59.
本日は久しぶりの、家庭教師の日だ。
草四郎が連立方程式を教え、アリアがつっかえながらも演算する。
「よくできました」
「やった」
草四郎に褒められ、アリアが微笑む。
ぼくはキッチンで夕食づくりをしながら、待合室のふたりを見るともなしに見ていた。
以前と変わらぬ、穏やかな授業風景。
黄昏の世界からの劇的な帰還。
あれだけのことを経て、なんの変化もないのがおかしいのだが……
そう、草四郎は、現実世界ではまだアリアに思いを告げていない。
アリアも返事のしようがない訳だ。
“今は色恋にかまけている場合じゃないでしょう!”
指摘すれば、草四郎はそう言い返すだろう。
正論だ。
だが夢の中であれだけのことをしておいて、今更それは通らない。
腰抜けめ。
ぼくは内心でため息をつく。
授業のあと恒例だった、笛の演奏はお休みだ。
「草四郎先生、右手を出して」
代わりにアリアは、そんなリクエストをした。
「え?……あ、はい」
おずおずと差し出された草四郎の手を、がっちりとアリアは両手で握った。
ふにふにふにふに…………
アリアは一心に草四郎の、手の甲をもみ始めた。
「……あの?何をしているんですか?」
一分ほど経過した時、草四郎がたまらず声をかけた。
「マッサージ。大丈夫、やりかたは本で読んだ」
アリアは腕を曲げ、力こぶをこしらえてみせた。
「は、はぁ……じゃあ、お願いします」
「任せて」
”良くなれ、良くなれ。痛いの痛いの飛んでいけ”
あとで草四郎に聞くと、マッサージの間アリアは小声でずっと呟いていたらしい。
「も、もう大丈夫です……ポカポカしてきました。血流が良くなってきたのかな?」
草四郎の顔はもう真っ赤だ。
「良かった」
草四郎の動揺の理由に気づかぬアリアは、嬉しそうに微笑んだ。
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「アリアさんは無事だ。元の世界に戻ってきたぞ」
夕闇の世界から戻り目を覚ましたあと、弟のエイの伝言サービスに連絡を入れた。
すぐに折り返し電話がきた。
そして数日後、国道沿いのファミリーレストランまで呼び出された。
エイもあのとき、黄昏の世界にいた。
エイからその時の状況を聞いた。
「アリアを探しに喫茶店から飛び出した。散々歩いて、落とし穴に落ちた」
ミカさんの手回しで、エイは身構える間もなく現実世界に戻された。
「ハッと気づいたら、マウンドに立っていた……三回裏ワンアウト。スコアは0-2。どうやら投手は俺らしい」
試合途中。だがそこまで、どうやって投げてきたのか。エイはさっぱり覚えてなかった。
「それでも、完投しちまうのは流石だな」
「まぁな」
当然だ、と言わんばかりだ。
「俺の話はいい。そっちで何があったのか、詳しく聞かせてくれ」
エイに夕闇の世界でのことを話した。
「セイくん、体調は大丈夫なのか?そんな大層なもんを呑み込んで……」
「やめろ、こちょばい」
エイがおずおずと、ぼくの胸に触れたのがおかしかった。
草四郎のキスのくだりは省略した。
しかし、エイはとても悔しがっていた。
「俺は肝心な時に何もできない……セイくんと草ちゃんがいてくれて、本当に良かった」
「そう落ち込むな。これでも食って元気だせ」
一つ残ったカキフライを、エイの皿に乗せてやる。
「お前さんにも、やれることはある。アリアさんが少し元気になったら、景色のいいところに連れて行け。そして高い飯でも奢って差し上げろ」
ぼくはエイにそう命じた。
この弟とアリアは気が合うらしい。遊びに出かけて、彼女の気分が少しでも上向きになればいい。
「了解した」
エイは、生真面目な表情で頷いた。
「テレカは使った?」
食後にコーヒーを飲んでいるときだった。
エイがそんなことを言い出した。
「テレカ?」
「喫茶店に置いてあっただろう?裏にナンバーがメモしてあるやつだ」
エイの言葉を聞いてやっと思い出した。
夕闇の世界での話だ。
上野公園で売っているような、変造テレホンカード。
ホスピタルと06から始まる、二つの電話番号がマジックで書かれているカードだ。
そういえば、そんなものもあった。
「使ってない。正直、それどころじゃなかった」
カードに書かれていた番号に電話をかける暇などなかった。
あのテレホンカード、あの場で拾ってきたんだっけ?それとも置いて来たのか。
ともかく、黄昏世界のどこかで失くしてしまった。
「じゃあ、これからかけるといい」
「ん?でも番号なんて覚えてないぜ」
「あれはただの改造テレカじゃない。正真正銘の特別製だ」
「特別?」
「番号を知っているだけじゃダメだ。そのテレカを使わないと繋がらない」
その時、幼女のなりをしたエイのミカさんに袖を引かれた。
はい、とミカさんは、ぼくにそれを手渡した。
「うわっ、ありがとうございます。持ってきてくれたんですか」
失くしたと思った、その変造テレホンカードだ。ミカさんが持ってきてくれたのか。
ありがたくいただく。
ぼくはエイに尋ねた。
「お前はかけたのか?この大阪の番号に」
「うん昨日ね。繋がった先は大阪じゃないが」
どういうことだ?と聞き返せば、あの世界はなんでもありだから……とお茶を濁される。
「そんなにいいところに繋がるのか?」
「それはかけてのお楽しみだ。じっくり試してみてくれ」
エイは思わせぶりに微笑んだ。
テレホンカードの使える公衆電話を探さなければいけない。
利用者が少なくて、ゆっくり話せる公衆電話をだ。
そして十日ほどたった、ある日。
エイは本当に、アリアをデートに連れ出した。
鎌倉辺りまで車を飛ばして、海を見て、寿司を食ってきたわけだ。
そして口うるさいサキさんが決めた門限の20時には、きっちりアリアを送り届けた。
帰宅したアリアが、持っていたものを見て驚いた。
「変わった鎌倉土産だな……」
「そうですね」
サキさんと、顔を見合わせ嘆息した。
アリアが両手で抱えていたのは、大きなケージだ。
中にはモコモコしたものが、入っている。
ウサギだ。
ティーカップほどの小さい子ウサギだ。
「これはどこに置けばいいですか」
アリアの後ろから、エイが大荷物を抱えて入ってきた。
おそらく、ウサギの飼育に必要な道具だろう。
「ちょっと待て。どっから連れてきた?」
「えっ?これ買ってきたんですか?」
わーわー言っていると、奥の書斎からニレイさんも出てきた。
ニレイさんも、アリアの持つケージを覗いて目を丸くする。
しかしすぐに、悪い顔でニヤリと笑った。
「おかえり……おや、うまそうなウサギちゃんだ」
「冗談でもやめて」
アリアがケージをさっと隠す。
「生まれて二か月。性別はまだ分からない。名前は、タマゴに決めたから」
アリアが有無を言わさない口調で述べた。
飼ってもいい?なんて、我々に許可は求めない。
決定事項だ。
「なんでタマゴなんだ?」
サキさんが尋ねた。さっそくケージに指を入れ、子ウサギをつんつん撫でている。
「卵焼きみたいだから」
アリアの言う通り、子ウサギは黄身色でフワフワと柔らかい。
「練習室に連れていく。みんなには負担はかけない。わたし一人で面倒みる」
アリアがそんなことを言い出したので、全員で止めた。
アリアに任せる?
三日で死ぬぞ。
危なっかしいこと、この上ない。
「なぜ唐突にウサギなんですか?」
「ただのきまぐれ。無駄遣いをしたくなっただけ」
アリアは照れ隠しにそう言った。
しかし谷さんの影響で間違いない。
あの子をぎゅっと抱えてたら、冷えた胸が温かくなった。
あの子にも、わたしは助けてもらったんだ。
そうアリアは言っていた。
夕暮れの世界にいた白ウサギが、谷さんであったことを、アリアは知らない。
「あの子は無事かな……連れて帰ってあげたかった」
アリアは悔しがっていた。
彼女以外の全員が、あのウサギは元気でいることを知っているわけだが。
ぼくは谷さんが怖いので、黙っている。
「エサのストックはここに置いておきますね」
「この水を飲む装置、どうやってつけるんだ……?」
みんなでああだこうだ言いながら、ウサギの住環境を整える。
ウサギの住処は、待合室の片隅に置かれることになった。
よって待合室及び、続き間のキッチンは禁煙区域に指定された。
「俺たちもこれでホタル族だな」
「ははは」
ニレイさんとサキさんが、顔を見合わせて笑う。
ごたごたやっているうちに、時計の針は十時を回っている。
早起きして、なれない遠出をしたアリアの目がトロンとしてきた。
すっかり、おねむである。
「今日はタマゴのそばで眠るの!」
「明日起きてからゆっくり遊んであげてください」
「むー……タマゴをよろしく頼むね」
アリアを説き伏せ、練習室に下がらせる。
「エイくん、今日はありがとう」
「おやすみ。また電話するよ」
エイがアリアに手を振った。
なんだか、エイの顔色が冴えない。
それにニレイさんも気づいたんだろうか。
帰り支度をするエイを引き留めた。
「寮の門限は何時だい?」
「俺ぐらい偉くなると、あってないようなもんですよ」
そう言って、エースピッチャーは胸を張る。
「じゃあ、一杯付き合えよ」
「車で来ているので、コーヒーでお願いします」
ぼくは四人分の、コーヒーを淹れた。
エイはコーヒーにミルクをたっぷり入れる。
砂糖は使わないし、茶菓子も食べない。
常にプロ野球選手としての自覚を持ち、摂生に努めている。
愚痴を言うのを聞いたことはない。
そのエイが今ちらりと、弱気を覗かせている。
アリアのせいだ。
「俺が元気付けでやろうなんて思い上がりでした。彼女はよほど大人です」
アリアはひとりで立ち直ろうとしている、とエイは言った。
「俺ひとりだけ取り残されてしまったみたいで」
やっぱり自分はなんの役にも立てないと、エイは苦い顔をする。
「お前が向こうから電話をくれたから、ぼくらは駆けつけることができたんだ」
エイは十分助けになってくれた。
しかしぼくの言葉を聞いても、エイの顔は晴れない。
「俺に術士としての力があったとして、草ちゃんの様にできただろうか?」
「は?」
何を言い出すんだ。
「すべてを投げ打って、彼女を守ろうと動けただろうかって」
エイは自分の右手をジッとみた。
アリアのためにその腕を捨てることができるか、そう考えているんだろう。
エイの年棒はいくらだ?
五千万円とちょっと。来年はさらに上がるだろう。
いや金じゃない。エイは野球が好きなのだ。
「馬鹿野郎」
思いっきり言ってやった。
「あんなのは愛でも、勇気でも、真心でもない。蛮行だ」
草四郎が怪我人でなければ、張り倒しているところだ。
「好きな女を守るってのは、ああいうことじゃないだろう」
「じゃあ、セイくんのいう正解ってなんだ?」
「知るかよ」
ついつい言葉遣いが乱暴になる。
なにが正しかったかなんて分からない。でもアリアの代わりに死のうとした、あの時の草四郎の味方はできない。
「……うん。そうだな」
エイは小さく笑う。
「見守ることも、また愛だよな……ありがとう。気が楽になった」
大真面目に歯の浮くようなことを言って、エイはひとりで納得したようだ。
「いい加減にしろ。アリアさんは、まだ十五歳なんだぞ。お前も草四郎も勇み足だ。頭を冷やせ」
ぼくは苦言を呈した。
そもそもなんで男兄弟の恋愛相談なんか、聞かなきゃいけないんだ?
いたたまれないにも程がある。
「恋に理屈なんかないんだよな」
人の不幸を嬉しそうに笑って、サキさんはポットを手に取った。そしてコーヒーをエイのカップにトクトクとつぎ足す。
「ふたりとも若いねえ」
ニレイさんも傍らでニコニコと微笑んでいる。
そこまでは良かった。
しかしエイは急に矛先をぼくに向けた。
「アリアは俺に色々話してくれる。セイくんとのこともいろいろ聞いてるよ」
「……おい、なにを言い出す?」
「きっとアリアが好きなのはセイくんだ」
「なっ!?」
「当たってると思うぜ」
まったく勝手なことを!
「俺も前から怪しいと思っていたんだよな」
「ちょっと詳しく聞かせてもらおうか」
アリアの親父と兄貴。
ニレイさんとサキさんが、ぼくに詰め寄る。
「誤解です!やましい事なんて、何もありませんよ!」
夢の中でのアリアとのキス。
あれは事故のようなものだ。
アリアはあの晩、初めて黄昏の世界に触れた。
感情が、ほんの少し暴発した。
それだけのことだ。
草四郎の件も同じだ。
夢の世界でキスしようが、まぐわおうが現実のアリアには、1℃の温度も伝わらない。なかったことと同じだ。
……しかし酒も飲まずに、男が四人。惚れた腫れただのと、なんの話をしているのだ?馬鹿々々しい。
「ドライブの途中で思った。いっそのことアリアをさらって、このまま遠くへ逃げてしまおうかって」
エイは真顔でそういった。
「もう、なにを言い出すんだ!?出禁にするぞ!アリアさんにも接触禁止だ。この変質者め」
ぼくがわめいた。
しかしエイも分かっている。
どこまで行っても、あの黄昏世界から逃れることはできない。
ここに留まって、やるべきことをする。
それしか道はない。
「コーヒーごちそうさまでした。そろそろ、おいとまします」
エイは来た時よりも、随分さっぱりした顔をしていた。
エイを見送ってからも、ふたりはなぜかキッチンに残っていた。
「よし決めた。五島万の次回作は、ロマンスだ」
バンと、サキさんがテーブルをたたいた。
「だが王子様とお姫様は結ばれ、幸せに暮らしました。めでたしめでたし………なんて話は書かないぞ」
知っている。
五島万が、無難な話を書くわけはない。
ハッピーエンドに着地するにしても、中国雑技団並みに捻る。大回転だ。
「賛成。やろうじゃないか。とびきりロマンティックなやつを書いてやる」
ニレイさんも悪乗りをする。
「もちろんモデルは君たちだ」
やっぱり。
大切な一人娘にちょっかいをかけられた。
そのお返しは倍付だ。
「覚悟しておけ。皆殺しだ」
サキさんが宣言する。
おいおい、ロマンス小説を書くんじゃないのか?
「乙女心を弄び、高みの見物を決め込もうとしている大バカ者には、特に酷い死にざまをプレゼントだ!」
サキさんがぼくを指さす。
まったくエイめ。
とんだ、とばっちりだ。
さらにサキさんは畳みかける。
「前世からの因縁は吹き出すし、埋蔵金の謎は持ち上がるし、エイリアンも出現するかもしれない。あと忍者軍団も殺到するぜ」
何千ページ書くつもりなんだ。共同執筆者のアリアも付き合ってられないだろうに。
「……はいはい。もう好きなようにしてください」
ぼくとしては白旗をあげるよりなかった。
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「例の企画、通りました」
今日の谷さんは編集者の顔をしていた。
例の企画。
それは谷さんが五島万と結びつくために企画だ。
仕事とくれば、裏も表もソツのない男だ。
この企画にかける並々ならぬ熱意が、その目から伝わってくる。
あのウサギ姿は、余程の屈辱だったらしい。
企画が完成すれば、谷さんと五島万との繋がりは強くなる。
そして黄昏世界での不具合は解消される……はずだ。多分。
「俺の私情が入っていることは認めます。しかしやっつけ仕事をするつもりはありません。売れるものを作りましょう」
『五島万ーー全活動記録(仮題)』
企画は、そう題されていた。
五島万というのは、三人が作り上げた架空の小説家だ。
今まで、発表したエッセイ類は100%の作り事。
インタビューや対談などの類の仕事も、ずっと断り続けてきた。
そのベールを取り払い、実像を世間に明かす。
それがこの企画の趣旨だ。
五島万が結成されてからの軌跡を、年表と写真で辿る。
五島万の三人の鼎談を載せ、書下ろし小説を付ける。
なんともニッチだ。
小説家ではなく、アイドルがファンに向けて出す本みたいだ。
「これ需要があるのかね?」
ニレイさんが首をかしげる。
「あります。あなた方にはドラマがある。こんな小説家など、他にいません。大反響ですよ」
元有名俳優。薄幸の美少女。文壇の問題児。
異色の取り合わせだ。
ドラマがある。うまいこと言うもんだ。
「まー、色物集団ってことだね」
サキさんが、苦笑する。
「それで、谷君の気が済むのなら」
ニレイさんが消極的な賛成の意を示す。
「………」
アリアは、淡々とした表情で企画書を読み返している。
反対する気はない。が、乗り気でもないといったところだろう。
「セイくん、資料の分類は終わったか」
谷さんがぼくに問いかける。
「はい、どうにかこうにか」
見てくれ。待合室に積み上げられた、段ボール箱の山を。
箱には五島万の、過去の原稿が詰め込まれている。
五島万が結成されて、まだ一年半。
それでも書きに書いたりこの量だ。
ぼくは生原稿のすべてに目を通し、腑分けと呼ぶ作業ーーー五島万の三人の作業分担の検証だーーを行った。
「いいね。虚像を裏打ちするのは、いつだって現実の汗だ。臨場感が出る。使わせてもらうぞ」
満足そうに谷さんは頷く。
頭の中でどんな完成図が、組み上がっているのだろう?
「仕事はこれで終わりじゃないぞ。セイ君も執筆者のひとりなんだからな。分け前は弾む。気張ってくれたまえ」
パーンと、サキさんに肩を叩かれた。
「本当にぼくも書かないといけないんですか?」
「ああ、しっかり頼むぞ」
ニレイさんがニヤニヤ笑う。
「大丈夫、みんなで添削してあげる」
アリアまでそれに乗ってきた。
「下っ端の君に、拒否権はない」
最後に谷さんが斬って捨てる。
ぼくに求められたのは資料のまとめだけではない。
まずは連絡帳。ぼくがこの家に来て以来書き綴ってきた、ノート五冊の提出を命じられた。
アリアの『紅茶が切れた。買ってきて』だの、
サキさん『麻婆豆腐が食いたい』とか、
僕からの発信で『明日は快晴なので布団を干します。出しておいてください』などなど……
ぼくと五島万の三人との生活感あふれる、雑多なやり取りだ。
にゃー。
唐突に現れる猫のイラスト。
行間にはニレイさんが戯れに書きつけた落書きなども、挟まっている。
流行作家の日常。
資料としての、価値はあるのかもしれない。だがこれが本当に売り物になるのかは疑問だ。
更にぼくのノルマはそれだけにとどまらなかった。
「エッセイを書いてもらおうか」
谷さんが言った。
「無茶を言わないでください!」
ぼくの抗議もむなしく、サキさんがパチンと指を鳴らす。
「いいね。お題は『住み込み書生の見た、五島万』だ」
単行本サイズで四ページ。ざっと計算して四千字。
真っ白なページを、素人のぼくが埋める。
五島万という看板に、泥を塗るわけにはいかない。
荷が重い。重すぎて膝が震える。
「真剣な本なんですよね?」
「だからこそ書くんだよ」
ぼくの問いに谷さんがそう答える。
今回の本は、転換点になる。
ぼくもその重みを理解している。
積み上げてきた五島万という虚像。
それを、この本の発表で突き崩す。
三人合わせて、五島万というひとりの作家。
それを元通り、バラバラの三人として写し出す。
それは、五島万の終わりへのステップのひとつになるだろう。
この生活もいつかは終わる。
編集者である谷さんに、押されて実現した企画。
とはいえ五島万の三人全員、静かに覚悟を決めているようだった。




