セイくん、いろいろありがとうね」
「お礼をいうのは、こちらの方だよ」
カナには、どれだけ助けてもらったことか。
「迎えに来てくれて嬉しかった。わたしも周平さんも、帰るきっかけが欲しかったから」
カナは少し寂しそうだ。
「谷さんは?」
「ずっと会社に詰めてる。十日以上も休んだんですもの。仕事山盛りみたい」
世人に見えないウサギの耳をつけて、真面目にサラリーマンをしているらしい。
「周平さんは、すっかり元通りだよ」
彼の背中を追うのに、疲れることもあるだろう。
でもカナはあきらめない。
「谷さんには、命を救ってもらったんだ……いつかきっと、その恩を返すつもりだ」
アガミの術士としてではない。
ぼく個人の誓いだ。
カナは頷いた。
「頼りにしてるね、セイくん」




