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花とペン  作者: 井上マイ
60/68

60.

 深夜三時。

 谷さんの口利きで、方城社ロビーにある公衆電話を、使用させてもらう。

 出版社はどちらかというと夜型の会社だ。しかし、流石にこの時間は静まり返っている。

 ようやく、エイから渡されたテレホンカードを使うことができる。

 最低限の照明。

 タイル張りの広いロビーに自分の足音が響く。

 緑色の電話はロビーの奥まった場所にあった。

 テレホンカードを電話機に差し込み、06から始まるナンバーをダイヤルする。

 コール二回。

「もしもし」

 こちらの心の準備ができる前に、相手が受話器をとった。

 若い男の声だ。

 音声はとてもクリアだ。


「もしもし。こちら渋沢征シブサワセイです」

「知っているよ」

 相手は名乗らなかった。

 はじめましての言葉もなしだ。 

 この男は誰だ?

 この電話は、どこに繋がっているんだ?

「あの……あなたは一体?」

 口ごもると、くつくつと笑われた。

「緊張しなさんな。身内のもんだよ」

 ぼくの身内?

 思い返してみても、声に聞き覚えはない。

「名前を教えていただけませんか」

「私は過去のアガミ。いまはもう名前も失くしてしまった。いまは向こう側の、日の沈んだ場所にいる」

 男の言葉を理解するのに、少し時間がかかった。

 ”日の沈んだ場所にいる”

 この声の主は、もう命のぬくもりを持たない。

 ぼくは受話器をしっかり押し当て、耳をすませた。

 男の背後には、痛いほどの静寂が広がっている。

 彼以外の存在は、どこにもない。

「私たちはとても離れた場所にいる。この通話も、いつ途切れるかもわからない。限られた時間の中で、できる限りのことを伝えよう」

 そして、男はぼくに尋ねた。

「君は舞手か?」

「はい。当代の”この花”です」

「そうか」

 答えを聞いて、男は低く笑った。

 彼はぼくに歌を教えた。

 来るべき日に、ミカさんが歌う歌だ。

 男はそう言った。

 ぼくはその歌に乗せて、舞わなければならない。

 なぜ彼はその特別な歌を知っているのだろうか?

 その歌は、戦歌だ。そう彼は言った。


 電話ごしの授業は、もどかしいものだった。

 元々ミカさんの歌は、人間の声域で再現できるものではない。

 とらえることができるのは、ぼんやりとした輪郭だけだ。

 おそらく、この男も舞手であったのだろう。

 一度でいい。彼が踊る姿を、見ることができればよかったのに。

 メロディーーそう呼ぶのは適当ではないが、他に言葉が見つからないーーは4小節。

 高く、低く、早く、ゆっくりと。そして最後にふつうのテンポで。

 五回繰り返して、彼は歌った。

 彼は歌に長けていない。

 ところどころ揺れ、高音は掠れてしまう。

 だが一音一音、丁寧に歌う。

「……」

 自分の呼吸音さえ、邪魔だった。息を殺して耳を傾けた。


 彼が誰なのか、分かった。

 渋沢一シブサワハジメ

 17年前に死んだぼくの父だ。

 四歳当時の、自分の記憶が蘇ったのではない。

 けれどそれを確信していた。


 授業の最後に、教えられた歌を僕ひとりで歌うように言われた。

 声が震えないように、唇を強く噛んでから。

 ぼくは歌った。

 なぜこの歌は、こんなにも短いのだろう。

 もっと長く続いてくれればいいのに。

 ーー待って。待って。待ってくれ!

 ーーまだ受話器を置かないでくれ!

 しかしその想いを言葉にすることは出来なかった。

 彼は死者だ。

 この声とぼくは、ミカさんの力で辛うじて繋がっている。

 儚い影法師も同じだ。

 実体なんてないのだ。

 手を伸ばし、触れて、すがることなど許されるはずもない。

 ぼくが歌い終わると、父は深く息をついた。

 そして言った。

「それでいい。これで授業は終わりだ」

 ぼくが察したことは、向こうに伝わっていたのだと思う。

 父は”ありがとう”とも、”すまなかった”とも言わなかった。

 父親として、ぼくに伝えたい言葉はないようだ。

 残された妻ーー母への想いも口にしなかった。

 これから戦いに赴く、ぼくの無事を祈る言葉もない。

 アガミは、神に祈らない。

 彼は最後までひとりのアガミとして、ぼくと向き合おうとしていた。

 父はぼくに言った。

「何があっても、仲間の手を離すなよ」

 草四郎の手を離すな……か。

 17年前の戦いで父は死に、その相棒であった孝三叔父は力を失った。

 しかし花の名は引き継がれた。

 次はぼくらの番だ。

 先代がなし得なかったことを、終わらせる。

「ありがとうございました」

 受話器を強く握りしめたまま、こうべを垂れる。

「教えていただいた歌を頼みに、行ってまいります」

「ああ」

 そして、静かに父は受話器を置いた。


「父さん……」

 ぼくは初めて、その言葉を唇に乗せた。

 答えは返ってこない。

 受話器からは、ツーツーツーという音が響くだけだ。

「ミカさん……」

 傍らにいるミカさんに呼びかける。

 もう声が震えるのを堪える必要はなかった。

「……ミカさん、ありがとう」

 父さんに会わせてくれて。

 僕は電話機を抱え込むようにして、泣き崩れた。

 “―――――”

 鳥のミカさんは一声鳴いた。

 その声は『分かっているよ』と言ったように聞こえた。

『私も悲しいよ」とも、『泣くんじゃないよ』とも響く声。

 その声は確かに、耳に届いた。


          XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX


 それから三日間かけて、課題のエッセイを書いた。

 タイトルは『ぼくと五島万』だ。

 まず決められた枚数の倍書いた。

 それから規定枚数に縮めて行く。

 筆は走ったと言い難い。時速3キロくらいのテクテク歩きだ。

 無駄なく、そつなく、器用にこなす。

 素人の僕に求められていることは、それじゃない。

 素直に書こうと思った。

 僕から見た三人のことを。

 そうしてぼくが何とか書き上げた草稿に、朱を入れたのは谷さんだ。

「てらいが無いのは結構。だが工夫もないな。どこまでも素直だ。手の入れようもない」

 辛辣な評価。

 しかし渡した原稿を破られなかっただけ良い。これはもう及第点だ。

「小学校の先生になった気分だよ。作文のお時間だ。締め切りを守ったご褒美に、花丸をつけてあげようか?」

 チクチクと嫌味を挟みつつも、原稿に鋭く目を走らせる。

 そして、スラスラとペンを動かした。

 谷さんが少し手を加えただけで、平板な文章が生き生きと変化する。

「プロですね」

「君以外はな」

 谷さんが昂然と胸をそらす。

 そしてなんと僕の原稿の清書は、五島万の三人が担当した。

 ニレイさんが原稿を読み上げ、サキさんとアリアが、ワープロを交互に叩く。

「『驚いたのは、サキ先生の言葉です……小説を書くということは………』」

 ニレイさんは、国立劇場にも立ったことのある俳優だ。

 まったく、演技力の無駄遣い。

 この人が読めば、ぼくの作文も名文になってしまう。

「おっちゃん、もっと読むスピード落として」

 アリアは二本指で、必死にキーボードを睨みながらタイピングをしている。三回に一回叩くキーを間違えるのはご愛敬だ。

「セイくんは字が綺麗すぎる。つまらん。まったく清書のしがいがない」

 サキさんから理不尽な物言いが出た。

 お菓子作りをする女の子のようだ。

 三人でキャッキャウフフとかしましい。

「次々書け。じゃんじゃんな」

 目を輝かせて、サキさんが言う。

「次回作が出来たら遠慮せずに見せにきなさい。添削料は、出世払いでいいぞ」

 ニレイさんも、そんなことを言い出す。

「今度は長いのも読んでみたいな」

 アリアまで!


 あれ以来、黄昏の世界に足を踏み入れていない。

 魔眼を見つけ出すという目的を果たし、ぼくらが辿ってきた道は閉ざされた。

 しかし、あの世界でまだやるべきことが残っていた。


 そしてアガミの本家から、日取りが通達された。

 ぼくの持つ魔眼は、本体である”マ”を呼ぶ。

 それは確実に近づいてきている。

 だが、ただ待っている訳にはいかない。

 こちらからあの世界に誘い出し、迎え撃つ。

 三日後、すべての決着が着く。

 会場はここ、ホスピタルだ。


 ノルマの原稿が上がった翌日、有給休暇を申請した。

 今更、修行なんて大仰な真似をするわけではない。

 ただ普段の仕事を離れて、集中を高める時間が必要だった。

 谷さんが用意してくれたのは、隣県にある研修施設だ。コウガミの息がかかった企業の所有である。

 会社の施設といっても、ビジネスホテルと変わらない。

 ぼくに与えられたのは、清潔で快適なシングルルームだった。

 テレビも小型冷蔵庫も備え付けられている。

 ちょうどその期間は、利用者がいなかった。

 通いの管理人も夜になれば、帰ってしまう。

 静かに過ごすには、うってつけの環境だった。

 広々とした調理室も貸してもらえた。スーパーで食材を買って、ひとり分の食事を作った。

 飯を食い、ゆっくり寝て、読書をして、散歩に出た。

 あとはひたすら踊って過ごした。

 草四郎は二日間、一度も訪ねてこなかった。

 腕は動くようになったのだろうか?

 しかし、ぼくは心配していない。

 草四郎にはミカさんが付いている。

 きっと間に合う。


 二日目の晩、谷さんがやってきた。

「酔っているんですか?」

「まぁね」

 面から覗く目が、充血していた。

 本物のウサギみたいだ。

 吐く息からミントガムの匂いがする。

「業務の一環だ」

 谷さんは言った。某作家と打ち合わせを兼ね、銀座でしこたま飲んできたらしい。

 ここまでは一万円超かけて、タクシーを飛ばしてやってきた。

「明日が本番ですよ」

 ぼくの軽い非難を、うるさいとかわす。

「俺はこのくらいで丁度いいのさ」

 相変わらずの自信だ。

 しかし頼もしい。

 ぼくはシングルベッドに腰かけ、谷さんは書き物机の椅子に座る。

 ぼくらは向き合って、部屋の電気ポットで淹れたインスタントコーヒーを飲んだ。

 ふたりきりで話すのも久しぶりだ。

「体調はどうだ?」

「変わりませんよ。静かなもんです」

 例の目は、腹の虫ほどにも動きはしない。

 落ち着いたものだった。


 明日、ぼくらは”マ”と対峙する。

 姿も名前も分からない敵。

 黄昏の世界で手に入れた、片方の目。

 それはいま、ぼくの中で鈍く輝いているはずだ。

 底知れぬ力を持つ、災厄と呼ぶべき者。

 ぼくの父の命を奪った者。

 だがぼくは、上手く憎しみを向けることができない。

 その姿を思い描くことができないからだ。


 その”マ”は、谷さんの運命の神なのだろうか。

『お前は、いずれ神を殺す』

 ミカさんの言葉を読み解き、谷さんに告げたのはぼくの父だ。

 神を殺した人間は、神へと変わるという。

 それは、受け入れなければならない咎だ。

 人の身では、その罪に耐えられない。

 谷さんは、その予言に縛られていた。


「これをさし上げます」

 ぼくは谷さんに、例のテレホンカードを手渡した。

 亡き父に通じるテレホンカードだ。

 これが必要なのは、ぼくの母ではない。

 草四郎でも、父の相棒だった孝三叔父でもない。

 谷さんだと思った。

 ぼくは谷さんに、カードのいきさつを話した。

「君は父君から歌を習った。弟くんは何を伝えられたんだ?」

「エイが父から聞いたことは、ふたつあります」

 谷さんの疑問にぼくは答えた。

 父との通話を終えた翌日、ぼくはエイと連絡を取った。

 エイは、自分と父と交わした会話の内容を教えてくれた。

 父が死んだとき、エイは幼く、まだ話すこともできなかった。

 これが最初で最後の親子の会話だ。


 父はまずエイに言った。

『あの女の子は、もう大丈夫。因果の糸は断ち切れた』

 姿の見えぬ相手。

 知らない声。

 でもエイは、なぜかその言葉を信じることができた。

 それから短い時間、ぎこちない会話をかわした。

 やがて、エイも彼の素性に気づいた。

「そしてもう一つ。父はエイに未来の話をしました」

「未来?……予言か。どんな内容だ?」

 谷さんが、ぐっと身を乗り出す。

「エイは話してくれませんでした。あまりにも先のことでもあるし、漠然としているから……と」

 予言は劇薬ともなりうる。

 使い方如何では多くの人の人生を狂わせ、破滅へと導く。

 エイは強い。

 だから父は、弟を選んで託したのだと思う。

 その言葉が明かされるべき時が来るまで、エイはひとり胸にそれを抱えていく。

「そうか……先の話か」

 与えられた予言は、明日のこととは関係がない。

 聞いた途端に、谷さんは興味を失くしたようだ。

 この人にあるのは今、この刹那だけだ。

 神殺しの予言を受けた時からの呪縛。

 予言は、彼から未来を奪ってしまった。


 谷さんはテレホンカードを弄びながら尋ねた。

「君の父君は、俺に伝えることがある。君はそう思うのか?」

「ただの勘です」

 問われても答えようがなかった。

「いらなければ捨ててください。任せます」

「分かった……もらっておくよ」

 谷さんはテレホンカードを財布に収めた。


 谷さんは僕のとなりの部屋に泊っていった。

 翌朝、ぼくの運転する車で一緒に東京へと戻った。

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