57.
アリア!草四郎!
どこだ?どこにいる!?
意識の浮上と同時に、恐慌状態に陥った。
両脇に抱えていた、ふたりがいない。
見知った天井だ。
ぼくはホスピタルの待合室に、寝かされていた。
「やっとお目覚めか」
頭上から、声がかかった。
谷さんだ。
ウサギではない。
人に戻っている。
ミカさんもいる。
いつも通りの鳥の姿だ。
ミカさんが、ぼくの肩の上に舞い降りた。
「アリアさんは!?草四郎は!?」
慌てて立ち上がると、足元がふらついた。
意識に体がついていかないだけだ。ケガはしていない。
「焦らなくて大丈夫。ふたりとも元気だよ」
谷さんの隣には、カナの姿もあった。
「ほら、これ飲んで」
カナがマグカップに緑茶を煎れてくれた。
喉を潤すその熱さが、気持ちを解きほぐしていく。
時計を見れば、午前二時。
エイからの電話を受けて、ぼくらは黄昏の世界に飛んだ。
そこから半日ほど、現実世界の時間が進んでいた。
「アリアちゃんは奥の部屋で眠っている。草四郎くんもいるよ。周平さんが連れて来た」
そうか。
草四郎は下宿にいたのだ。
谷さんも自宅で目覚め、草四郎を拾ってここに駆け付けてきたそうだ。
真夜中で門は閉められていた。
でもこのホスピタルの鍵の隠し場所を、谷さんは先刻ご存知だ。
「カナさんはどうしてここへ?」
ぼくの疑問に谷さんが答えた。
「俺が応援に呼んだんだ。アリアさんの、そばに付いていて欲しいからな」
ぼくは余程、深く寝入っていたらしい。
谷さんとカナがやってきたことにも気づかないほどに。
「草四郎は本当に無事なんですか?あんなひどいケガをしていたのに……」
反省会はあとでいい。
まずはあいつの治療だ。
「お医者さんは、もう呼んであるよ。ウチのかかりつけ医をね」
カナが抜かりなく手配をしてくれていた。
草四郎の負った傷は、尋常の世界のものではない。
普通の医者の手に負えるものでは無いはずだ。
「セイさん、起きたんですね」
まもなく草四郎が部屋に入ってきた。
しっかりとした足取り。顔色も悪くない。
「腕はどうした?」
「ご心配おかけしました」
さすがに、殊勝な顔で頭を下げる。
「起きたとき、これが腕に巻き付いていました。切った事は、間違いないはずなんですが……」
草四郎が見せたのは、血で汚れた布だった。その血はすでに乾いている。
黄昏の世界で、ぼくが草四郎に巻き付けた袂の切れ端だ。
「でもほら」
草四郎が見せた手首には、わずかばかりの傷もない。
やってきたのは、恰幅の良い中年の医師だ。
表向きは大学病院の勤務医。もちろん通常の医師免許も持っている。
往診カバンをちらっと覗き込んだ。聴診器に、体温計、薬剤のアンプル……ごくまっとうな医療器具が収まっている。
「ぼくは大丈夫です。それよりもアリアさんを、しっかり診てあげてください」
コウガミのお抱え医師は、草四郎の言葉に騙されなかった。
「簡単なテストをします」
腕の曲げ伸ばし、握力測定……そこまでは、草四郎も取り繕うことができた。
だが、こいつは馬鹿正直だ。演技というものが、全くできない。
たちまち、異常を見破られた。
草四郎の右手からは、感覚の一部が欠落していた。
熱を感じることが出来ない。
触覚も鈍い。軽い痺れもある。
短い時間なら、動かすことは出来る。
だが笛を演奏するような、精緻な動きはできないだろう。
全治不明。
これが、下された診断だ。
これは通常の傷ではない。”障り”というものだ。
傷は深いのか、浅いものなのか……医師にも判断が付かなかった。
アリアは一度目を覚ました。
しかし医師の診察が終わると、また眠りに落ちた。
「栄養と睡眠をよく取りなさい。しばらく安静にすること」
過度のストレスによる、一時的な意識障害と自律神経の乱れ。
医師の見立てでは、アリアに”障り”はない。
症状は一般領域内に収まっている。
多少の記憶の混乱はある。
だが、それも時間の経過とともに落ち着くだろうという診断だ。
今晩は念のため、カナが付き添うことになる。
谷さんは、ぼくを医師に診せようとしなかった。
体内に埋まっている魔眼のことは、医師にも、そしてカナにも告げなかった。
胸をちょっと押さえてみる。
飲み込んだ目の感覚はどこにもない。
しかし、それは今もぼくの体内で脈打っているはずだった。
サキさんは一度ぼくらの様子を見に来た。今は自室に戻っている。
深夜に立て続けの訪問者。
そして倒れるように眠っていた、ぼくとアリア。
けれどサキさんは、なにも尋ねはしなかった。
ぼくらがどこに行き、何を見てきたのか。
すべて知っているのだ。
静かなサキさんとは、対象的な反応を見せたのはニレイさんだ。
ニレイさんは、午前三時に外出先から戻ってきた。
「えっ!?」
「うわっ?ど、ど、どうしたんですか!?」
ぼくと草四郎は、出合頭にニレイさんの抱擁を受けた。
「おかえり、な」
整髪料と煙草の入り混じった香り。確かな体温を感じた。
ぼくらは遠い場所から帰ってきた。
改めてそれを実感した。
ニレイさんは、続けて谷さんのことも抱きしめる。
おふざけではない、切実な行為だ。
そして彼がウサギだったことを確かめるように、ぽんぽんと頭を撫でる。
「…………」
眉を盛大にしかめながらも、谷さんはその腕を振り払わずにいた。
「おい、アリアくんは?サキくんはどこだ?ふたりは無事なのか?」
「なんですか、騒々しい」
玄関先で騒ぐニレイさんの声を聞きつけて、サキさんも部屋から出てきた。
「俺は大丈夫ですよ。知っているでしょうが」
そしてサキさんもニレイさんの抱擁の餌食になった。
「アリアくんは就寝中です。静かにしてください」
サキさんが苦笑する。
ぼくらは、待合室へ移動した。
ホスピタルには立派な応接間もあるのだ。使用頻度は高くないが。
全員があの場所にいたのだ。
四人で状況を確認し合う必要はなかった。
「悪夢は終わった。お姫様さまを助け出し、探していた宝物を手に入れた。上出来だ」
ニレイさんの言葉に、サキさんも頷く。
「ひとりも欠けずに帰ってこられた。セイくんたちの神様のおかげだな」
だが、その言葉を笑顔で受け取ることは出来なかった。
「申し訳ありませんでした。余りにも、不甲斐なく……」
あとの言葉が続かない。草四郎は唇を噛み、俯く。
「うまくいったなんて、とても言えません……アリアさんは深く傷ついた。それにミカさんと結びついていた、お二人のことも危険に晒してしまった」
申し訳ありませんと、ぼくは謝罪した。
他に言うことは無い。
「…………」
谷さんは黙って、深く頭を下げる。
「阿呆」
ニレイさんが、ため息を漏らす。
「やめろやめろ、揃いも揃って辛気臭い」
サキさんもそういった。
「…………」
謝罪を跳ねのけられて、ぼくらは途方に暮れるよりない。
「三人とも、そこに直れ」
ニレイさんは、びしっと命令する。僕ら三人は待合室の床に、並んで正座した。
そしてニレイさんはぼくらをそのままにして、部屋から出ていった。
しばらくして、盆にグラスを乗せ戻ってきた。
「ほら、きみも手伝え。酒持ってこい」
「は、はいっ!」
ぼくも慌てて、キッチンに向かう。
下戸のサキさんのために、ウーロン茶の缶も持ってきた。
「飲むぞ」
乾杯の挨拶はなしだ。
そしてぼくら五人は黙々と杯を重ねた。
あの世界の空気に、すっかりあてられていた。こわばりを振り払うには、もっと酒が必要だった。
空が白む頃だった。
「次は何が起こる?」
そう尋ねたのは、ニレイさんだった。
「そうだな、それを知りたい」
サキさんも頷く。
ふたりに怯えた様子はない。
気負いもない。
最後まで見届ける。その静かな決意があるだけだ。
谷さんがぼくに目を向けた。
そして手を伸ばし、人差し指でぼくの胸をつく。
「もうすぐ、こいつの持ち主がやってくるはずです」
ぼくの中にある魔眼には、強い力が宿っている。
それを取り戻すために、持ち主は必ず現れる。
早朝だった。
ぼくはキッチンで、酔い覚ましの水を飲んでいた。
そこにアリアがふらりとやってきた。
「おはようございます」
「ん」
アリアがうなずいた。
しかしすぐにムッと眉を寄せる。
「お酒臭い」
「すいません……体調はいかがですか?」
「大丈夫」
「カナさんは?」
「寝てる。疲れているみたい」
普段と変わらない会話ができた。
少しやつれている他は、いつも通りのアリアだ。
昨晩、アリアは幻の弟を失った。
自身も夢の亀裂に飲まれる寸前だった。
アリアは昨夜のことを、どこまで覚えているのだろう。
心の中では、嵐が吹き荒れているのかもしれない。だが、ぼくにはそれを見せなかった。
さて、ポストに朝刊でも取りに行くか。
キッチンから出ようとした時だった。
「セイさん」
呼びかけられて、振り返った。
アリアは張り詰めた顔をしていた。
「ごめんなさい」
小さな声。
「いいんですよ。アリアさんが、無事で良かった」
「迎えに来てくれて、ありがとう」
「どういたしまして」
ぼくは微笑んだ。
この言葉だけで、全て報われた。
そして昨夜の力不足の自分も少しは許せる気がした。
「朝ごはん食べますか?」
「うん、軽く食べる」
アリアが頷いたので、僕は冷蔵庫のドアを開ける。
目玉焼きと、簡単なスープでもこしらえよう。
あとはトーストでも焼けばいい。
アリアはトコトコと、隣の待合室へ歩いていった。
「あ、いた」
そして部屋の片隅で丸まっている、草四郎を見つける。
草四郎は着の身着のまま、寝ていた。
二十歳になったばかりだというのに、こいつも大概酒が強い。
しかし疲労と緊張のせいだろう。アルコールが、普段より回ったらしい。
ぐったりと床に伸びていた。
その隣には、谷さんも潰れている。
五島万のふたりは自室に戻っていた。
「…………」
アリアはそろそろと、草四郎の手を引いた。
「……ん」
草四郎はわずかに反応を示す。だが、すぐにまた寝息を立て始めた。
引き出した右手を、アリアはじっくりと検分した。
草四郎の手首には、目に見える傷は一筋もない。
「セイさん、先生のケガは?」
アリアがくるりと振り向いた。
僕が、背後から息を殺して見つめていた事に気付いていたらしい。
まったく決まりが悪かった。
「見た通りです。痛みはないらしい……だけど少し違和感がある。そう言っていました」
隠すことはない。正直に答えた。
「違和感?」
「軽い麻痺。日常の動作には、影響はない。ただ笛はしばらくお休みです」
「………………」
「そんな顔しないでください」
たちまち俯いてしまったアリアに、僕はそう言った。
「無茶をしたこいつの自業自得です。でも、この程度で済んで良かった。たっぷり寝て起きりゃケロッと治るかもしれません。アリアさんが気にするこっちゃないです」
「先生が無茶をしたのは、私を助けるためだよ」
「それはそうでしょうけど」
手首をバッサリ切ったことも、あのキスも、アリア救出に効果があったのか。実のところは、わからない。
「わたしが先生のために、出来ることはない?」
アリアは、居ても立っても居られないのだろう。
「草四郎が目を覚ましたら、その顔を見せてやってください。それで十分です」
「分かった」
アリアは小さく頷いた。
そして無意識なのだろう、指先で自分の唇をなぞる。
やっぱりアリアは鮮明に覚えているのだ。
あの世界でのことを。
その十分後。
「セイくん、アリアちゃん見なかった!?」
大慌てのカナが、キッチンに駆け込んできた。
目覚めたら、隣で眠っていたアリアが居ない。
アリアは、いま非常に危うい状態のはずだ。
カナが慌てるのも、無理はない。
「ここにいるよ」
アリアの食卓に着いているのみて、カナはほっと息をつく。
「カナちゃん、おはよう」
アリアがぺこりと頭を下げる。
「お、おはよう」
「昨日は、真夜中に呼び出してごめん」
「わたしは全然っ平気だから!むしろ何も出来なくて、こっちこそごめん」
「嬉しかった。カナちゃんが来てくれて」
「えっ……ふふ、じゃあ来て良かった」
まっすぐなアリアの言葉に、カナは大いに照れていた。
「セイくんが朝ごはん作ってくれた。カナちゃんも、一緒に食べよう」
「うんっ」
「で、カナちゃん、今日学校は?」
「あー、うん……休もうと思ってたんだけど……」
「駄目だよ。タクシー呼ぶよ。本当はセイさんが送ってくれればいいんだけど、お酒が抜けてないみたいだから」
わたしはもう大丈夫だから、とアリアは言った。
「分かった。学校には行く。でも辛くなったら、ポケベルで呼んで。すぐ戻って来るから」
本当にアリアが元気になったのか。カナはまだ半信半疑のようだ。
隣室で眠る二人を起こさぬよう、ぼくたち三人は黙々と朝飯を食べた。
アリアはしっかりトーストを二枚食べた。
「学校終わったら、また来るから。夕ごはん、わたしの分も用意しておいてね!」
帰り際に、カナは力いっぱい、アリアの手を握り締めていった。
アリアも、その手をきゅっと握り返した。




