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花とペン  作者: 井上マイ
59/68

59.

 本日は久しぶりの、家庭教師の日だ。

 草四郎が連立方程式を教え、アリアがつっかえながらも演算する。

「よくできました」

「やった」

 草四郎に褒められ、アリアが微笑む。

 ぼくはキッチンで夕食づくりをしながら、待合室のふたりを見るともなしに見ていた。

 以前と変わらぬ、穏やかな授業風景。

 黄昏の世界からの劇的な帰還。

 あれだけのことを経て、なんの変化もないのがおかしいのだが……

 そう、草四郎は、現実世界ではまだアリアに思いを告げていない。

 アリアも返事のしようがない訳だ。

 “今は色恋にかまけている場合じゃないでしょう!”

 指摘すれば、草四郎はそう言い返すだろう。

 正論だ。

 だが夢の中であれだけのことをしておいて、今更それは通らない。

 腰抜けめ。

 ぼくは内心でため息をつく。


 授業のあと恒例だった、笛の演奏はお休みだ。

「草四郎先生、右手を出して」

 代わりにアリアは、そんなリクエストをした。

「え?……あ、はい」

 おずおずと差し出された草四郎の手を、がっちりとアリアは両手で握った。

 ふにふにふにふに…………

 アリアは一心に草四郎の、手の甲をもみ始めた。

「……あの?何をしているんですか?」

 一分ほど経過した時、草四郎がたまらず声をかけた。

「マッサージ。大丈夫、やりかたは本で読んだ」

 アリアは腕を曲げ、力こぶをこしらえてみせた。

「は、はぁ……じゃあ、お願いします」

「任せて」

 ”良くなれ、良くなれ。痛いの痛いの飛んでいけ”

 あとで草四郎に聞くと、マッサージの間アリアは小声でずっと呟いていたらしい。

「も、もう大丈夫です……ポカポカしてきました。血流が良くなってきたのかな?」

 草四郎の顔はもう真っ赤だ。

「良かった」

 草四郎の動揺の理由に気づかぬアリアは、嬉しそうに微笑んだ。


           XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX


「アリアさんは無事だ。元の世界に戻ってきたぞ」

 夕闇の世界から戻り目を覚ましたあと、弟のエイの伝言サービスに連絡を入れた。

 すぐに折り返し電話がきた。

 そして数日後、国道沿いのファミリーレストランまで呼び出された。

 エイもあのとき、黄昏の世界にいた。

 エイからその時の状況を聞いた。

「アリアを探しに喫茶店から飛び出した。散々歩いて、落とし穴に落ちた」

 ミカさんの手回しで、エイは身構える間もなく現実世界に戻された。

「ハッと気づいたら、マウンドに立っていた……三回裏ワンアウト。スコアは0-2。どうやら投手は俺らしい」

 試合途中。だがそこまで、どうやって投げてきたのか。エイはさっぱり覚えてなかった。

「それでも、完投しちまうのは流石だな」

「まぁな」

 当然だ、と言わんばかりだ。

「俺の話はいい。そっちで何があったのか、詳しく聞かせてくれ」

 エイに夕闇の世界でのことを話した。

「セイくん、体調は大丈夫なのか?そんな大層なもんを呑み込んで……」

「やめろ、こちょばい」

 エイがおずおずと、ぼくの胸に触れたのがおかしかった。

 草四郎のキスのくだりは省略した。

 しかし、エイはとても悔しがっていた。

「俺は肝心な時に何もできない……セイくんと草ちゃんがいてくれて、本当に良かった」

「そう落ち込むな。これでも食って元気だせ」

 一つ残ったカキフライを、エイの皿に乗せてやる。

「お前さんにも、やれることはある。アリアさんが少し元気になったら、景色のいいところに連れて行け。そして高い飯でも奢って差し上げろ」

 ぼくはエイにそう命じた。

 この弟とアリアは気が合うらしい。遊びに出かけて、彼女の気分が少しでも上向きになればいい。

「了解した」

 エイは、生真面目な表情で頷いた。


「テレカは使った?」

 食後にコーヒーを飲んでいるときだった。

 エイがそんなことを言い出した。

「テレカ?」

「喫茶店に置いてあっただろう?裏にナンバーがメモしてあるやつだ」

 エイの言葉を聞いてやっと思い出した。

 夕闇の世界での話だ。

 上野公園で売っているような、変造テレホンカード。

 ホスピタルと06から始まる、二つの電話番号がマジックで書かれているカードだ。

 そういえば、そんなものもあった。

「使ってない。正直、それどころじゃなかった」

 カードに書かれていた番号に電話をかける暇などなかった。

 あのテレホンカード、あの場で拾ってきたんだっけ?それとも置いて来たのか。

 ともかく、黄昏世界のどこかで失くしてしまった。

「じゃあ、これからかけるといい」

「ん?でも番号なんて覚えてないぜ」

「あれはただの改造テレカじゃない。正真正銘の特別製だ」

「特別?」

「番号を知っているだけじゃダメだ。そのテレカを使わないと繋がらない」

 その時、幼女のなりをしたエイのミカさんに袖を引かれた。

 はい、とミカさんは、ぼくにそれを手渡した。

「うわっ、ありがとうございます。持ってきてくれたんですか」

 失くしたと思った、その変造テレホンカードだ。ミカさんが持ってきてくれたのか。

 ありがたくいただく。

 ぼくはエイに尋ねた。

「お前はかけたのか?この大阪の番号に」

「うん昨日ね。繋がった先は大阪じゃないが」

 どういうことだ?と聞き返せば、あの世界はなんでもありだから……とお茶を濁される。

「そんなにいいところに繋がるのか?」

「それはかけてのお楽しみだ。じっくり試してみてくれ」

 エイは思わせぶりに微笑んだ。

 テレホンカードの使える公衆電話を探さなければいけない。

 利用者が少なくて、ゆっくり話せる公衆電話をだ。


 そして十日ほどたった、ある日。

 エイは本当に、アリアをデートに連れ出した。

 鎌倉辺りまで車を飛ばして、海を見て、寿司を食ってきたわけだ。

 そして口うるさいサキさんが決めた門限の20時には、きっちりアリアを送り届けた。

 帰宅したアリアが、持っていたものを見て驚いた。

「変わった鎌倉土産だな……」

「そうですね」

 サキさんと、顔を見合わせ嘆息した。

 アリアが両手で抱えていたのは、大きなケージだ。

 中にはモコモコしたものが、入っている。

 ウサギだ。

 ティーカップほどの小さい子ウサギだ。

「これはどこに置けばいいですか」

 アリアの後ろから、エイが大荷物を抱えて入ってきた。

 おそらく、ウサギの飼育に必要な道具だろう。 

「ちょっと待て。どっから連れてきた?」

「えっ?これ買ってきたんですか?」

 わーわー言っていると、奥の書斎からニレイさんも出てきた。

 ニレイさんも、アリアの持つケージを覗いて目を丸くする。

 しかしすぐに、悪い顔でニヤリと笑った。

「おかえり……おや、うまそうなウサギちゃんだ」

「冗談でもやめて」

 アリアがケージをさっと隠す。


「生まれて二か月。性別はまだ分からない。名前は、タマゴに決めたから」

 アリアが有無を言わさない口調で述べた。

 飼ってもいい?なんて、我々に許可は求めない。

 決定事項だ。

「なんでタマゴなんだ?」

 サキさんが尋ねた。さっそくケージに指を入れ、子ウサギをつんつん撫でている。

「卵焼きみたいだから」

 アリアの言う通り、子ウサギは黄身色でフワフワと柔らかい。

「練習室に連れていく。みんなには負担はかけない。わたし一人で面倒みる」

 アリアがそんなことを言い出したので、全員で止めた。

 アリアに任せる?

 三日で死ぬぞ。

 危なっかしいこと、この上ない。

「なぜ唐突にウサギなんですか?」

「ただのきまぐれ。無駄遣いをしたくなっただけ」

 アリアは照れ隠しにそう言った。

 しかし谷さんの影響で間違いない。

 あの子をぎゅっと抱えてたら、冷えた胸が温かくなった。

 あの子にも、わたしは助けてもらったんだ。

 そうアリアは言っていた。

 夕暮れの世界にいた白ウサギが、谷さんであったことを、アリアは知らない。

「あの子は無事かな……連れて帰ってあげたかった」

 アリアは悔しがっていた。

 彼女以外の全員が、あのウサギは元気でいることを知っているわけだが。

 ぼくは谷さんが怖いので、黙っている。


「エサのストックはここに置いておきますね」

「この水を飲む装置、どうやってつけるんだ……?」

 みんなでああだこうだ言いながら、ウサギの住環境を整える。

 ウサギの住処は、待合室の片隅に置かれることになった。

 よって待合室及び、続き間のキッチンは禁煙区域に指定された。

「俺たちもこれでホタル族だな」

「ははは」

 ニレイさんとサキさんが、顔を見合わせて笑う。

 ごたごたやっているうちに、時計の針は十時を回っている。

 早起きして、なれない遠出をしたアリアの目がトロンとしてきた。

 すっかり、おねむである。

「今日はタマゴのそばで眠るの!」

「明日起きてからゆっくり遊んであげてください」

「むー……タマゴをよろしく頼むね」

 アリアを説き伏せ、練習室に下がらせる。

「エイくん、今日はありがとう」

「おやすみ。また電話するよ」

 エイがアリアに手を振った。


 なんだか、エイの顔色が冴えない。

 それにニレイさんも気づいたんだろうか。

 帰り支度をするエイを引き留めた。

「寮の門限は何時だい?」

「俺ぐらい偉くなると、あってないようなもんですよ」

 そう言って、エースピッチャーは胸を張る。

「じゃあ、一杯付き合えよ」

「車で来ているので、コーヒーでお願いします」

 ぼくは四人分の、コーヒーを淹れた。

 エイはコーヒーにミルクをたっぷり入れる。

 砂糖は使わないし、茶菓子も食べない。

 常にプロ野球選手としての自覚を持ち、摂生に努めている。

 愚痴を言うのを聞いたことはない。

 そのエイが今ちらりと、弱気を覗かせている。

 アリアのせいだ。

「俺が元気付けでやろうなんて思い上がりでした。彼女はよほど大人です」

 アリアはひとりで立ち直ろうとしている、とエイは言った。

「俺ひとりだけ取り残されてしまったみたいで」

 やっぱり自分はなんの役にも立てないと、エイは苦い顔をする。

「お前が向こうから電話をくれたから、ぼくらは駆けつけることができたんだ」

 エイは十分助けになってくれた。

 しかしぼくの言葉を聞いても、エイの顔は晴れない。

「俺に術士としての力があったとして、草ちゃんの様にできただろうか?」

「は?」

 何を言い出すんだ。

「すべてを投げ打って、彼女を守ろうと動けただろうかって」

 エイは自分の右手をジッとみた。

 アリアのためにその腕を捨てることができるか、そう考えているんだろう。

 エイの年棒はいくらだ?

 五千万円とちょっと。来年はさらに上がるだろう。

 いや金じゃない。エイは野球が好きなのだ。

「馬鹿野郎」

 思いっきり言ってやった。

「あんなのは愛でも、勇気でも、真心でもない。蛮行だ」

 草四郎が怪我人でなければ、張り倒しているところだ。

「好きな女を守るってのは、ああいうことじゃないだろう」

「じゃあ、セイくんのいう正解ってなんだ?」

「知るかよ」

 ついつい言葉遣いが乱暴になる。

 なにが正しかったかなんて分からない。でもアリアの代わりに死のうとした、あの時の草四郎の味方はできない。

「……うん。そうだな」

 エイは小さく笑う。

「見守ることも、また愛だよな……ありがとう。気が楽になった」

 大真面目に歯の浮くようなことを言って、エイはひとりで納得したようだ。

「いい加減にしろ。アリアさんは、まだ十五歳なんだぞ。お前も草四郎も勇み足だ。頭を冷やせ」

 ぼくは苦言を呈した。

 そもそもなんで男兄弟の恋愛相談なんか、聞かなきゃいけないんだ?

 いたたまれないにも程がある。

「恋に理屈なんかないんだよな」

 人の不幸を嬉しそうに笑って、サキさんはポットを手に取った。そしてコーヒーをエイのカップにトクトクとつぎ足す。

「ふたりとも若いねえ」

 ニレイさんも傍らでニコニコと微笑んでいる。

 そこまでは良かった。

 しかしエイは急に矛先をぼくに向けた。

「アリアは俺に色々話してくれる。セイくんとのこともいろいろ聞いてるよ」

「……おい、なにを言い出す?」

「きっとアリアが好きなのはセイくんだ」

「なっ!?」

「当たってると思うぜ」

 まったく勝手なことを!

「俺も前から怪しいと思っていたんだよな」

「ちょっと詳しく聞かせてもらおうか」

 アリアの親父と兄貴。

 ニレイさんとサキさんが、ぼくに詰め寄る。

「誤解です!やましい事なんて、何もありませんよ!」

 夢の中でのアリアとのキス。

 あれは事故のようなものだ。

 アリアはあの晩、初めて黄昏の世界に触れた。

 感情が、ほんの少し暴発した。

 それだけのことだ。

 草四郎の件も同じだ。

 夢の世界でキスしようが、まぐわおうが現実のアリアには、1℃の温度も伝わらない。なかったことと同じだ。

 ……しかし酒も飲まずに、男が四人。惚れた腫れただのと、なんの話をしているのだ?馬鹿々々しい。

「ドライブの途中で思った。いっそのことアリアをさらって、このまま遠くへ逃げてしまおうかって」

エイは真顔でそういった。

「もう、なにを言い出すんだ!?出禁にするぞ!アリアさんにも接触禁止だ。この変質者め」

 ぼくがわめいた。

 しかしエイも分かっている。

 どこまで行っても、あの黄昏世界から逃れることはできない。

 ここに留まって、やるべきことをする。

 それしか道はない。

「コーヒーごちそうさまでした。そろそろ、おいとまします」

 エイは来た時よりも、随分さっぱりした顔をしていた。


 エイを見送ってからも、ふたりはなぜかキッチンに残っていた。

「よし決めた。五島万の次回作は、ロマンスだ」

 バンと、サキさんがテーブルをたたいた。

「だが王子様とお姫様は結ばれ、幸せに暮らしました。めでたしめでたし………なんて話は書かないぞ」

 知っている。

 五島万が、無難な話を書くわけはない。

 ハッピーエンドに着地するにしても、中国雑技団並みに捻る。大回転だ。

「賛成。やろうじゃないか。とびきりロマンティックなやつを書いてやる」

 ニレイさんも悪乗りをする。

「もちろんモデルは君たちだ」

 やっぱり。

 大切な一人娘にちょっかいをかけられた。

 そのお返しは倍付だ。

「覚悟しておけ。皆殺しだ」

 サキさんが宣言する。

 おいおい、ロマンス小説を書くんじゃないのか?

「乙女心を弄び、高みの見物を決め込もうとしている大バカ者には、特に酷い死にざまをプレゼントだ!」

 サキさんがぼくを指さす。

 まったくエイめ。

 とんだ、とばっちりだ。

 さらにサキさんは畳みかける。

「前世からの因縁は吹き出すし、埋蔵金の謎は持ち上がるし、エイリアンも出現するかもしれない。あと忍者軍団も殺到するぜ」

 何千ページ書くつもりなんだ。共同執筆者のアリアも付き合ってられないだろうに。

「……はいはい。もう好きなようにしてください」

 ぼくとしては白旗をあげるよりなかった。


         

         XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX



「例の企画、通りました」

 今日の谷さんは編集者の顔をしていた。

 例の企画。

 それは谷さんが五島万と結びつくために企画だ。

 仕事とくれば、裏も表もソツのない男だ。

 この企画にかける並々ならぬ熱意が、その目から伝わってくる。

 あのウサギ姿は、余程の屈辱だったらしい。

 企画が完成すれば、谷さんと五島万との繋がりは強くなる。

 そして黄昏世界での不具合は解消される……はずだ。多分。

「俺の私情が入っていることは認めます。しかしやっつけ仕事をするつもりはありません。売れるものを作りましょう」


『五島万ーー全活動記録(仮題)』

 企画は、そう題されていた。

 五島万というのは、三人が作り上げた架空の小説家だ。

 今まで、発表したエッセイ類は100%の作り事。

 インタビューや対談などの類の仕事も、ずっと断り続けてきた。

 そのベールを取り払い、実像を世間に明かす。

 それがこの企画の趣旨だ。

 五島万が結成されてからの軌跡を、年表と写真で辿る。

 五島万の三人の鼎談を載せ、書下ろし小説を付ける。

 なんともニッチだ。

 小説家ではなく、アイドルがファンに向けて出す本みたいだ。

「これ需要があるのかね?」

 ニレイさんが首をかしげる。

「あります。あなた方にはドラマがある。こんな小説家など、他にいません。大反響ですよ」

 元有名俳優。薄幸の美少女。文壇の問題児。

 異色の取り合わせだ。

 ドラマがある。うまいこと言うもんだ。

「まー、色物集団ってことだね」

 サキさんが、苦笑する。

「それで、谷君の気が済むのなら」

 ニレイさんが消極的な賛成の意を示す。

「………」

 アリアは、淡々とした表情で企画書を読み返している。

 反対する気はない。が、乗り気でもないといったところだろう。

「セイくん、資料の分類は終わったか」

 谷さんがぼくに問いかける。

「はい、どうにかこうにか」

 見てくれ。待合室に積み上げられた、段ボール箱の山を。

 箱には五島万の、過去の原稿が詰め込まれている。

 五島万が結成されて、まだ一年半。

 それでも書きに書いたりこの量だ。

 ぼくは生原稿のすべてに目を通し、腑分けと呼ぶ作業ーーー五島万の三人の作業分担の検証だーーを行った。

「いいね。虚像を裏打ちするのは、いつだって現実の汗だ。臨場感が出る。使わせてもらうぞ」

 満足そうに谷さんは頷く。

 頭の中でどんな完成図が、組み上がっているのだろう?

「仕事はこれで終わりじゃないぞ。セイ君も執筆者のひとりなんだからな。分け前は弾む。気張ってくれたまえ」

 パーンと、サキさんに肩を叩かれた。

「本当にぼくも書かないといけないんですか?」

「ああ、しっかり頼むぞ」

 ニレイさんがニヤニヤ笑う。

「大丈夫、みんなで添削してあげる」

 アリアまでそれに乗ってきた。

「下っ端の君に、拒否権はない」

 最後に谷さんが斬って捨てる。

 ぼくに求められたのは資料のまとめだけではない。

 まずは連絡帳。ぼくがこの家に来て以来書き綴ってきた、ノート五冊の提出を命じられた。

 アリアの『紅茶が切れた。買ってきて』だの、

 サキさん『麻婆豆腐が食いたい』とか、

 僕からの発信で『明日は快晴なので布団を干します。出しておいてください』などなど……

 ぼくと五島万の三人との生活感あふれる、雑多なやり取りだ。

 にゃー。

 唐突に現れる猫のイラスト。

 行間にはニレイさんが戯れに書きつけた落書きなども、挟まっている。 

 流行作家の日常。

 資料としての、価値はあるのかもしれない。だがこれが本当に売り物になるのかは疑問だ。

 更にぼくのノルマはそれだけにとどまらなかった。

「エッセイを書いてもらおうか」

 谷さんが言った。

「無茶を言わないでください!」

 ぼくの抗議もむなしく、サキさんがパチンと指を鳴らす。

「いいね。お題は『住み込み書生の見た、五島万』だ」

 単行本サイズで四ページ。ざっと計算して四千字。

 真っ白なページを、素人のぼくが埋める。

 五島万という看板に、泥を塗るわけにはいかない。

 荷が重い。重すぎて膝が震える。

「真剣な本なんですよね?」

「だからこそ書くんだよ」

 ぼくの問いに谷さんがそう答える。 


 今回の本は、転換点になる。

 ぼくもその重みを理解している。

 積み上げてきた五島万という虚像。

 それを、この本の発表で突き崩す。

 三人合わせて、五島万というひとりの作家。

 それを元通り、バラバラの三人として写し出す。

 それは、五島万の終わりへのステップのひとつになるだろう。

 この生活もいつかは終わる。

 編集者である谷さんに、押されて実現した企画。

 とはいえ五島万の三人全員、静かに覚悟を決めているようだった。

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