60.
深夜三時。
谷さんの口利きで、方城社ロビーにある公衆電話を、使用させてもらう。
出版社はどちらかというと夜型の会社だ。しかし、流石にこの時間は静まり返っている。
ようやく、エイから渡されたテレホンカードを使うことができる。
最低限の照明。
タイル張りの広いロビーに自分の足音が響く。
緑色の電話はロビーの奥まった場所にあった。
テレホンカードを電話機に差し込み、06から始まるナンバーをダイヤルする。
コール二回。
「もしもし」
こちらの心の準備ができる前に、相手が受話器をとった。
若い男の声だ。
音声はとてもクリアだ。
「もしもし。こちら渋沢征です」
「知っているよ」
相手は名乗らなかった。
はじめましての言葉もなしだ。
この男は誰だ?
この電話は、どこに繋がっているんだ?
「あの……あなたは一体?」
口ごもると、くつくつと笑われた。
「緊張しなさんな。身内のもんだよ」
ぼくの身内?
思い返してみても、声に聞き覚えはない。
「名前を教えていただけませんか」
「私は過去のアガミ。いまはもう名前も失くしてしまった。いまは向こう側の、日の沈んだ場所にいる」
男の言葉を理解するのに、少し時間がかかった。
”日の沈んだ場所にいる”
この声の主は、もう命のぬくもりを持たない。
ぼくは受話器をしっかり押し当て、耳をすませた。
男の背後には、痛いほどの静寂が広がっている。
彼以外の存在は、どこにもない。
「私たちはとても離れた場所にいる。この通話も、いつ途切れるかもわからない。限られた時間の中で、できる限りのことを伝えよう」
そして、男はぼくに尋ねた。
「君は舞手か?」
「はい。当代の”この花”です」
「そうか」
答えを聞いて、男は低く笑った。
彼はぼくに歌を教えた。
来るべき日に、ミカさんが歌う歌だ。
男はそう言った。
ぼくはその歌に乗せて、舞わなければならない。
なぜ彼はその特別な歌を知っているのだろうか?
その歌は、戦歌だ。そう彼は言った。
電話ごしの授業は、もどかしいものだった。
元々ミカさんの歌は、人間の声域で再現できるものではない。
とらえることができるのは、ぼんやりとした輪郭だけだ。
おそらく、この男も舞手であったのだろう。
一度でいい。彼が踊る姿を、見ることができればよかったのに。
メロディーーそう呼ぶのは適当ではないが、他に言葉が見つからないーーは4小節。
高く、低く、早く、ゆっくりと。そして最後にふつうのテンポで。
五回繰り返して、彼は歌った。
彼は歌に長けていない。
ところどころ揺れ、高音は掠れてしまう。
だが一音一音、丁寧に歌う。
「……」
自分の呼吸音さえ、邪魔だった。息を殺して耳を傾けた。
彼が誰なのか、分かった。
渋沢一。
17年前に死んだぼくの父だ。
四歳当時の、自分の記憶が蘇ったのではない。
けれどそれを確信していた。
授業の最後に、教えられた歌を僕ひとりで歌うように言われた。
声が震えないように、唇を強く噛んでから。
ぼくは歌った。
なぜこの歌は、こんなにも短いのだろう。
もっと長く続いてくれればいいのに。
ーー待って。待って。待ってくれ!
ーーまだ受話器を置かないでくれ!
しかしその想いを言葉にすることは出来なかった。
彼は死者だ。
この声とぼくは、ミカさんの力で辛うじて繋がっている。
儚い影法師も同じだ。
実体なんてないのだ。
手を伸ばし、触れて、すがることなど許されるはずもない。
ぼくが歌い終わると、父は深く息をついた。
そして言った。
「それでいい。これで授業は終わりだ」
ぼくが察したことは、向こうに伝わっていたのだと思う。
父は”ありがとう”とも、”すまなかった”とも言わなかった。
父親として、ぼくに伝えたい言葉はないようだ。
残された妻ーー母への想いも口にしなかった。
これから戦いに赴く、ぼくの無事を祈る言葉もない。
アガミは、神に祈らない。
彼は最後までひとりのアガミとして、ぼくと向き合おうとしていた。
父はぼくに言った。
「何があっても、仲間の手を離すなよ」
草四郎の手を離すな……か。
17年前の戦いで父は死に、その相棒であった孝三叔父は力を失った。
しかし花の名は引き継がれた。
次はぼくらの番だ。
先代がなし得なかったことを、終わらせる。
「ありがとうございました」
受話器を強く握りしめたまま、こうべを垂れる。
「教えていただいた歌を頼みに、行ってまいります」
「ああ」
そして、静かに父は受話器を置いた。
「父さん……」
ぼくは初めて、その言葉を唇に乗せた。
答えは返ってこない。
受話器からは、ツーツーツーという音が響くだけだ。
「ミカさん……」
傍らにいるミカさんに呼びかける。
もう声が震えるのを堪える必要はなかった。
「……ミカさん、ありがとう」
父さんに会わせてくれて。
僕は電話機を抱え込むようにして、泣き崩れた。
“―――――”
鳥のミカさんは一声鳴いた。
その声は『分かっているよ』と言ったように聞こえた。
『私も悲しいよ」とも、『泣くんじゃないよ』とも響く声。
その声は確かに、耳に届いた。
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それから三日間かけて、課題のエッセイを書いた。
タイトルは『ぼくと五島万』だ。
まず決められた枚数の倍書いた。
それから規定枚数に縮めて行く。
筆は走ったと言い難い。時速3キロくらいのテクテク歩きだ。
無駄なく、そつなく、器用にこなす。
素人の僕に求められていることは、それじゃない。
素直に書こうと思った。
僕から見た三人のことを。
そうしてぼくが何とか書き上げた草稿に、朱を入れたのは谷さんだ。
「てらいが無いのは結構。だが工夫もないな。どこまでも素直だ。手の入れようもない」
辛辣な評価。
しかし渡した原稿を破られなかっただけ良い。これはもう及第点だ。
「小学校の先生になった気分だよ。作文のお時間だ。締め切りを守ったご褒美に、花丸をつけてあげようか?」
チクチクと嫌味を挟みつつも、原稿に鋭く目を走らせる。
そして、スラスラとペンを動かした。
谷さんが少し手を加えただけで、平板な文章が生き生きと変化する。
「プロですね」
「君以外はな」
谷さんが昂然と胸をそらす。
そしてなんと僕の原稿の清書は、五島万の三人が担当した。
ニレイさんが原稿を読み上げ、サキさんとアリアが、ワープロを交互に叩く。
「『驚いたのは、サキ先生の言葉です……小説を書くということは………』」
ニレイさんは、国立劇場にも立ったことのある俳優だ。
まったく、演技力の無駄遣い。
この人が読めば、ぼくの作文も名文になってしまう。
「おっちゃん、もっと読むスピード落として」
アリアは二本指で、必死にキーボードを睨みながらタイピングをしている。三回に一回叩くキーを間違えるのはご愛敬だ。
「セイくんは字が綺麗すぎる。つまらん。まったく清書のしがいがない」
サキさんから理不尽な物言いが出た。
お菓子作りをする女の子のようだ。
三人でキャッキャウフフとかしましい。
「次々書け。じゃんじゃんな」
目を輝かせて、サキさんが言う。
「次回作が出来たら遠慮せずに見せにきなさい。添削料は、出世払いでいいぞ」
ニレイさんも、そんなことを言い出す。
「今度は長いのも読んでみたいな」
アリアまで!
あれ以来、黄昏の世界に足を踏み入れていない。
魔眼を見つけ出すという目的を果たし、ぼくらが辿ってきた道は閉ざされた。
しかし、あの世界でまだやるべきことが残っていた。
そしてアガミの本家から、日取りが通達された。
ぼくの持つ魔眼は、本体である”マ”を呼ぶ。
それは確実に近づいてきている。
だが、ただ待っている訳にはいかない。
こちらからあの世界に誘い出し、迎え撃つ。
三日後、すべての決着が着く。
会場はここ、ホスピタルだ。
ノルマの原稿が上がった翌日、有給休暇を申請した。
今更、修行なんて大仰な真似をするわけではない。
ただ普段の仕事を離れて、集中を高める時間が必要だった。
谷さんが用意してくれたのは、隣県にある研修施設だ。コウガミの息がかかった企業の所有である。
会社の施設といっても、ビジネスホテルと変わらない。
ぼくに与えられたのは、清潔で快適なシングルルームだった。
テレビも小型冷蔵庫も備え付けられている。
ちょうどその期間は、利用者がいなかった。
通いの管理人も夜になれば、帰ってしまう。
静かに過ごすには、うってつけの環境だった。
広々とした調理室も貸してもらえた。スーパーで食材を買って、ひとり分の食事を作った。
飯を食い、ゆっくり寝て、読書をして、散歩に出た。
あとはひたすら踊って過ごした。
草四郎は二日間、一度も訪ねてこなかった。
腕は動くようになったのだろうか?
しかし、ぼくは心配していない。
草四郎にはミカさんが付いている。
きっと間に合う。
二日目の晩、谷さんがやってきた。
「酔っているんですか?」
「まぁね」
面から覗く目が、充血していた。
本物のウサギみたいだ。
吐く息からミントガムの匂いがする。
「業務の一環だ」
谷さんは言った。某作家と打ち合わせを兼ね、銀座でしこたま飲んできたらしい。
ここまでは一万円超かけて、タクシーを飛ばしてやってきた。
「明日が本番ですよ」
ぼくの軽い非難を、うるさいとかわす。
「俺はこのくらいで丁度いいのさ」
相変わらずの自信だ。
しかし頼もしい。
ぼくはシングルベッドに腰かけ、谷さんは書き物机の椅子に座る。
ぼくらは向き合って、部屋の電気ポットで淹れたインスタントコーヒーを飲んだ。
ふたりきりで話すのも久しぶりだ。
「体調はどうだ?」
「変わりませんよ。静かなもんです」
例の目は、腹の虫ほどにも動きはしない。
落ち着いたものだった。
明日、ぼくらは”マ”と対峙する。
姿も名前も分からない敵。
黄昏の世界で手に入れた、片方の目。
それはいま、ぼくの中で鈍く輝いているはずだ。
底知れぬ力を持つ、災厄と呼ぶべき者。
ぼくの父の命を奪った者。
だがぼくは、上手く憎しみを向けることができない。
その姿を思い描くことができないからだ。
その”マ”は、谷さんの運命の神なのだろうか。
『お前は、いずれ神を殺す』
ミカさんの言葉を読み解き、谷さんに告げたのはぼくの父だ。
神を殺した人間は、神へと変わるという。
それは、受け入れなければならない咎だ。
人の身では、その罪に耐えられない。
谷さんは、その予言に縛られていた。
「これをさし上げます」
ぼくは谷さんに、例のテレホンカードを手渡した。
亡き父に通じるテレホンカードだ。
これが必要なのは、ぼくの母ではない。
草四郎でも、父の相棒だった孝三叔父でもない。
谷さんだと思った。
ぼくは谷さんに、カードのいきさつを話した。
「君は父君から歌を習った。弟くんは何を伝えられたんだ?」
「エイが父から聞いたことは、ふたつあります」
谷さんの疑問にぼくは答えた。
父との通話を終えた翌日、ぼくはエイと連絡を取った。
エイは、自分と父と交わした会話の内容を教えてくれた。
父が死んだとき、エイは幼く、まだ話すこともできなかった。
これが最初で最後の親子の会話だ。
父はまずエイに言った。
『あの女の子は、もう大丈夫。因果の糸は断ち切れた』
姿の見えぬ相手。
知らない声。
でもエイは、なぜかその言葉を信じることができた。
それから短い時間、ぎこちない会話をかわした。
やがて、エイも彼の素性に気づいた。
「そしてもう一つ。父はエイに未来の話をしました」
「未来?……予言か。どんな内容だ?」
谷さんが、ぐっと身を乗り出す。
「エイは話してくれませんでした。あまりにも先のことでもあるし、漠然としているから……と」
予言は劇薬ともなりうる。
使い方如何では多くの人の人生を狂わせ、破滅へと導く。
エイは強い。
だから父は、弟を選んで託したのだと思う。
その言葉が明かされるべき時が来るまで、エイはひとり胸にそれを抱えていく。
「そうか……先の話か」
与えられた予言は、明日のこととは関係がない。
聞いた途端に、谷さんは興味を失くしたようだ。
この人にあるのは今、この刹那だけだ。
神殺しの予言を受けた時からの呪縛。
予言は、彼から未来を奪ってしまった。
谷さんはテレホンカードを弄びながら尋ねた。
「君の父君は、俺に伝えることがある。君はそう思うのか?」
「ただの勘です」
問われても答えようがなかった。
「いらなければ捨ててください。任せます」
「分かった……もらっておくよ」
谷さんはテレホンカードを財布に収めた。
谷さんは僕のとなりの部屋に泊っていった。
翌朝、ぼくの運転する車で一緒に東京へと戻った。




