58.
「明日から三日ほど家を空ける。留守を頼む」
夕食時に、ニレイさんにそう言われた。
「え?はい……あ、明日からですか?」
飲み込んだカボチャが、気管に入りそうになった。
「どうしたんですか?いきなり」
サキさんも、ニレイさんに胡乱な目を向ける。
ぼくらが戸惑うのも当然だ。
ニレイさんがふらりと家を出て、二、三日戻らぬことなど日常茶飯事。
我々に了解を求めたことなどない。
だが、あれから数日も経っていない。
ぼくは待合室に目をやった。
そこでは、カナとアリアがファミコンに興じている。
一見、平和な風景だ。
アリアは懸命に、日常を取り戻そうとしていた。
ニレイさんは、続けて驚くことを言った。
「みちるちゃんに会いに行く。田舎に墓参りだ……アリアくんと一緒にね」
みちるとは、アリアの母親。
そしてニレイさんの元妻だ。
いまは実家の墓に眠っている。
「アリアさんも、承知しているんですか?」
ぼくの問いにニレイさんはうなずいた。
「アリアくんから誘われた」
黄昏の世界で、ぼくらはアリアの記憶に触れた。
しかしそれは悪意あるものに歪められた記憶だ。
その悪夢を振り払うために、アリアは現実と向き合おうとしている。
「そのまま戻らない、なんてことはないだろうな?」
サキさんが眉を寄せる。
田舎には、アリアの祖父母が暮らしている。
昨日の出来事はアリアにとって、岐路にもなり得る。
筆を折り、このホスピタルを出て、ふつうの少女として暮らす。
そんな選択肢を選ぶ可能性だってあった。
「一度は戻る。決着はまだついていないんだろ?」
ニレイさんは言った。
そうだ。間もなく、その時がくる。
ぼくらは全員で、それを迎え撃つ必要があった。
「……ま、なるようにしかならないな」
そんなサキさんの呟きで、この話は終わった。
三日後、予定通りニレイさんはアリアを連れて帰ってきた。
だが先んじて家に着いたのは、ふたりの宿泊先から送られたFAXだった。
ヒョロヒョロとした、ニレイさんの書き文字。
そして、そこに寄り添う筆圧の強い文字。
アリアの字だ。
大慌てで、奥の部屋からサキさんを呼んできた。
息をつめて、ぼくらはFAXを見つめていた。
「……ずいぶん長いな」
「ええ」
五枚、十枚……まだまだ出てくる。
たったふた晩。
どれだけ書いたんだ?
それは完全新作の、長編の書き出しだった。
「今夜は徹夜だ。ふたりが戻るまでに形にしておきたい」
紙の束を抱えて、サキさんが自室へ向かう。
「セイくん、朝一で清書を頼む」
「はいっ!」
サキさんもぼくも気がせいていた。
早くしないと、この原稿が霞と消えてしまうのではないかと思った。
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「暇だった」
執筆を再開した理由を聞かれ、アリアはあっさりそう答えた。
四時間電車に揺られて現地に着いた。しかし墓参りは三十分で済んだ。
祖父母にも、会いに行った。
しかし娘と夫婦別れした男と、無口な孫のコンビだ。
話が弾むわけもない。
「その日の夕方には、やることがなくなった……東京に帰るまでに、まだ一日半あるのに」
いまもカリカリとペンを動かしながら、アリアが言った。
戻ってくるなり荷解きもせず、文章のチェックを始めている。
「いやいやいや、やることはあるだろ。豊かな自然、温泉、名物の食い物!」
ゆっくり休んで来いって言っただろうが。とサキさんは文句をつける。
だがその表情は複雑だ。
アリアの復活を素直に喜びたい。しかしがまだまだ心配でもあるのだ。
「おっちゃんとわたしが観光?ありえない」
アリアが、サキさんの意見を切って捨てた。
確かに。ぼくもそう思う。
ふたりが並んで、観光地の売店で買ったソフトクリーム舐めている場面など、想像出来ない。
『書きかけの原稿を持ってくれば良かったね』
『仕方ない。新しいのを書くか』
ごく自然にそういう流れになったらしい。
夕食も朝食もホテルのルームサービスで済ませ、帰りの電車で上野に停車するまで書き続けた。それで出来上がったのが、その紙束だ。
ニレイさんはホスピタルに荷物を置くと、さっさと出かけていった。
行き先は、あのうなぎの寝床の仕事部屋だ。
「アリアくんのスピードが凄まじい。振り落とされないよう、お篭りせにゃ」
ニレイさんはおっかなびっくりのぼくらとはとは違った。しっかりアリアの復活を受け止めているようだ。
アリアくんをよろしく。
そう言って仕事に行った。あとは振り返らずに。
夕飯はキッチンで三人で食べた。
「練習室でひとりで食べるよ」
サッと済ませて、すぐに仕事に戻りたいとアリアは少し不服そうだ。しかしぼくとサキさんが引き止めた。
今日のメニューは、アリアが好きなオムライスだ。
ライス部分はチャーハン。ぼくの得意料理だ。
「ニレイのおっちゃんとは、ゆっくり話せたか?」
黙々と飯をかき込むアリアに、サキさんが尋ねる。
やっぱりサキさんは、アリアの年の離れた兄のようだった。
「うん喋った」
アリアが簡単に答える。
「どんな話をしたんだ?」
「原稿のこととか」
「他にはないのか」
「お母さんのことや、これからのことも少しは話したかな」
「それは良かった」
そこでアリアは箸を置いて、ぼくらの顔を真っすぐに見た。
「心配かけた。迷惑も……ごめんなさい」
アリアは深く頭を下げる。
「謝るな。迷惑じゃない」
一拍おいて、サキさんは繰り返した。
「迷惑なわけあるか。つまらん事言うな」
「ありがとう。わたしはもう大丈夫」
「ああ」
今度こそ、サキさんは安心した顔でうなずいた。
「書く。これからもずっと。もっとたくさん」
恥ずかしそうに、しかしはっきりとアリアは宣言した。
「わたしはもう大丈夫。口で言うのは簡単だよね。だけど、書き続けて証明してみせる」
「無理はするなよ」
言いかけたサキさんの言葉を、アリアは遮った。
「無理じゃない。わたしは図太いの。全然繊細にできてないから」
そしてアリアは、その自己評価を述べる。
「繊細な人間は、血の繋がっていない父親のところに押しかけたりなんてしない。ましてや、仕事に首を突っ込むなんて……文章なんて書いたことのない、素人の小娘のくせに」
あはは、とアリアは笑ってみせた。
「それに繊細な人間は、年上の男の人を顎で使ったりしないんだよ」
そしてアリアは、ぼくに目を向ける。
これには苦笑するしかない。
理不尽に使われているつもりは、ないけどな。
「だから、大丈夫。わたしはこの先も、図太く、いぎたなく、人に迷惑かけながら生きていく」
やけくそとか、投げやりな響きはなかった。
いささか捻くれているが、前向きな言葉だった。
「五島万が終わっても、続けるつもりなのか?」
「うん。ひとりでも、書き続ける」
アリアは、サキさんの目を真っすぐに見て答えた。
「……なぁ、アリアくん。俺はさ、散々君に言ってきた。書け。書くことが君の宿命だ、と。小説家である以上に、尊い道など、この世にはない。その考えは、今でも変わらない」
だが、とサキさんは言葉を継ぐ。
「だが急ぐ必要はない。王道なんて、近道なんてない。これから学校に行ってもいい。文学とかけ離れた職についてもいい。恋にかまけるのもいい。別の道を行き、書くことから離れて、時間が経っても、それでもいいんだ」
ひとつひとつ丁寧に言葉を選んで、ゆっくりとサキさんは話した。
「文学は人生に寄り添う。どこにも行かない。夜空に浮かぶ月のように、どんなに離れたと思っても、見上げれば傍にいる」
「うん」
「俺もそうだ。どんなに君が遠くへいっても気長に待っている」
サキさんも口が上手い方では無い。
だからこそ、言葉に重みがあった。
「ありがとう……でも止まる気はない。よそ見もしない。どうしても書きたいことがあるから」
どうしても書きたいこと。
けれどアリアは、それが何かは説明しない。
「そうか」
サキさんも尋ねたりはしない。
今聞かなくても、答えはいずれ分かる。
そういうことなのだろう。
夕飯を終えると、ふたりはそのままキッチンテーブルに残り、仕事を始めた。
ニレイさんは着々と原稿を進めていた。
FAXで届いたその原稿に、アリアが朱を入れ、サキさんへと渡す。
後は黙々と、ふたりは作業に没頭していった。
翌日、アリアの寝起きする練習室に朝食を届けにいった。
「おはようございます」
「おはよう」
アリアの髪に寝癖がついている。ということは、ちゃんと眠ったのか。
ホッとした。
アリアは敷きっぱなしの布団の上で、原稿をにらんでいた。
「食器をさげるときに、新しくニレイさんから届いた分を持ってきます。その前にちゃんと食事を済ませてくださいね」
食卓代わりのダンボール箱に、お盆を乗せた。
「うん」
アリアは原稿をおいた。
しかし食卓にはつかない。
「頼みたいことがあるの」
アリアは僕にクッキー缶を手渡した。
「これを捨てておいて。できるだけ中身は、見ないで」
クッキー缶はとても軽かった。缶を振ると、カサカサと紙の音がした。
買い物ついでに少し遠出をした。立ち寄ったのは、アガミの本家だ。
庭にある焼却炉に火を入れて、預かったものを投げ入れた。
言われた通り、中身は検めなかった。
しかし見当はつく。作り物の思い出の品、もう受け取り手がいない手紙……すべてトウヤに関するものだろう。
「ただいま帰りました」
「うん」
家に戻ると玄関先で、アリアが待っていた。
ぼくの手にクッキー缶がないのを確認して、アリアはホッとしたように息をついた。
「中に入りましょう。茶をいれます」
アリアを促して、キッチンのテーブルに着いた。
「代わりに捨ててくれてありがとう。中身はただのゴミ。だけど、自分で捨てる勇気が出なくて」
「ゴミ……ですか」
「ゴミだったんだよね……」
アリアはため息をついた。そして小さく笑う。
以前の彼女にとって、それは宝物だった。
あの日あの夢の中で、彼女は最後まで弟のトウヤを守ろうとしていた。
あの世界で、幻想を抱いて死んでいくつもりだった。
ぼくの不安を拭い去るように、アリアは言った。
「わたしの家族は、死んだお母さんとニレイのおっちゃんだけ。本当は分かっていた」
「……」
ぼくは彼女の話の続きを待った。
「トウヤは弟じゃない。わたしの願望。なりたかったわたし。わたし自身。だから、あれだけ執着した」
自分の内面を見つめ直すように。アリアはいったん言葉を切り、目を閉じた。
そして意外なことを言いだした。
「本当は男の子に生まれたかったんだ」
「アリアさんが男にですか……?ちょっと想像できないな」
長い黒髪、抜けるように白い肌。
細く、しなやかな体。
アリアは少女そのものの姿をしていた。
「わたしが男の子だったら、たぶんずっと楽だった。わたし自身も、お母さんも」
まだ心の整理がついていないのだろう。アリアはあまり母親の話をしなかった。
ましてやこんな風に、過去に踏み込んだ話をするのは初めてだろう。
「お母さんは、ずっとわたしに期待していた。そして、わたしはその期待を裏切り続けてきたと言うわけ」
「期待?」
「わたしが女優の才能に目覚めないかって」
アリアは赤い舌を出してみせた。
「女優ですか……そりゃまた」
そのあとのセリフは飲み込んだ。
女優のアリア。
男になる以上に想像がつかない。
「天地がひっくり返ってもありえないんだけどね」
前に出て、目立ちたい。
アリアはそんなタイプではないのだ。
芸能人に向いているとは思えない。
しかし、アリアの母が期待してしまうのも分かる気がする。
アリアの母親は年を重ね、女優としての成熟期を迎えていた。良かれ悪しかれ、行く末が見えていたということだ。
アリアさえその気になれば、道は開ける。
若く、美しく、感受性豊かな子だ。
母は娘に可能性を見ていた。
「レッスンを受けろとか。オーディションに出ろとか。お母さんは、わたしに何も強制しなかった」
でも黙って期待されているというのも、なかなか辛かった。
そう言ってアリアは、苦い微笑みを浮かべる。
「わたしはお母さんの前で、鼻歌ひとつ歌うことができなかった。映画を見て、感想をいうこともできなかった」
ああ、わたしの娘には役者の才能がある!
欠片でもそんな誤解をさせたら、可哀想だから。
アリアは母の前では、自分を縛って過ごしていた。
「で、男の子ですか」
「うん。やっぱり息子は、無条件に可愛いと思えるんじゃないかなって。馬鹿でも、トロくても、グレても、不細工でもね」
女の子の自分が愛されていなかった訳ではない。
しかし母は、娘と自分を無意識だろうが重ね合わせ、比べていた。
娘のアリアは、そのことをチクチクと刺さる棘のように感じていた。
「時が経てばね、ケロッと解決した話だと思う。お母さんも、いつかは目が覚める。愚図なわたしも、最後には女優以外の道へ、どこかに向かって歩き出さないといけない」
しかし突然の母の死。
わだかまりは解決することなく、しこりとしてアリアの中に残った。
「わたしは、お母さんをガッカリさせることさえできなくなった。もう二度と」
「いまのアリアさんを見て、ガッカリなんてするはずないですよ」
誇らしく思うに決まっている。
ぼくの言葉を聞いたアリアは、眉をぎゅっと寄せた。
「はは……あはは……みっともない。わたし、また泣いてる……」
アリアは顔を伏せた。
小刻みに肩が震える。声を殺して泣いていた。
ぼくは彼女が泣き止むのを、じっと待っていた。
「……お母さん、喜んでくれるかな。小説を書くわたしを」
「もちろんです」
か細い問いかけに、目一杯強く頷いた。
アリアが言った。
「わたし、もっとうまく小説をかけるようになりたい」
アリアの言う、”うまく”とは、なんだろう?
決して器用にとか、上手にとか、そういう意味ではないだろう。
“もっと強くなりたい。”
そう言ったように、ぼくには聞こえた。
「うまく小説が書けるようになったら、お母さんのことを書くんだ」
手の甲で涙を拭い、アリアは言った。
「お母さんは女優だもの。ライトの当たる場所にいた人だから……このまま忘れ去られてしまうのは、あんまりだから」
女優・日比野みちるの記憶を繋ぐ。
それがアリアの書きたいことだ。
アリアの物語の中で、アリアの母は何度でも生まれ変わることができる。
「アリアさん、いつかぼくのことも書いてくれませんか?」
「わたしが、セイさんのことを?」
アリアは驚きに目を見開く。
「はい。ぼく、ニレイさん、サキさん。それから谷さん、カナさん、草四郎にエイ……」
思いつく限りの名前をあげた。
「みんなのことも、書いてください」
とても勝手なことを言っている。
それは分かっていた。
この世界に、アリアを繋ぎ止めたい。
ぼくの言葉に力があるとは、思わない。
だからこれは彼女に対するお願いというより、祈りだった。
「全部書き終わるまで、絶対に。絶対書くことをやめないでください」
彼女のこれからが、穏やかで充実した日々でありますように。
ぼくは祈る。
「たくさん宿題を出されちゃった」
アリアが呆れて笑う。
けれどぼくの気持ちは伝わったようだ。
「分かった。善処するよ。いつまでっていう約束はできないけど」
しっかりと頷いてくれた。
「ありがとうございます。あっ、ぼくのことは二枚目に描いてくださいね!」
「そのリクエストにはお答えしかねます」
アリアが笑った。




